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ものの三分で交渉は終わった。
「プランは最良の安定剤だからのう。少なくともそいつが進行している間は、ひたすら闇雲な人生と向き合わなくてすむ」
トリベノはみょうな皮肉を言うばかりで、具体的な「プラン」への質問はいっさい寄こさず、そこが不気味といえば不気味だが、ゆえに話は早かったのだ。何を考えているのかわからない点を除けば、かれは協力的といえた。自作とおぼしい「船底」の図面を広げて、彼女との打ち合わせに余念がなかった。
横目で二人を眺めながら、夜明け前に少し眠った。マキと踊る夢を見た。
ブリューゲルだか誰だかの絵に、中世期の農民たちのダンスを描いたものがあった。絵の中で、女と組んで踊る農夫たちは、コドピースと呼ばれる股袋をつけ、勃起した男根を、これ見よがしに誇示していた。
数年前、酔狂な業者がこのコドピースを復活させて売り出したところ、旧政権時代のデカダンス趣味と合致してか、大いに流行した。乳房と異なり、千年にわたって抑圧を余儀なくされてきた男根は、ここにおいて、復権したかに見えた。流行が一年で終息し、再び公けの場における居場所を失うまで。
夢の中で、おれはそのコドピースを装着していた。猫の仮面をつけた楽師が、ポンコツのヴァイオリンでジーグを掻き鳴らしていた。農夫の恰好をしたおれと異なり、彼女は鉄仮面の下に、バロック期の貴婦人のようなドレスを身につけていた。
くるくると回るたび、ストッキングに包まれた脚が、腿の付け根まで露わになった。
音楽のテンポが落とされると、おれたちは体をぴったりとくっつ合って踊っていた。コドピースがコルセットに食い入った。彼女が身をすべらせる動作も、舞踏の続きのように自然でなめらか。おれの腰を抱くかたちにひざまずき、カチリと音をさせて仮面の庇を少し持ち上げた。唇が、コドピースを呑みこんだ。
舌がからめられた。
「顔を洗いたいんだが」
「汚染水でよければ、ほれ、いくらでも溜まっておろう」
「わかったよ。ちゃんと飲むから、水を一杯くれ」
モグラの荷台の後部には給水タンクが設置されていて、少なくとも五十リットルは入るようだ。隠れ家でも補給していたので、まだ満タンに近い筈だが、こと水に関する限り、爺さんはものすごくケチになる。きっと渇きで死にかけた経験があるのだろう。
朝飯を食う間、なかなかマキを正視できなかった。やわらかな唇の感触が、まだ股間にまとわりついてた。彼女は相変わらず鉄仮面の庇を少し持ち上げ、長めのスプーンを起用に動かしていた。その先にある見えない唇が、かえってリアルに思い起こされるようで、おれはまた目をそらした。
「もともと猫はあまり好きじゃないんだけど」
昨夜以来、プルートゥはすっかり彼女になついた様子で、缶詰の分け前を一瞬で平らげたあと、彼女の膝の上で目を細くしていた。爪楊枝を使いながら、トリベノが尋ねた。
「犬のほうがお好きかの?」
「飼ったことはないけど、たぶんね。かれらの行動は単純明快だし、狩りや護身に役立つ。でも猫は……」
「甘えるだけの愛玩物に過ぎない、か」
そう言っておれは疑問混じりの煙を吐いた。なるほど、犬を好む性格はいかにも彼女らしい。合理的なシンプルさを好み、不合理な暗い情念を切り捨てようとする。そうすることで、狂気じみた世界の混沌から身を守っているようにも見える。だが果たして本当に猫は、ただの愛玩物として取り入れられたのか。
「何を考えているの?」
「太古の魔法使いについてさ。そいつはきっと女で、一匹の黒猫を連れている」
午後から「雨」が降り始めた。降るさまは地上の雨と変わらないが、赤い色をしていた。鮮血の赤ではなく、錆びた鉄の色。
おれは荷台の上に防水シートを広げ、猫を抱いたマキとともに、その下に潜りこんだ。トリベノは悠然と運転席で煙草をふかしながら、かたわらにくくりつけてあるコウモリ傘を開いた。
「はん、この程度では雨のうちに入らんよ」
それでも高濃度の汚染水を浴び続けるのは、気分のいいものではない。雨の中を二時間ほど走っただろうか。シートの隙間から覗いていると、前方に建造物の黒々とした影があらわれた。古城をおもわせる真っ黒な塔で、先端はしきりに水を滴らせている「天井」まで達していた。