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カノウ氏の書き込みはそこで終わっていた。
本を閉じて、無意識に膝の上に押しつけた。おそらくまっ蒼になっているだろう、顔を上げると、やはり二人ともこちらを見てはいない。マキはともかく、とくにトリベノにこのことを告げてよいものか。もしも彼女が睨んだとおり、かれが球根を……いや、
バルブを追い求めているのだとしたら。
「エイジ、まだ寝ぼけてる?」
びくりと肩が上下した。首筋を伝う、冷たい汗の感触。強いて微笑んでみたが、笑顔に見えたかどうか心もとない。極力さりげなく本を上着の中に押し込み、かれらに近づいた。
加熱器の上に鍋がかけられ、缶詰の青菜と肉が煮えていた。大きなスプーンで、マキが食器に取り分けているところ。
飯を食う気分ではなかったが、胃は温かい食事を喜んでいるようだ。あらためて、自身の貪欲なまでの生命力には呆れてしまう。狂乱の果てに朽ち果てようとしている、この世界を目の当たりにしながら、なおもおれの体は食い物を求め、生きようと欲している。呆れるほど図太い神経に支えられて。
とある学者の統計によれば、現代人はおよそ五百年前の人間と比べて、放射能への耐性が二十倍以上高いのだとか。五百年前といえば、限定的民主主義の時代か。もしもかれらをタイムマシンにむりやり乗せて、この世界に連れて来れば、一週間を待たずに死を迎えるだろうとその学者は述べていた。
「ここでほかに人を見たことがある? もちろん、煙草屋とわたしたちを除いて」
金属のカップにあやしげな紅茶を注ぎながら、マキが尋ねていた。爺さんは口の端に煙草を挿しこんだ。
「人、という定義にもよるがの。ヒトのカタチをしたものなら、案外よく見かけるよ」
「みょうな言いまわしだな」
おのずと眉をひそめた。ヒトのカタチをしたヒトでないものといえば、どうしても「擬人」を思い浮かべてしまう。あるいはヒトの成れの果てであるという、退化猿人をも。
おれはついに、カノウ氏の書き込みについて話さなかった。本はさりげなく丸めて、ホルスターの脇に突っ込んでおいた。さいわい、マキも爺さんも本の行方には無関心で、追及する気は全くないようだ。トリベノは言う。
「生粋の船の人間で、ここへ落ちて来る者は極めて少ない。その点は、お嬢さんも心当たりがあるだろう」
マキはうなずいた。カノウ氏がここに隠れ家を作ったのも、おそらくは船の人間の目から逃れるためだった。
「逆に幽霊船の船底といえば、ある意志をもった外部の者たちの間では、けっこうな名所でな」
「ある意志とは?」
「みずから命を絶つための、さ」
「いわゆる、象の墓場か」
「なかなかの詩人だね、お若いの。たしかに、象の墓場というのは、人の願望が生み出した詩なのかもしれん。なぜ絶望した多くの人間が、こんな所に死に場所を求めてやって来るのか、なぜ社会に背を向けたあと、世界の果てを目指すのか。ひとつの文化人類学的謎としか言いようがない。中でもこの場所は、生と死の境界が限りなく曖昧な所での」
眉間にシワを寄せて、トリベノは煙を吐いた。永遠の黄昏を背景に、煙は奇態な頭足類のように身をくねらせた。かれは続けた。
「例えば、瓦礫がちょっと小高くなった辺りに人影が見えたとする。五人以上が一列になって歩いていたとする。お揃いの白っぽい服を着ているのかと思って、近づいてみれば、皆、三メートルを超える背丈で、全身がぼうっと光っておるのだよ。顔の特徴もわからないのっぺらぼうでな。瓦礫の丘を越えたところで追いついてみると、跡形もなく消えておるのだよ」
「とんだ怪談話だな」
「さよう、このての話には事欠かんよ。水溜りの中に、何だかわからないものがいるのを見たこともある。深さ五メートルばかり溜まった汚染水の中を、そいつは這っておるのさ。やはり白っぽい全身がのっぺりしておって、太い尻尾のようなものが、生えかけておったな」
マキに目を遣ると、仮面の口もとを手で覆っていた。話題の方向性を変える必要がありそうだ。
「もしかすると、あんたの煙草には少しばかりホンモノが混ざっているんじゃないか。おれたちが知りたいのは、そんな幽霊の類いではなく、より素性のはっきりした連中についてだ。例えば……」
「イーズラックのような」
言葉を継いだマキへ、トリベノは鋭い視線を向けた。これまで見たことのない眼光が宿っていた。かれが何か言おうとしたとき、かたわらで猫が鳴いた。
猫が?