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「立ち話もなんですから、昼飯でも食いませんか。まだお済みでなければ」
「悪くないね。ちょうど腹が減ってきたところだ」
ランボー氏は口笛をひとつ鳴らし、両手を帽子の後ろに組んで、背中を向けた。おれがガンスリンガーであることは、麗子から聞いている筈だから、撃ちたければどうぞという意味であろう。数秒後、かれはバッハの無伴奏パルティータらしき曲を吹きながら、先に立って歩き始めた。
通路はうねうねと曲がりつつ、時々、何方向かへ分岐している。まるでコンクリートの迷宮だ。じっとりと湿った壁には、何度もポスターを剥がしたり貼ったりした跡がある。その上からスプレーで落書きされている。ちょっとしたモダンアートふうの壁画に見えなくもない。
ここで生まれ、ここで死んでゆく者たちがいるのだ。かれら、迷路荘の住人たちは、目をつぶって歩いても迷わず目的地へ辿り着けるという。けれど、半年ばかり住んだ程度のおれは一パーセント把握しているかどうかさえ、心もとない。
少しも迷う様子がないランボー氏もまた、筋金入りの迷宮人なのだろうか。俗に、事件が未解決に終わることを迷宮入りと言うが、実際にここへ雲隠れする犯罪者は数多いと聞く。迷宮が迷宮を呼び、闇が闇を呑む。その最深部には、恐るべきミノタウロスが息づく……
口笛が不意にとぎれた。
それで堰が切れたように、雑踏の音が入りこんできた。横丁のまた横丁くらいの通路に、ぽつぽつと灯りがともり、人がひしめきあっていた。まだ正午近くだという事実を忘れてしまいそうな、夜の裏町をおもわせる光景。肉が焼かれ、酒が酌み交わされ、断続的な笑い声が沸き起こる。
おれはまだ平衡感覚を失ったまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。夢の巷に立っているような気がした。目に映る光景は、いちじるしく現実味を欠いて、幻燈か何かに映し出されているように思えた。
軽く肩を押された。
ランボー氏はまたちょっと帽子を持ち上げ、針の眼差しを向けた。おれは小さくうなずき、かれの背に続いて古中華ふうの居酒屋らしい、店のひとつに入った。そういえば、ランボー氏の話し方には僅かに訛りがあったので、かれもまた中国系なのかもしれない。
これも旧政権の頃、とある事件が起きて、都市地区ごとに栄えていたチャイナタウンが、一瞬にして消滅した。けばけばしくも色あせた内装や、円卓が人であふれている眺めは、ゆえにどこか懐かしさをともなった。
緋色のチャイナドレスを着た娘が出迎え、人込みを縫って、おれたちを奥へ案内した。入り口の狭苦しいわりに、店の中は案外広いのだ。客たちのざわめきを差し引いても、ひどい音色の音楽が途切れがちに聞こえてくる。お約束のオペラ、『トゥーランドット』であるらしい。
小さめの円卓に、差し向かいで腰かけた。予約でも入れていたのか、中央にはすでに料理が盛られていた。緋色の娘が紹興酒を注いだ。おれはグラスを鼻に近づけた。
「本物かい?」
ランボー氏は軽く口の端を吊り上げた。もし本物だとしたら、ここへ運ばれて来るまでに、少なくとも数人ぶんの血が流されているだろう。そう考えると、あまりよい気分ではないが、好意は好意として受け取っておくに限りる。乾杯代わりに、お互いグラスをかかげて、口にふくんだ。なるほどこの酒の味は、どこか血をおもわせる。かれは切り出す。
「先程の件ですが」
「ああ。失礼だとは思ったが、おれは単純な男でね。腹の探りあいは苦手なんだ」
「つまり、わたしが例の組織の下請けを兼ねているのではないか、と?」
思わず周囲をうかがった。談笑が飽和して、中には誰を殺すの殺さないのと声高に「密談」している者もいる。こういった場所では、声をひそめないほうが自然なのかもしれない。
「それもあるし、まあいろいろだよ。刷新の密偵が、例の組織とやらに十九人も殺されたって話は、麗子……会社の秘書から聞いているだろう。あるいは、その前から知っていた可能性のほうが高そうだが」
「買いかぶって頂き、光栄の至りですよ。いえ、誤魔化すつもりはありません。こう見えてもわたしは生粋の『幽霊船』育ちですからね。正直申し上げて、連中には義憤、みたいなものを感じておりました。ですから、このたびお声がかかったのは、渡りに舟だったのですよ。信じて頂けるかどうかは、保留にされて構いませんが」
「信じなければ話が先に進まない。とりあえず、『幽霊船』の現状が知りたい。おれが潜り込んだ頃と、どう変わったのか」
かれはうなずき、目で促して料理を勧めた。じつはあまり食欲がなかったが、適当に皿に取り分けて、箸をつけた。どろりとしたその料理が何かはわからないが、久しぶりの古中華は、懐かしく舌を刺激した。今度、アマリリスに作ってもらおうと、ぼんやりと考えるうちに、ランボー氏が口を開いた。
「あなたが滞在なさったのは、七年前でしたか。それから二年後の五年前に、左翼にあたる東側で汚染が始まりまして、今では端から三十パーセントが閉鎖されております」
「ワーム? それとも……」
「いえいえ、IBではありませんよ。少なくとも第二種未満だと発表されております。すでにお察しのとおり、この閉鎖領域にイーズラックが住み着いたのです」