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カノウ氏がバルブをあえて「球根」と呼んだのはなぜか。かれは電気技師であり、バルブは「弁」のほかに「電球」をも意味する。ゆえに氏にとって最も馴染みの薄い、球根の呼称が用いられたのだろう。そう考えるのが自然なのだろう。けれど、おれにはそこに、もっとおぞましい意味が籠められているような気がして仕方がなかった。
球根。
まるで根のように、無数のコードやシールドが、うねうねと張りめぐらされ、奇形の球体がその上で息づいている。眼球をおもわせるコア。心臓のように、そいつは脈動している……マキはささやく。
「わたしもちょっとはお勉強したから、エイジの言いたいことはよくわかる。お父さんが見たものが、バルブそのものだったとは、さすがにわたしにも考えられない。ただ」
「ただ?」
「どんなに奇怪な伝説に彩られていても、所詮、バルブは人間が作り出したものでしょう。IBが、純粋な神様の創造物でないのと同じように」
そうだ。IBは「純粋な」生命体ではない。たしかにかれらは遺伝子を有し、みずから増殖する能力さえ持っている。便宜上、機械生命体と呼ばれてはいるが、はっきり「生命」と断定することは、躊躇せざるを得ない。マキの言うとおり、かれらは明らかに、神ならぬ人の手によって生み出されたのだから。
「つまり、バルブのコピーを……」
「わからないわ。考えたくないというのが、正直な気持ちかしら。そもそもそんな仮説が成り立つかどうかさえ、だれにもわからないんでしょう」
もしここに相崎博士がいれば、興味深い話が聞けたかもしれない。いかにもマッドサイエンティスト然とした、かれの顔を思い出すと、なぜかわずかに気持ちが安らいだ。日頃、ぜったいに顔を合わせたくない男なのに、みょうな心理である。
「やめましょう、こんな話。お茶を淹れるわね」
衣擦れの音を鳴らして、マキは立ち上がった。男にとってひとつの幸福とは、女が茶を淹れてくれる状況だろう。こんな地獄の入り口で、それが望めるとは思いもよらなかったが。
部屋の隅に置かれた頭陀袋の一つから、マキはコーヒーの缶を取り出し、キッチンへ向かった。コンロの燃料は圧縮泥炭とおぼしい。産業廃棄物の燃える独特な臭気が、やがてコーヒーの香りと入れ替わった。
鉄仮面の上から、マキはどうやって飲むのだろうかと興味があったが、運ばれてきたのは、おれのぶんだけ。
「外はどうなっているんだろう」
金属製のカップを傾けながら、おれは尋ねた。
「ひと息ついたら、散歩してみましょうか。防護服を着なくても、出歩けないほどじゃないから。とてもピクニックする気にはなれないでしょうけど」
「だいたい想像できるよ。要するに、ワームの巣みたいなもんだ」
「イーズラックがいないだけ、まだましよ」
吐き捨てるように、彼女は言った。おれは話題を変えるため、自分の近況を問わず語りに話した。
七年前にここを出て、いろいろあって、処理班にいたことは意図的に飛ばし、現在の何でも屋稼業のことを、自嘲的に。喜劇的などたばたのあげく、ここへ来ることになった経緯には、彼女も驚いた様子。ずっとおれを刷新の諜報部員と思いこんでいたようだ。
話し終える頃には、カップは空になっていた。ここ十年ほど、西の砂漠地帯の政変が続いており、コーヒー豆の価格が高騰していた。それも、よほどの金持ちでない限り口にできず、一般人の手に入るのは、密輸された粗悪品ばかり。ゆえに、これほど質の悪い豆から、これほど旨いコーヒーを淹れる彼女の手並みは、魔術に等しかった。
「お腹空いてない? 簡単なものなら作れるけど」
「ありがたいね」
彼女は小首をかしげた。鈍い光沢が仮面を撫でた。おそらく微笑んだのだろう。おれが当局とは無関係だと知って、少しは気を許したのかもしれない。依然、おれが厄介な存在であることに、変わりはないだろうけれど。生かしておいたほうが有利なのだと彼女は言った。追っている対象が非常に近いのだとも。
空のカップをもって彼女が奥へ去ると、無精にも、おれはもう一度横になった。床の上に、古いカストリ雑誌が転がっていることに気づいた。おれが目を回している間、マキが読んでいたのだろうか。振り返ると、彼女はすでにキッチンに向かい、材料を洗っている。おれは毛布をかぶり、その雑誌を引き寄せた。
雑誌は閉じられていたが、粗悪な紙の折れ具合から、マキが直前まで読んでいたページは、だいたい見当がついた。そこを開くと、載っているのはIBに関する記事だった。この手の雑誌が書き散らす、いわゆる「IBネタ」は、ほとんど怪談の類いである。ここでもご多分に洩れず、眉をひそめたくなるような見出しが、けばけばしく刷られていた。
いわく、
『イミテーションボディと人間の混血児は実在した!?』
ふだんなら一笑に付すところだが、マキが読んでいたことを考えると、なぜか見過ごせない気がして、おれは記事を読み始めた。