44(1)
44
「マキ、おれだ。風呂は済んだか?」
ノックしつつ声をかけた。おれの隣では、よれよれの大きな鞄を一つ提げて、爺さんがもの珍しそうに、錆の浮いた鉄扉を眺めていた。背後には、太古の怪物のように、モグラが黒々と横たわっている。
「ほほお、気の効いた隠れ家だわい。まったく、遺棄されたコンテナが転がっているようにしか見えんて」
しきりに感心する小男の隣で、おれは溜め息をついた。じつに爺さんは、頭二つぶんくらいは小さい。こんな得体の知れない小怪物を、中に入れてしまってよいものか、まだ心の隅で迷っていた。マキの意向次第では、追い返そうと思案するうちに、中から声が応えた。
「済んでるわ。さっきちょっと部屋が揺れたけど。だいじょうぶなの?」
「まあな。ところで、お客さんを連れて来たんだが」
「は?」
彼女は絶句した様子。爺さんとの経緯を説明すると、少し考えてから、「直接話させて」と言う。目顔で合図したところ、爺さんは親指を立てた。ドア越しに、マキが尋ねた。
「あなたの名前は?」
「久しく呼ばれておらんから、思い出すのに苦労するわい。たしかトリベノといったかの。ファーストネームは忘れた」
やはりどこかで聞いた覚えがあるが、思い出せないまま。
「船の人間?」
「例えるなら、船倉に忍びこんだ密航者といったところだよ」
「わかりやすい例えね」
「しかも幽霊船の船倉だからのう。化け物の宝庫であり、どこへ行き着くアテもなし」
マキは少し笑ったようだ。この爺さん、見かけによらず、女の子の機嫌をとるのが巧みだ。そう考えながら目を向けると、またしても親指を立てやがった。マキは言う。
「オーケー。エイジ、入ってもらって」
おおいに不満ではあったが、ロックが外される音を確認して扉を開けた。マキは何事もなかったように仮面を被り、同じ服を身につけていた。洗ったあと、速乾粉をまぶして絞ったのだろう。多少、香水がきついのは、ゴクツブシの体液の臭いまで、消せなかったものとおぼしい。
トリベノは彼女の姿をみとめると、オペラ歌手のようなお辞儀をした。レードルを片手に、マキはくすぐったそうに肩をすくめた。
「ちょうど夕食を作りすぎたところ。三人前はあるけど、よかったらご一緒にいかが?」
「願ってもない。セニョリータの手料理なら、例えゴクツブシのチリソースでも、喜んで」
苦虫を噛み潰しているおれの隣で、爺さんはまた貴族的に腰をかがめた。二十分後には組み立て式の食卓を三人で囲んでいた。トリベノの白髪には、ヘルメットの跡がぺったりとついていた。ぶ厚い眼鏡はかけたまま、よほど腹が減っていたのか、旨い旨いと騒ぐかたわら、道化芝居のように料理を詰めこむ。
ちなみにマキは、仮面の可動部分をわずかに持ち上げ、食べ物をスプーンで器用に口へ運んでいる。あまりにも自然な光景なので、おれは瞬時、それが仮面であることを忘れかけた。そういえばトリベノも、最初から彼女の仮面など存在しないように振る舞っていた。おれは尋ねた。
「あんたの見立てじゃ、この隠れ家はどれくらい安全なのだろう」
「いや、実際、驚いたわい。カモフラージュは完璧。強度もちょっとしたシェルターに匹敵する。お前さんさえ、のこのこ出て来なければ、きっとワガハイもあの子も、見過ごしておったろうて」
あの子? と首をかしげるマキに、モグラだよとおれは答えた。膨張パンを頬張ったまま、爺さんは真っ赤になって青筋を立てた。
「あの子をモグラ呼ばわりせんでほしい。ジュリエットという立派な名前がついておる。まあ、お嬢さんには、夜が明けてからご紹介しようかの」
食卓が整うのを待つ間、爺さんはもう一度外に出て、モグラ……いや、ジュリエットを瓦礫の間に隠し、シートをかぶせたのだ。どこも操作しないのに、赤い「眼」が薄くともり、ゆっくりと消えるのをおれは見た。まるで眠くて仕方がないといったふうに。
「一晩、無事に明かせればの話だが」
「おいおい、縁起でもないことを言うな。さっきあんた自身が、太鼓判を捺したばかりじゃないか」