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 それにしても、ひどい印刷物だ。紙質の純度は極めて低く、インクのにおいは腐臭に等しい。

 IBが人間の男女を、「殺害以外の」目的で拉致するという。このての与太話なら、いやというほど耳にしてきた。当てずっぽうにカストリ雑誌を三、四冊買ってくれば、かならず一誌には特集が組まれているであろう、ありふれた怪異譚である。

 そう、これはただの怪談話。

 昔話や伝説に出てくる鬼だとか山男・山姥だとかを、そっくりIBに置き換えたに過ぎない。ただ、大昔から繰り返し語られてきたパターンというものは、人の心の奥深い部分に訴える、なんらかのパワーがあるのだろう。だからこんな荒唐無稽な与太話を貪り読む者が、あとを絶たないのだろう。

 こんな記事を、マキが一生懸命読んでいるところを想像すると、苦笑を禁じ得ない。

 昔の彼女はリアリストだったし、その部分は現在も変わっていないと感じる。くだらない雑誌を読む暇があれば、ナイフの手入れをしているような娘だ。が、しかし……

 おれはキッチンスペースを盗み見た。すでによい香りが漂い、甲斐甲斐しく料理する彼女の腰で、エプロンのリボン結びが揺れていた。ジーンズの粗い生地に包まれていながら、彼女の臀部が、少女時代よりずっと充実していることに、あらためて気づいた。

 早い話が、いい尻をしていた。

 おれは尻から視線を剥がし、けばけばしい雑誌の挿絵に目を落とした。アナクロニズム全開の絵柄。いかにも兇悪な姿形のIBらしきものに半裸の女が拘束され、髪を振り乱し、目を見開いて身悶えていた。そのまま親孝行横丁の映画館のポスターに混じっていても、何の違和感もないだろう。記事の内容も挿絵そのままだ。

 おれは男なので、女性の感覚は想像もつかない。性欲がどんなふうに訪れ、どんなふうに去ってゆくのか、さっぱりわからない。わからないなりに、性欲がちゃんと存在していることは知っているし、クールなマキといえども例外ではないだろう。現に、少女時代の彼女はピアシングという行為に性的な興奮を覚えると告白した。

(ピアス、か)

 鉄仮面の下に、彼女は今もピアスをつけているのだろうか。あるいは、まさかとは思うが、あの仮面がピアスと同じ意味をもつのだろうか。そうしてIBに犯されるというおぞましくも扇情的な与太話が、彼女のなんらかの琴線に触れたというのか。

 後半はIBと人間の混血児に関する記事で、よくもまあここまで不気味な想像ができたものだと感心するくらい、怪物趣味にあふれていた。ページのよれ具合から、明らかにマキは前半を繰り返し読んでいたが、おれはむしろ後半に惹かれた。昆虫人間や全身からダクトが突き出た人間などに混じって、可憐な少女が描かれていたからだ。

 挿絵画家は、少女のヌードが描きたかっただけかもしれない。おそらくそうだろう。百鬼夜行のような怪物ばかり描いていると、飽き飽きしてくるのも当然だ。だからこれは単なる画家の思いつきであって、現実的な根拠などあろう筈がない。そう思いながら、おれはどうしてもその絵を凝視せずにはいられなかった。

 少女は十二、三だろうか。この年代特有の、憂いを含んだような目もと。幼さと艶めかしさが共存し、せめぎあう四肢。いかにも画家の理想と情念をぶつけたような、均整のとれた真っ白な裸身。その左手首から先だけが、おぞましい鎌状の爪を無数に植えこんだ殺戮機械と化していた。

 マキが悲鳴を張り上げたのは、そのときだ。

 もう追っ手がかかったのか。それとも多脚ワームか。いずれにせよ、ただ事では済みそうにない悲鳴だった。こんな場所にいながら、おれは油断しすぎたようだ。後悔が引き起こそうとするパニックを懸命におさえつけ、飛び起きた。同時にパイソンを手に取り、キッチンへ向けて身構えた。

「マキ!」

 彼女はこちらを向いて立っていた。頭から足の先まで血まみれだった。だらりと垂らした両手の指先から、鮮血はぽたぽたと床にこぼれた。マキの両親を襲ったという、得体の知れないものの影を懸命に探したが、せまい箱の中に、侵入者の姿はどこにも見当たらなかった。

「マキ……」

「生きてるわ」

 かすれた声が仮面から洩れた。仮面から? そういえば、体はともかく、鉄仮面まで血に染まっているのは理屈にあわない。立ち尽くしたまま、彼女はつぶやく。

「虫みたいなものを踏んづけちゃったの。船の中には、こんなやついなかったわ。エイジ、あなた専門家でしょう。なによこれ」

 ゴクツブシだ。そうつぶやいて、おれは吹き出した。

「うっかり一匹踏んだだけでも、バケツ一杯ぶんのトマトソースをかぶったくらいにはなる。まあ、やつの体液は無害だから安心しな」

「そんなに笑わなくてもいいでしょう。いくら無害といったって、こんなひどい臭いのするソースなんか使えない。おかげで料理が台無しよ」

 おれが笑い終えるまで、たっぷり一分は必要だった。その間じゅう、マキは憮然と腕を組んでいた。

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