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ニヤリと笑った口の端に、爺さんは煙草を挿しこんだ。かさかさの手の中で、パッケージの毒々しい絵柄が映えた。今にも蝕碗を蠢かせそうな怪物を眺めながら、無意識に眉をひそめた。やはり、こいつを中に入れたのは間違いだったのだろうか。
煙を吐き出して、トリベノはつぶやく。
「お嬢さん、退化猿人をご存知かな」
「名前だけなら」
「ほお、どこで耳にされた?」
「父が言っていたわ。死ぬ前の父は、脈略のないことを口走るようになっていたけど。なんでも、そいつが急に殖えはじめたせいで、地下でなく、船外へ脱出することにしたとか……」
無言でうなずいて、トリベノは煙草を揉み消した。かたわらの鞄を引き寄せると、右腕を突っ込んで、掻き回しはじめた。みょうなものを出したら、ぶっ放す気でいると、やがて帆布の切れ端に包まれたかたまりをサルベージした。
テーブルにスペースを作り、油の染みた帆布を載せた。果実の皮を剥くように包みが解かれると、オレンジ大の、白くかわいたものがあらわれた。
「サルの頭蓋か?」
にゅっと突き出た二本の犬歯が、まず目をひいた。下顎は欠いている。眼窩が大きくえぐられ、頭は後方にひしゃげている。人間の頭蓋の面影を留めてはいるが、ずっと野性的かつ攻撃的な印象。頭蓋そのものが、ひとつの鋭利な兇器をおもわせた。
しかしいったい、この骨から発せられる、異様にまがまがしいインパクトは何なのだろう。古来、原始人類の化石を追う学者に変死者が多いと聞く。もしこいつがただのサルではなく、人類に繋がる進化の枝に属するものならば、それもわかる気がする。見てはいけないもの、あってはならないものを、目の当たりにしているようなのだ。
牙を剥いた頭蓋は、あまりにも背徳的な人類誕生の秘密を、今にも語りはじめそうである。存在のまがまがしさにおいては、IBをはるかにしのぐ「人類」がなぜ生み出されたのか……
「あまり凝視するのは危険だよ。骨になってもなお、こいつは見る者を悪夢へ引きずり込むよ」
ハッとして顔を上げた。おれと目を合わせて、トリベノはまたニヤリと笑い、白い骨の上に手をかざした。手品師のようにもったいをつけたあと、くるりと骨を裏返した。マキが小さな叫び声を上げ、おれも咽の奥でうなった。サルの頭蓋の裏側は、顎はおろか、頭骨の裏側にいたるまで、尖った歯でびっしりと覆われていた。
「とても尋常な生物とは思えない」
「厳密に生物と呼べるかどうか、ワガハイにも心もとない。いかんせん、専門外なのでな」
「生物でなければ何だというんだ。現に頭蓋骨を遺しているじゃないか。機械生命体なら、外骨格の筈だろう。内部骨格をもつIBなんて、聞いたことがない」
そう。アマリリスを除いては……
「誰もIBだとは言うておらん。なるほど、現実と悪夢に片足ずつかけて、またがっているようなところは、IBと似ているかもわからん。実際こいつを手に入れた当初、ここまで多くの歯は生えておらんかった。どうやらこいつは、骨になってもなお、現実を浸蝕する能力を有するらしい」
「いったいこれは?」
「退化猿人だよ」
部屋の温度が一気に下がった気がした。トリベノは怪物の頭蓋を、再び帆布で覆った。帆布が発するひどい油の臭いが、怪物の封印に役立っているのかもしれない。鞄に仕舞われると、ホッとせずにはいられなかった。トリベノはまた煙草に火をつけた。
「なぜこんなものが出現したのか。北方の都市では、人型のワームがあらわれたと聞くが、どうもワームやIBとは、発生の系列が異なっているようだ。ワームが人工生生命体の退化した存在だと仮定すれば、こいつは文字どおり、退化した人間だよ」
そんなばかな話があるだろうか。遺伝子の流動性が高い機械生命体と違って、人間の「進化」は気の遠くなるような時間を経たものだ。そうそう短い間に、遡行できるものではないだろう。たしかにクロック鳥のような、短期間で大増殖した突然変異体はよく見かけるが、かれらは決して「退化」したわけではない。
うわ言のように、それらの疑問を口にすると、爺さんにしては珍しく、気難しそうにうなずいた。
「生物ならばな、そういう理屈も当て嵌まるかもしれんが。少なくとも退化猿人に関しては、古典的な進化論は通用しない。ダーウィンを飛び越えて、ユングの領域に足を突っ込んでいるのだよ。その点もIBと似ておるかの。いずれにせよ……」
「物理的な障壁がどれほど役にたつか、保障の限りではない」
マキが言葉を受けて、そうつぶやいた。隠れ家の鉄壁も、アテにならないというわけだ。トリベノはまたうなずき、天井へ向けて煙を吐いた。贋麻薬の煙の中で、電灯の光がにじんだ。