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たちまち蒼ざめたおれを尻目に、爺さんは悠々と一本取り出し、カチリと火をつけた。旨そうに煙を吸いこみ、長々と吐き出した。声が震えた。
「ちょっと待て」
じろりと、ぶ厚い眼鏡の後ろで、視線が移るのがわかった。
いったい、「変化」はいつ、あらわれるだろうか。万人が凶暴化するわけではないと、カヲリは言っていたが……おれはいつでも爺さんの心臓を撃ち抜けるよう、ポケットに手をかけた。実際に「変化」がおとずれてからでは、遅すぎるのだけれど。
恐るべき煙草を口の端にくわえたまま、かさかさの唇がニヤリとゆがんだ。
「ほお、こいつに反応しおったか」
「なに?」
「残念ながら、こいつはダミーだよ。何かが売れれば、必ず贋物や、まがい物を作るヤカラが出てくる。市場原理の基本じゃないかね」
「あんたも含めて、かい?」
「話が早くて何よりだよ、お若いの」
半分だけ警戒を解いた。
「一本試させてくれないか」
「煙草をたかるのが上手いのう、お若いの」
マキのナイフ投げに匹敵する正確さで、煙草が一本だけ飛んできた。さすがに点火するのがためらわれたが、冷ややかな視線を感じて、バンジージャンプする思いでマッチを擦った。吸い慣れた、合成煙草の味しかしなかった。
こいつが単なる地底の浮浪者ではなく、闇煙草、というか贋麻薬作りも兼ねているのなら、追い剥ぎなどしなくても、食っていけるのは道理だ。むろん、ブローカーが一枚噛んでいるのは間違いない。爺さんは仲介者から原料を受け取り、加工して手渡す。そのための機械くらい、簡単に自作できるだろう。
が、しかし、
「なあ、爺さん。そいつはずいぶん危険な商売じゃないのかい。古めかしい経済用語を使えば、リスクがでかすぎるってもんだ」
当然そんなことをすれば、船内の自治団はおろか、麻薬密売組織側からも睨まれる。いずれ地底まで追手がたどり着くのは、時間の問題だろう。なのに命を懸けるほど、金になる商売とはとても思えない。
「なんでこんな、ややこしい真似をするんだ」
「愉快だからさ」
片方だけ、眉が吊り上がるのがわかった。こいつならやりかねないと思う反面、どうも誑かされているような気がして仕方がない。たちまち舌を出してトンボ返りすれば、爺さんはキツネに、モグラは岩にドロンと変わるのではないか。
そうこうするうちに、周囲がだいぶ暗くなっていることに気づいた。モグラは影法師と化しつつあり、赤い「眼」だけが輝きを増すようだ。間違いなく人工光であるのに、暮れてゆくのはどういうわけだ? おれの戸惑いを察したように、爺さんはカラカラと笑った。
「地獄にも昼夜はあるよ。ここの明かりは要塞だった頃の残留太陽電池に因っておるのだが、いかんせん供給量が少なくての。日が暮れると、自動的にほとんどカットされてしまうのさ。時にお若いの、モノは相談なのだが、ワガハイをお前さんの家に、一晩泊めてもらえんだろうか」
黙秘権を行使していると、爺さんはさらにまくし立てた。
「なに、忽然とレーダーに影が現れたのだから。お前さんがサイキックでなければ、あとは、よほど気の効いた隠れ家から出てきた可能性しか残されておらん。ワガハイ、今の暮らしにこれといって不足は感じぬが、人間の習性というやつでな。たまには、屋根のある所で寝たくなる」
「屋根なら、頭の上に最初から、ばかでかいやつがついているだろう。雨が降るわけでもあるまい」
「雨ならたまに降ってくるわい。排水とオイル混じりのやつがな。排気口の向き次第では風も吹く。夏は熱風、冬は寒風が三日三晩吹き止まない。さすがにそんなときは、汚染地帯で野宿したほうがマシだと嘆きたくなるよ。それに……」
レンズの奥で、爺さんの目がキラリと光った気がした。急に箱ごと投げて寄こした煙草は、数本を宙にばらまきながら、弧を描いておれの手に収まった。蝕腕を伸ばした蛸の化け物は、薄闇の中で息づいているようだった。
「ワガハイと懇意になったほうが、お前さんにとっても、何かとお得なんじゃなかろうか。詳しい事情はわからんが、こいつの出所を追っているんだろう」