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エレベーターのドアは、すでに閉ざされていた。ボタンを押したが、反応なし。蹴っても叩いても、びくともしない。パネルの光はB9の文字の上なので、ゴンドラは一応、この階で止まっているらしいのだが。
アリーシャに、どうやって乗ったのか尋ねたところ、
「わたしは何のボタンにも触れませんでした」
つまり、雇用促進住宅の幽霊エレベーター同様、いかれているということか。
「それにしても、よくおれたちと合流できたものだな」
「カードが導くままに行動したまでです。マスターとまた巡り会えることは、常にカードに示されていました」
奇術師のように、一枚のカードを指先に現出させ、くるりと表に返した。そこには、バロック期の衣服を身につけた夫婦と子供が描かれていた。夫婦は一人の子の肩を抱いて寄り添い、その子は手にした一輪の薔薇の香りを、うっとりと楽しんでいるようだ。
なぜこのカードが、おれたちの再会を意味するのか。多少はカード占いをやった妻も、驚くべきイマジネーションとインスピレーションで、絵柄と事象を結びつけて解釈したものだが、これは易しい部類かもしれない。この絵柄を見て、別れや失望と結びつける者は、まずおるまい。もし恋占いの答えとして出たなら、質問者を狂喜させたことだろう。
「待つしかないかの。上へ行くためには、時にはいやになるくらい、待たされる場合がある」
トリベノが呑気らしく、床の上であぐらをかいて言う。
「占いといえば、イーチンという古い占いがあっての。そのテキストは何千年も昔にできた、神と人間の競作だというが、森羅万象を全て網羅した回答が書かれているという。その中のひとつに、こんな答えが載っておるよ。飯でも食いながら待っておれ、とな」
「要するに、あんた、腹が減ったんだな」
考えてみれば、どん底からここへ来るまで波乱の連続で、飯はおろか、休息らしい休息をとっていなかった。マキのリュックの中に、缶詰がいくぶん残っているし、見たところ、ワームの類いも貼りついていない様子。ここで少し休むのも、悪くないだろう。
煮炊きはできないものの、マキが金属の皿に缶詰を取り分けて、それらしい見栄えにしてくれた。髪をまたひとつにまとめ、シャツの腕をまくって、かいがいしく働くさまは、意外にヤマトナデシコ的である。ずっと一緒だったというのに、鉄仮面を脱いだとたん、急に女らしさが意識されるようで、おれはいささか緊張した。
対して、アリーシャは始終ぼんやりしていた。どうやら典型的な、家事をこなせないタイプらしい。酒場に雇われていたものの、あくまで占い師としてであり、厨房の処理は親爺が一人で切り盛りしていたものだ。しかも彼女は、基本的に菜食主義者らしく、一人だけ豆の缶詰に塩を振って食べていた。
食事の席で、多少の意見交換がなされた。自分の頭を整理するつもりで、おれは言った。
「ドームを中心とした街並。おそらくは、あれがまるごと麻薬密造者の街だった。バルブはクラーケンの合成に必要な装置だったのではないか。イーズラック人を装っていた住民の正体は、ツァラトゥストラ教過激派、ジークムント旅団の一員と考えられる。では、まるで中性子爆弾を用いたように、住民だけが忽然と消えてしまったのはなぜか」
「その理由はわからない、かね?」
例のモグラから取り外した装置を手入れしながら、トリベノがイヤミな言いかたをした。一つ眼チャペックに襲われた時は、盾にしたくせに。今度はいやに入念に油をさし、磨きをかけている。おれは腹を立てる気にもならず、「そういうことだ」と答えておいた。ニヤリと笑って爺さんは言う。
「旅団の連中が少量のクラーケンか、それに順ずる麻薬を投与されていたことは、お前さんも考えたことだろうて。何のために? 言うまでもなく、アイデンティティーを消すためさ。リビングデッドのような力こそ持たないが、右を向けと命令されれば右を向き、前進を命じられれば、ひたすら前へ進む。例え行く手が多脚ワームの巣であろうと、決して止まらずに」
「まさか……」
「そういうことだよ、お若いの。かれらが死体はおろか、髪の毛一本残さずに消えた理由が、それなのさ。コントローラーを何者かに奪われてしまったんだな。では、奪ったのはいったい誰か?」
もったいぶって言葉を切ると、爺さんは煙草に火をつけた。挑発的な笑みを浮べた口の端にそれをくわえ、おれたちを順ぐりに眺めた。
「ま、そいつを確かめるために、こうして気まぐれなエレベーターが開くを待っておるのだからの。果報は寝て待つことにしようではないか、お若いの。お美しいお嬢さんがたも」
旨そうに煙を吐いて、片目を閉じるのだ。