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……ぶううーーーんんんーーーんん……。
どこかで翅つきワームが飛び回っていた。いやそれとも、時計が鳴っているのだろうか。しかし、こんな妙てけれんな音をたてる時計など、存在するとは思えないが。
眠気が深い霧のように纏わりついていた。百年も錆びたままの鎧戸みたいに、瞼が重かった。
……ぶううーーーんんんーーーんん……。
不可解な音は、しだいに近づいてくるようだ。渾身の力で薄目を開けると、容赦なく白い光が飛び込んできた。なんてこった、カーテンが開いているのか。おまけにすっかり陽が昇っているというわけか。
夜行性の吸血虫が日光を嫌う気持ちが、今こそ理解できる気がした。ここのところずっと仕事がなかったせいで、おれの生態もやつらと似たり寄ったり。日の光を避けて、闇にうごめく。あとは血を吸うか吸わないかの違いしかない。
猫のように虹彩を調整しながら、少しずつ瞼をこじ開けた。ほっそりとした二本の脚が、目の前に並んでいた。レースに縁どられて、太腿もあらわに、白い長靴下につつまれて。
なるほどこれは女の脚だ。それもまだ少女らしい。きっとこちらに尻を突き出す恰好で、前屈みになって何かしているのだろう。翅つきワームみたいな音をたてながら……霧の中に、昨夜の記憶の断片が、ぼんやりと浮かんだ。
(エイジさんは先に戻られてください。追ってお届けにあがりますから)
あの悪夢のような研究室で、そう言ったのは一朗だったか一彦だったか。
とにかくおれは疲れていた。何を考えるのも面倒だった。八幡兄弟の提案を、わたりに船とばかりに帰宅した。電灯をともしたまま、上着だけを脱ぎ、帰り道で買った合成ビールと毛布をソファの上に持ちこんで、ぐったりと身を沈めた。時計を見ると、十一時を回っていた。部屋の鍵は開けっ放しにしておいた。
間もなく記憶が途絶えて、次に目を覚ましたのは真夜中とおぼしい。電灯は消えて真っ暗だった。眠っている間にブラザースが訪れ、「納品」して帰ったのだろう。煙草を吸うために火をつけると、ベッドの上に横たわる、華奢なシルエットがみとめられた。煙草を一本灰にして、おれはまた目を閉じた。
……ぶううーーーんんんーーーんん……。
唸り声の余韻を残して、音が止んだ。ふんわりと、レースがひるがえり、たっぷりと結んだ白いリボンが揺れた。
「お目覚めになったのですね」
見知らぬ少女が小首をかしげていた。
肩をふくらませた濃紺のワンピース。フリルのついたエプロンが、童話的で可愛らしい。この服装に、けれどおれは見覚えがあった。たしか新東亜ホテルで働く、客室係のメイドの制服ではあるまいか。
首長連合の時代、新東亜ホテルはなかば官営の施設で、首長かその血族以外泊まれない、高級ホテルだった。人類刷新会議が政権を握ると民営化されて、庶民も無理をすれば泊まれる程度には、料金が下げられた。二葉がそこでアルバイトをしていたのだ。
希望者が多いため、倍率がすごかったらしいが、それだけ給料がいいのだろう。採用が決まった時は彼女も喜んで、おれに制服を見せびらかしたものである。
しかしどう考えても、ここは高級ホテルとは似ても似つかない。キノコが生えそうなおれの部屋に違いない。少女が手にしているのは、おそろしく旧式の電気掃除機のノズルらしい。なるほど、あれは掃除機の音だったのか。けれど、そもそも由緒正しき新東亜ホテルのメイドが、こんな所でキノコ人間の世話を焼く道理など……
「わああっ!」
おれは跳ね起きた。ソファの背を乗り越えて、後ろに転げ落ちた。こんなヤワな素材が盾代わりになるとは思えないが、一秒くらいは時間が稼げるだろう。ポケットからM36を引き抜き、銃口を床につけたまま、トリガーに指を添えた。弾薬はすでに装填してあった。少女はくるくると目をまるくした。
「どうかなさいましたか?」
「きみは……」
イミテーションボディ。
と、言おうとして口をつぐんだ。いや、髪形といい顔立ちといい、確かに昨夜、培養液の中で見たのと同じ少女である。けれど、弾丸を粉砕したときの凄まじい殺気が、今は微塵も感じられない。あどけない少女が、無防備につっ立っているだけである。おれが銃を構えていることなど夢にも知らないような、はにかんだ表情で。