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「これも映像なのか」
「あまり長いこと見つめないほうがよい。光学的催眠術が仕掛けられておるからの。ものの五分も見ておれば、お前さんは仔犬が欲しくてたまらなくなるだろう」
慌てて視線をショウウインドウから引き剥がした。
「そのての技術はロストテクノロジーに属するって、学校で習ったぜ」
「学校では存在すら教えておらんよ」
「なんでそんなものが、こんな所に……?」
「ワガハイに訊かれてもな。ひとつだけはっきりしておるのは、こいつが対侵入者用の、手の込んだトラップだってことさ。カタギの人間なら、二、三軒覗いただけで気が触れておる」
げんなりする思いで、「商店街」を見わたした。
天井が二階家のすぐ上までせまっている。あれでは屋上で洗濯物も干せないし、視界もさえぎられる。そもそも、どの二階にも窓がなく、コンクリートで塗りつぶされた上に、巨大な看板をかかげているのだ。二階の脇から、人が潜れるくらいの巨大なパイプが突き出して、隣の二階と連結されている。
あるいは、あの中に人の住むスペースはなく、機械がぎっしり詰まっているのではあるまいか。ゼンマイ仕掛けの自動人形の台座のように。
おれたちとプルートゥを除けば、通りには猫の子一匹歩いておらず、神経質な自動清掃車に掃き清められたように、紙くずひとつ落ちていない。どの「店」も真新しくはないが、看板といいガラスといい、執拗なまでに磨きこまれている。少なくとも、ここを管理している何者かがいることは、明らかである。
ただひとつだけ、辺りの秩序を崩している存在に気づいた。普通、どの居住区でも、壁はおろか電柱やパイプから窓に至るまで、貼り紙やポスターの類いに埋め尽くされているものだ。今となっては懐かしくさえある、アルチュール・ランボー氏に案内された「幽霊船」の中といえど例外ではなかった。
ところが、この「街」にはそれがない。金属とコンクリートが半々に入り混じった壁は全て露出しており、ごく最近、磨かれた形跡さえある。にもかかわらず、目の前の店の壁には、ショウウインドウにはみ出すほどべったりと、真新しい真紅のポスターが貼られていた。
顔を近づけた。めまいを覚えるほどの、真新しいインクのにおい。けれど、おれが呆然と立ちつくしたのは、においのせいではない。半紙サイズの、光沢のある、チャイニーズレッドのコート紙には、書きなぐったような黒いインクで、逆さAの紋章が刷られていたからだ。
ツァラトゥストラ教!
紋章のほかには、文字も数字も刷られていない。ポスターはその店に一枚、次の店に二枚、向かい側に一枚、と、無造作に、無差別に貼りつけたようである。それはどこか、奇怪な音楽と相まって、超小型偵察機ソフトボールの目を盗んで、ロックコンサートのビラを貼ってまわる、街の悪ガキどもの足どりをおもわせた。
「エイジ、あれ」
囁き声とともに、軽く肩をたたかれた。マキが顔を向けた行く手へ、おれも視線を走らせた。路地にぽつんと、一人の少年がこちらを向いて立っていた。小脇にぶ厚い紙の束を抱えて、しなやかな草食獣のように、じっとおれたちを凝視しながら。
(……ワット?)
とっさになぜそう感じたのだろう。
少年は竹本ワットよりも明らかに年かさで、十二、三歳くらい。背はずっと高いし、髪も普通に短い。白いシャツに、ぶかぶかの黒い吊りズボン。左腕には赤い腕章を嵌めており、この距離からでは確認できないが、おそらく逆さAの紋章が、黒々と染め抜かれているに違いない。
無言の睨みあいが続いた。十五メートル近く離れているだろうか。それでも少年の顔が、非人間的なまでに整っているのがわかる。白い肌、切れ長の目、美しい鼻筋。少女のような唇は妖しげに赤く、どうやらかれは薄化粧をほどこしているらしい。そうして少年の瞳の色は、白金色に輝いて見えた。マキがナイフを抜く気配を感じた。
「よせ、子供だぞ」
彼女の前に肩を割り入れたとき、少年は踵を返して駆け出した。
「おい、待てよ! 聞きたいことがあるだけだ」
白い背中は、たちまち先の角を左に曲がって消えた。振り返ると、彼女は鉄仮面を軽く左右に振って、ナイフをベルトの鞘におさめた。もういる筈もなかったが、少年の足どりを追いかけておれたちも角を曲がった。トリベノとプルートゥは、黙って後からついてきた。
同じ規模の店が並ぶ、同じような路地が続いていた。ここは一種の迷路であはるまいか。トリベノはトラップだと言ったが、侵入者を延々とさまよわせれば効果は倍だろう。赤いポスターはこの通りにも貼りつけてあるが、途中の楽器店を最後に、ふっつりと途絶えていた。