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だれに訊くともなく、おれはつぶやいた。情けないくらい、声が震えていた。
形状は、ほぼカノウ氏が遺したラフスケッチどおり。インクで染めたような青い水の底に沈む、巨大なタマネギ。その最もふくらんだ部分に、船形の「眼」が一つ。内部で何を燃やすのか、そこで緩やかな強弱を繰り返す光が、円筒形のプールをとおして、ドーム全体を照らす主な光源になっていた。
ぶ厚い壁をとおして伝わる振動。禁断の経典「クル・アル・ル・アーン」を読み上げる断食僧の声のように、震動は低い唸り声と化して、薄闇を呪いの言葉で満たすようだ。
バルブに関するおれの知識は、通り一遍等でしかない。実在すら疑われる、IBに関するおびただしい伝説の一つといった認識だった。だから、タマネギの化け物の中身が、どういった構造なのか。キュクロプスのような一つ眼が何を意味するのか、まったくわからない。伝説によると、IBを新たに建造するために、バルブが必要不可欠であるという。
子宮のように、あのタマネギの中で何かが生まれつつあるというのか。胎動し、薄く眼を開け、震える腕を差し伸ばそうとしているのか。一部の気の触れた連中にとって、IBを飼い慣らすことは、最大の宿願である。もはや手の施しようがない荒野のIBどもと異なり、みずからの手で新たに生みだせば、狂気の宿願はより成就されやすくなる。
見てはいけないもの。ここにあってはいけないもの。
(マスターがそれを望まれるのでしたら、ご命令どおり致します)
呆然と、おれは目を見開いていたに違いない。アマリリス……
きみもバルブの中で生まれたのか?
「なに、単なるレプリカだよ。オリジナルでもなければ、たいして珍しいものでもない」
いつの間にかトリベノが立ち上がり、錆びたパイプにもたれていた。ようやく減らず口を叩ける余裕を取り戻した、といったところか。
「煙草を一本くれぬか」
「闇煙草屋にたかられるとはな。珍しくない、とはどういう意味だ」
よれた煙草を指で伸ばし、トリベノはライターをともした。炎に浮かぶ顔は蒼白で、十歳も老けたように感じられた。
「不思議だと思わんかね? なぜ我々は、IBに駆逐されておらん? 通常兵器をはるかに陵駕し、人間への憎悪に駆られた連中が、荒野にごろごろしているというのに」
むろん、そのことは、おれも考えないではなかった。普通考えずにはいられないだろう。都市地区なんて、荒野に浮かぶ離れ小島のようなもの。そして荒野は、かれらの領域である。集団で都市を囲み、一つずつ潰していけば、ひとたまりもあるまい。
けれど、かれらがほとんど集団行動をとらないことは、処理班時代の経験から、知悉していた。群れてもせいぜい、二、三体がいいところ。共闘する知能がないわけではあるまい。プログラムによる抑制など、様々な説が唱えられたが、統率者の不在が、最も有力な説として、これまで信じられてきた。
「ボスがいないせいだと、聞いているがね。これも伝説といえばそうなんだが。第二次百年戦争末期に、人類に反逆をくわだてた、そもそもの大もとであるボスが破壊されたとか」
「いわゆる、総統IBというやつだな。そいつに関しては、ワガハイも一家言持っておるが、ここでは触れまい。やつらが骨抜きにされた状態に甘んじておるのは、バルブのせいだという噂があっての。むろん、オリジナルのバルブは一つしかないが、こういったレプリカが複数建造され、世界各地に散らばっているというのさ」
極秘裏にな。そう付け足して、トリベノはゴーグルの上で眉根を寄せた。おれはぞくりと肩を震わせた。
「何のために? IBを新造する以外の、どんな使い道があるというんだ?」
「逆にIBへの抑止力になっているというのだよ。よくある話じゃないか。人間という、どうしようもなく愚かな生きものは、核兵器をちらつかされるまで、世界戦争をやめなかった。しかしそいつがマガイ物の平和であったことは、核からIBへ至る歴史が証明しておる。核のお次が、バルブだったのさ」
「あんたの文明批判なんか、聞きたくもないね。世界を引き締めるためのバルブ……弁があるだなんて、まるでお伽話じゃないか。弁をことごとく緩めれば、世界はばらばらになっちまうと言いたいのかい。いったい誰が、いつの間にそんな大掛かりな仕掛けを作ったんだ?」
トリベノは無言で煙を吐き出した。足もとで水の音が聞こえ、あやうく飛び上がりかけた。水面に大きな波紋が広がり、甲殻類じみた黒い影が沈んでゆく。水棲ワームが跳ねたらしい。トリベノは言う。
「少なくとも、今言えることは、ここにバルブのレプリカを発掘して、何事かを仕出かそうとしている連中がいる。もしくは、いたということさ。行きますかな」
最後の一言は、マキに向かって発せられた。彼女は身を起こし、わずかにうなずいた様子。おれの意向を無視して、話が進んでいることは気に入らなかったが、かといって、ここで茶飲み話に興じている暇はない。
「わかったよ。行けばいんだろう」
おれはプールの上にわたされた、いかにも危なげな橋に足をかけた。