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トリベノは何も言わず猫を膝からおろした。おれが差し出したM36を、片手を上げて断り、代わりにマキのナイフを一本拝借して、口笛を吹きながらトーチカの外に出た。
「奇麗な猫ね。まるで純血種みたい」
寄ってきた猫の背に手を触れて、彼女は言う。軽く撫でると、やはり指先から緑色の星が、ちかちかとこぼれた。彼女は何気なく「純血種」と口にしたが、じつに逆説的な単語である。遺伝子操作によって愛玩用に改造された小動物は、むしろ人工種と呼ぶべきではあるまいか。
ただし、この猫に限っては、必ずしも愛玩用に改造されたわけではなさそうだが。
「プルートゥという名だ」
「冥府の王、か。トリベノさんじゃないけど、エイジは詩人ね」
「おれがつけたわけじゃない」
猫を撫でる手が止まる。うつむき加減のまま、マキはつぶやく。
「いったい何が起きているのかしら。わたしが詩、みたいなことをつぶやいても似合わないけど。あなたが現れてからというもの、世界は魔法にかけられたようだわ」
「どんな魔術にもトリックはある。たとえ神の手によるものだとしても。タネが見えるか見えないかの違いに過ぎない」
「トリベノさんに席を外させたのは、わたしにタネ明かしをしてくれるため?」
マキの印象がいつもより柔らかく感じられた。相変わらず硬い仮面に隠されているが、むしろそれゆえに、秘められたたおやかさが引き立つようだ。少々どぎまぎしながら、おれは上着に手を突っ込んだ。次の瞬間、差し出された『電気技術の歴史』を、彼女はためらいがちに受け取った。
「これは?」
「端が折れているページを開いてみてくれ」
立ったまま、カノウ氏の書き込みに彼女が目を通し終わるまで、煙草をゆっくりと一本吸った。旨いものではなかった。靴で火を揉み消しながら、彼女の溜め息を聞いた。
「やれやれという感じね。タネ明かしどころか、余計に混乱が増すばかり」
泣きだすかと身構えていたところ、意想外な声の明るさに、ずいぶん救われた気がした。たとえ好意を寄せている相手であれ、愁嘆場はごめんこうむりたいという、おれは冷酷非情な人間だ。新しい煙草に火をつけ、同情のカケラもない質問をするくらいしか能がないのだ。
「絵地図に示されている場所がわかるか?」
「ええ。このての地図を、父は多くファイリングしていたわ。いわば、『幽霊船』の裏技リストってとこかしら。ただ眺めているだけでも楽しくて、子供の頃からよく覗いていたの」
「そいつはステキだ。ならばこの地図の断片も……」
「当然わたしの頭の中の絵地図に、嵌めこむことができる」
唸りながら、彼女の隣に立ち、開かれたままのページを覗きこんだ。悪夢的な線の集積から、一つ目の球根がおれを睨み返した。
ピルトダウン人なみの頭をどんなにひねったところで、こんな所に忽然とバルブが出現した理由など、わかるわけがない。またこの化け物が合成麻薬「クラーケン」とどう関わっているのか、知るよしもない。あるいは全く無関係なのかもしれない。が、何か引っかかる。錆びついた思考力の底で、何者かが叫んでいる。
おれは煙草を捨てて、彼女を抱き寄せた。
「エイジ……?」
瞬時、彼女の細い体に、肉食獣めいた緊張がみなぎった。だがすぐに真意を察したらしく、すっと力が抜けるのがわかった。腕の中には、ただしなやかな肉体だけが残った。唇が、仮面の耳もとにひんやりと触れた。
「あの爺さんをどこまで信用していいかわからないが、必要な情報を握っているのは確かだろう。なんとか地図が示す場所まで、やつを引っ張って行きたいんだ」
「わかった。でも、わたしも詳しいわけじゃないんだけど、バルブを収納するためには、少なくとも原子炉なみの設備が必要なんでしょう。こんなゴミ溜めみたいな場所に、ぽんと放り込んでおけるようなシロモノではない筈よ」
「実際、そのてのミッシングリンクだらけさ。だからこそ、欠けたパズルのピースを埋めるためにも、あの男が必要な気がする」
咳払いが聞こえた。振り返ると、モグラに片手でもたれて、トリベノが立っていた。もう片方の手に引っ提げたナイフには、多脚ワームの幼生が一匹、貫かれていた。なおも蠢く脚を眺めて、おれは眉をひそめた。
「こんなチビ助でも、襲われればたちまち骨にされてしまうからのう。そろそろお邪魔させていただくよ、ドン・ジュアン君」
「ドン・キホーテの間違いだろう」
トリベノは口の端を吊り上げた。その後ろで、モグラの赤い眼が、すーっと光を消した。