51(2)
ポスターを追って歩く間も、街路には相変わらず人影がなかった。マキの両親は、大量の血を残して消えたというが、ここの住人は涙一滴こぼさず、消滅したのではあるまいか。
けれど、街並自体は、こんな地の底にありながら、むしろ美しいのだった。背の低い二階家が整然と並び、ゴミや落書きは全く見当たらない。さすがに街路樹はないけれど、道の脇には水路が流れ、透明な水をたたえていた。もっとも、透明だからといって、毒でないとは限らないが。いずれにしても、麻薬の密造・密売といったイメージからは、程遠いのである。
「エイジは、かれらがイーズラックではないと考えるのね。じゃあどうして、かれらの瞳は、色が違ったのかしら」
驚くほど思いつめたような声で、マキが尋ねた。無理もない。ずっとイーズラック人を親の仇とみなし、追い続けてきたのだから。
「イーズラック人の瞳の色がなぜ変わるのか、科学的には解明されていないんだよ。おれがあえて言うまでもないことだけど。ジークムント旅団の場合、麻薬の副作用とも考えられる」
「洗脳されていたというのね。微量のクラーケンを与えて、麻薬の製造に従事させていた、と。エイジは、クラーケンに侵された人を見たんでしょう」
「ああ。でも、リビングデッド化した者たちの瞳がどうなっていたか、ちょっと思い出せないな。瞳孔が開いて、腐敗も始まっていたから、やはり色素が飛んで、どろりと濁って……」
電気的な信号に、こめかみを貫かれ、覚えず足を止めた。振り返ると、同様にマキも立ち止まり、通り過ぎたばかりの建物を、かえりみていた。爺さんがニヤニヤ笑いながら、腰に手をあてた。
「プルートゥのほうが、コンマ五秒早かったわい」
ひとつの建物のガラス張りの入り口が、三分の一ほど開いたままになっていた。ミラーグラスになっているのか、風景を反射するばかりで、中の様子は覗けない。また開いている部分は、濃い闇で塗りつぶされていた。
あやうく声を上げかけたのは、そこに人影を見たような気がしたからだ。ポスターの少年ではない。その証拠に、貼ったばかりのポスターが、まだ先まで続いている。それにおれが見た人影は、たしかに女だった。腰まで届くほどの、長い髪。そしておそらくは、猫のように光る瞳を見た。
明らかに、マキは戸惑っている様子だ。ナイフを抜いて踏み込むべきか。その点はおれも同じで、もし街の住人が残っているのなら、クラーケンに関する情報を引き出したい思いはある。場合によっては、銃にモノを言わせて……おれはマキの肩に手をおいた。
「引き返すという選択肢もあるだろう。招待に応じてからでも、遅くはないさ」
近づくにつれて、赤銅色のドームは、奇怪なディテールでおれの目を圧倒した。居住区の中心に位置するため、あたかも大聖堂のような印象だが、細部に組みこまれた機械類やパイプによって、こいつがばかでかい一つの装置であることが知れるのだ。
建物群が急に途切れた。目の前に横たわるのは広場ではなく、並々と水をたたえたプールだった。ここからドームの入り口まで、唯一の、細長い橋がわたされている。
「それで……どの建物も二階の窓がなかったのか」
おれがつぶやくのを聞いて、トリベノがまた鼻を鳴らした。ピルトダウン人なみの頭脳が、ようやく追いついたようだな、とでも言いたいのだろう。つまり、この街そのものが、ドームを中心としたひとつの装置だったのだ。今は居住スペースと化している一階部分は、もともと存在せず、支柱が立っていただけなのだろう。
そうしてどの家の二階にも、ぎっしりと機械が詰まっているに違いない。おそらくは、冷却装置が。
橋には欄干も何もない。やっと一人がわたれる幅の金属板は、全長二十メートルを越えるだろう。プールは深く、水は異様に青くて、天井から落下したとおぼしい瓦礫が、ごろごろと沈んでいた。瓦礫の間を、太古の甲殻類じみた生きものが、這うように泳いでいるが、水棲のワームとおぼしく、IBではなさそうだ。
一応銃を抜いて、そいつを警戒しながら、厭な揺れかたをする橋をわたった。向こう岸も錆びついた金属板で、無数のリベットで補強されていた。顔を上げると、ドームの表面には、やや唐突な感じで、ドアが嵌めこまれていた。
むろん、童話的な樫の一枚板などではない。ハンドル式の取っ手のついた、ドアというより、ハッチと呼びたくなるシロモノ。そいつの表面には、例の赤いポスターが一枚、べったりと貼られていた。
ハンドルを回すと、金具が外れる手応えを感じた。懸念されたような、鍵はかかっていなかったが、重い扉を開けるのに、猫の手ならぬ、爺さんの力を借りなければならなかった。錆と薬品の入り混じった異臭。覚えず鼻を覆ったとき、また電気的な信号がぴりぴりと脳を突き刺した。
「たぶんいると思ったんだ!」
悪態をつきながら、逆噴射するように扉から離れた。がちゃがちゃという、まがまがしい機械音が、中の暗がりで響いた。やがて這い出してきたものは、けれど、予期していたような掃討車ではなかった。ぼろぼろに錆びた救命カプセルを縦にして、昆虫じみた六本の脚で支えたような……軍用チャペックだ。
それもどえらく旧式なやつ。ひょっとすると、第二次百年戦争の遺物かもしれない。そいつが二体、一個の目玉をおもわせるセンサーをぎょろつかせながら、這い出してきたのである。