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 店を出て、アルチュール・ランボー氏とは一旦、別れた。カノウさんたちが住んでいた所を、訪ねてみるつもりだった。

 かれらは「幽霊船」の南方、下部に住んでいた。都市地区から見れば裏側にあたり、要するに、「壁」の出っ張りに沿って、汚染地帯に食い入っている部分だ。しかも今ではワームだか、特殊なイーズラック人だかに占拠されている、左翼の閉鎖ブロックとほぼ隣接していた。

 居住区としては、最悪に土星の輪をかけてひどい環境である。

 当時から、この辺りは「幽霊船」の中のスラム街として知られていたが、カノウさんたちに関して言えば、決して貧しくはなかった。かといって、お高くとまっていたわけではなく、停電が日常茶飯事に起こるこの辺りの住民に、何かと重宝がられていた。カノウ氏は貧民からは金を受け取らず、気安く修理を頼まれていた。

 そこにカノウ氏の思惑があったことは、言うまでもない。現代社会における技師とは、なかなかヤバい職業なのである。大昔の日本人は、希少な水を自分の田に引くために、血刀を振り回して争ったというが、現代では電力の供給に関する諍いが絶えない。血を見ることもしばしばであり、技師が巻き添えを食う可能性もあり過ぎるほどある。

 カノウ氏は貧民たちを味方につけることで、おのれの身を守っていたのだろう。

 では「幽霊船」における高級住宅街はどこかというと、やはり最上部ということになる。ただし、「シャングリ・ラ」と呼ばれるこの部分は、ずっと無人のままだった。

「幽霊船」の本体は、ツァラトゥストラ教徒が作る誕生ケーキに似た、上へ行くほど細い円筒形である。長大な蝋燭のような、七本の塔を突き立てたところなんかも、例のケーキとそっくりだ。シャングリ・ラは塔と内壁に囲まれて、外側からはほとんど見えない。

 「幽霊船」の他の部分が、コンクリートで固められているのに対し、シャングリ・ラには、煉瓦塀と樹木に囲まれた瀟洒な邸宅が、静かに並んでいるという。外側の人間は、よほどの事情通でない限り、シャングリ・ラの存在を知らない。現に、麗子がくれた地図においても、最上部は空白になっている。

 なぜシャングリ・ラは無人なのか?

 それはここが「幽霊船」の安全弁になっているためだろう。

 珍しいことに、この無法者たちの巨大な共同住宅であり、街でもある「幽霊船」には、ボスがいない。役員会らしきものさえ存在しない。それほどまでに、権力を厭っているのだ。そうして、ボスや議会を抜きにして、秩序を維持するために考え出されたのが、ほかでもない、シャングリ・ラだった。

 美しいシャングリ・ラをあえて無人にしておくことが、「幽霊船」における唯一の法律であり、住人たちのアイデンティティーの象徴なのだった。

 シャングリ・ラは当番制で管理された。ランダムに回される札を受け取った者たちが、毎週土曜日の午後にここに集まり、掃除をし、修理をし、その美しさに溜め息をついた。どの家の入り口にも鍵はかかっておらず、一切の警備も廃されていたが、当番以外で入り込む者は、まずいなかった。おれはカノウ氏に尋ねたことがある。

(しかし、おれみたいなよそ者が、何も知らずに、ふらふらと入り込む場合だってあるでしょう。「幽霊船」自体、出入り自由なんですからね)

 氏は笑ってこう答えた。

(その人は、よほど不運だったとあきらめるしかないね。確実に消されるよ)

 今も昔も、おれには上昇志向というものが、まるでない。なるべく楽に生きたいが、偉くなりたいとはさらさら思わない。明るい天上を目指すよりは、ゴクツブシのように暗い所を這い回りたがる、そんな性質が幸いして、当時のおれは命拾いをしたらしい。


 店を出るとき、ランボー氏に地図を見せて現在地を教えてもらい、あとはなんとか自力で行けそうだった。スラム街へ一人で行くと言うと、かれは顔をしかめたが。

(土星の輪をかけて、昔よりひどくなっていますよ)

 ガイドと一緒に行動したほうが賢明であることは、むろんわかりきっていた。よく今までこの世界で生きてこられたと自分でも感心するくらい、お人好しなおれは、ランボー氏を疑ってもいなかった。が、どうしても、かつて一人で訪れた所を、今度も一人でたずねたかったのだ。ランボー氏は苦笑しつつ、かれへのアクセス方法を何パターンか告げて別れた。

 まさかこれが最後の別れになろうとは、夢にも考えなかったけれど。

 スラム街は蟻の巣をおもわせた。

 曲がりくねった路地を歩くと、猫の額ほどの広場に行き当たり、そこからまた八方へと路地が伸びていた。迷路の中の迷路といった様相だが、さすがに半年這い回ったこの辺りは、だいたいの位置関係を把握していた。多少路地が増えているようだが、基本的には昔のままだ。

 地面はコンクリートだったり模造舗石だったりしたが、じっとりと濡れていることに変わりはなかった。壁から配線や配管が露出していた。おおっぴらにスパークしている電線もあった。真昼の常夜灯がぼんやりと照らす中、いくつかの人影が闇からあらわれて、闇へと消えた。

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