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マキの肩が、びくりと上下した。同時に、すさまじい殺気が、おれのこめかみを貫いた。戸の外に、何かが潜んでいる。
耳を澄ませた。カタリという、正体のわからない音を残して、気配はふっつりと消えた。鉄仮面の、耳とおぼしきあたりに口を寄せ、おれは囁いた。
「裏口はまだ生きているか」
「ええ。逃げ込むまで、こっちが生きていられたらの話だけど」
上等だ。とおれはつぶやいた。減らず口が叩けるうちは、人はそう簡単に死にはしない。とはいえ、
「おれが巻き込んじまった恰好かな。まさかこんなに早く追っ手がかかるとは」
マキはこたえず、軽く首を振った。鉄仮面から延びた髪が揺れて、甘い香りが漂う。風呂に入るときは仮面をとるのだろうか、と、この場にそぐわぬ考えがよぎったが、修羅場ではよくあること。神経が極度の緊張に達すると、逃げ場を求め始めるのだ。
耳をつんざくほどの、破裂音が戸口で響いた。身を伏せた頭上を、ダイニングへ通じる扉がすっ飛んでいった。ぎちぎちと、巨大な蟻が歯ぎしりするような音が聞こえた。いやでもIBを連想させる音だが、それはあり得ない。あり得ないのだと自分に言い聞かせ、這いつくばった姿勢のまま、パイソンを抜いた。
煙の向こうに、武装警官の盾をおもわせる金属板が、二つ並んでいた。覗き窓の上に、センサーらしい赤いランプが点灯していた。だとすると、これは盾ではない。
「掃討車か……!」
前後に二つずつ連ねた盾は、甲殻類の脚に似た、四本の移動装置を覆うカバーだ。間に三角形を成す本体が隠れている筈で、むろんそこには弾薬をしこたま装填した機銃が乗っかっているだろう。
掃討車は旧首長連合が開発した、無人の対人用殺戮兵器である。四本の「脚」を使ってどこまでも入り込み、目標を蜂の巣にするまで止まることがない。とくに小型の暗殺用は精巧で、顔写真一枚あれば、目標がインプットされる。あとは赤いボタンを一つ押すだけ。すさまじい嗅覚で目標の足取りをたどり、追いつめて蜂の巣にしてくれるスグレモノだ。
新政権はこれを禁じ、徹底的に廃棄したが、成果はこの有様。
敵はじっと動かない。赤いセンサーが、まがまがしく明滅し、ぎちぎちという音が、盾の間から断続的に洩れた。息をひそめたまま、おれは待っていた。機会は一瞬。やつが機銃を撃つために盾を開いたとき、動物でいえば首筋にあたる、配線が集中している部分を狙えばいい。うまく命中すれば、やつの動きは一発で止まる。
それにしても、不可解なのは、あのみょうな音だ。掃討車は何度も目にしているが、こんな、いわば生物的な音は聞いたことがない。掃討車に限らず、機械がたてる音とは思えない。不安との協奏曲を奏でつつ、奇異の念が膨らみ、ついに破裂する一歩手前で、胴震いするように掃討車が揺れた。
モーター音とともに、四本の脚部が広がると、必然的に盾の間から本体が覗いた。
眼玉だ。
地面すれすれに突き出した、いわば顔に相当する部分には、闘牛のそれの十倍はありそうな、巨大な眼玉が嵌めこまれ、きろきろと蠢いていた。そして眼玉の下には、蜘蛛とそっくりな顎があり、上下するたびに、ぎちぎちという、例の音が洩れてくるのだった。何よりもおぞましいのは、顎いちめん、天鵞絨のような毛で覆われていたことだ。
おれは叫んだ。叫ばなければ、狂気に呑まれそうだったから。叫びながらパイソンを連射した。
こんな体験は初めてではない。IBを相手にしていれば、しょっちゅう起こることだし、実際に精神のバランスを崩した仲間を、何人も見てきた。かくいうおれも、処理班を辞めるきっかけになった戦闘の後、しばらくは廃人同様だった。妻を亡くした事実もひっくるめて、IBという存在そのものに、いわば汚染されたのだろう。
が、しかし、目の前のこいつはIBではない。IBであるわけがない。弾は確実に命中し、電球を割るように、巨大な眼玉が弾け飛んだ。顎が大きく開かれ、獣じみた、あまりにも生物的な叫び声がほとばしった。口の中から腐った血のような、どす黒い液体があふれた。
サソリの毒針をおもわせて、後方から弓なりに突き出された機銃が火を吹いた。けれど、すでにメインセンサーを潰されているので、闇雲に部屋を破壊するばかり。おれはマキの手をとり、後ろの壁に突進した。そこに取り付けられている、みょうに大きなダストシュートに飛び込んだ。
彼女が言ったとおり、「裏口」は健在だった。当時も話に聞いていたばかりで、飛び込むのは初めてなのだが。筒状のトンネルは、二人が体をくっつけて滑り降りる、いや、滑り落ちるのがやっとの広さ。壁面は油を塗ったブリキで覆われているらしい。
おれの頬には冷たい仮面が押しつけられ、反対に、かたく抱きあっている体のほうは、猫科の肉食獣をおもわせる、しなやかさな肉の存在と、温かい体温を感じとっていた。