39(4)
「亜理栖と書いてアリスと読む。夢見る少女みたいな名前だが、歴とした男である、といわれている」
「歯切れのよくない言い回しね」
「きみは三男の顔写真を見たことがあるかい」
二葉は首をふった。
「そうだろう。亜理栖が育てられたのは、お世辞にも金持ちとは言えないが、敬虔な慈善家の家庭だった。またかれ自身、天使のような性格だという評判だよ」
「天使、ねえ」
「顔を引きつらせているね。亜理栖は少年時代、友人を助けようとして、氷の張った貯水槽に飛び込んだとか、小遣いをもらっても全部寄付してしまうとか。そのての逸話には事欠かない」
「気に入らないわ。ならばどうして、マスコミに顔写真のひとつも撮らせてあげないのよ」
「竜門寺の血族であるという理由で、特別扱いされたくないから。名もなき一人の人間として生きたいから。といったことを、きらきら光る目で訴えられると、さしもの鉄面皮のマスコミも、恥じ入ってフラッシュを焚けなかったのだとか。もし宗教家だったら、確実にカリスマ教祖になれる器だねえ。実際に線の細い美青年らしいよ。生きていれば現在、十九歳」
「大学生?」
「いや、働いていたらしい。それも竜門寺の傘下とはまったく関係ない、小さな工場で。身分を隠してね」
「気に入らないわね。あまりにもできすぎているところが、かえって胡散くさい」
「乙女の嗅覚ってやつかい?」
「なんかこう、腑に落ちないのよね。徹底的にマスコミへの露出を避けたことも、来たるべきクーデターを予見した行動に思えてしまう」
「それこそまさに『千里眼』だ。宗教家というより、魔術師の部類に入ってしまうねえ」
かれが笑うとドームじゅうのガラクタが震えた。お尻の下で、箱が、ぴりぴりと電気を帯びた。ストッキングまで帯電するようで、なかば飛び上がりつつ、彼女はまた脚を組みかえた。
「で、後継者争いでは、誰がリードしていたの?」
「まず舞踏卿だが、これは論外だ。たしかに長男ではあるし、真一郎と苦楽をともにした最初の妻の息子という点では、おおいに評価できるのだが。なにしろ、本人の性格に問題があり過ぎる。かれ自身、父親を激しく憎んでいたようだね。ある四流雑誌に寄せたコラムには、殺すという言葉が十三回使われていたというよ」
「苦楽をともにした母親を虐待し、忘れ形見の面倒をみるどころか、裸同然で放り出したから?」
「そうなるね。我こそは竜門寺家の正統な後継者であり、親父は悪辣なやりかたで、おのれの受け取ってしかるべき財産を剥奪したのだ、と息巻いた。あまりガラのよくない連中をバックに従え、見かけ上は、最も積極的にレースに乗り出した」
「あわよくば利権にありつきたい、不法ギルド系の親分連中が味方についたのね。でも、一族の幹部や、傘下の首長たちからは総スカンを食らったのでしょう」
「舞踏卿が跡を継いだら、竜門寺家は一晩で破産する。誰もがそう考えていたし、ボクも同意せざるを得ない。ところで、次男の竜門寺武留センセイなんだが」
「どう見ても、かれを選ぶのがベストよね。慎二郎が竜門寺の財産を一晩で飲んでしまうなら、三男、亜理栖は一晩で寄付してしまいそうな勢いなんでしょう。武留はすでに、政治や経済の論文で名を知られていたのだし、なにかとソツがない。最も安全なカードだわ」
「事実、真一郎も最もかれを贔屓にしていた。ほかの二人と異なり、武留は学費と称して豊富な費用を与えられていたし、真一郎自身、たびたびかれと面談している」
「ほかの二人とは全く会っていないの? というか、そもそも三兄弟の間に付き合いはなかったの?」
「舞踏卿は金をせびるために、あの手この手でつついてくる。茶話をする雰囲気ではないにせよ、いやでも顔を合わせただろうね。逆に亜理栖は、みずから父親との面会を避けていた。ゆくゆくは、竜門寺との関係を完全に絶つつもりだったのだろう。けれどもかれは同腹の兄、武留とは定期的に会っているね。特別仲良しではないにせよ」
「それで、尋ねるまでもないことだけど。竜門寺真一郎が選んだ後継者とは?」
「亜理栖だよ」
三度目をしばたたかせ、残りのレモンティーを飲みほしてから、二葉は口を開いた。
「なんで?」
「ボクに訊かれてもこまる。幹部の中には真一郎の精神鑑定を提案した者もいたくらいだが。肉体は病んでも、かれの頭脳は少しも衰えていなかった」
「かれほどの男が、ただ天使のような性格に惚れこんで、後継者に指名したりしないということね。時に、竜門寺真一郎は今、どこにいるのかしら」
「死んだよ」
千里眼は口の端を吊り上げた。