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黒薔薇の嗜み

作者: 埴輪庭

挿絵(By みてみん)

 ◇


 王都の空は重く垂れ込めた鉛色の雲に閉ざされていた。時折遠くで鳴り響くのは雷鳴か、それとも戦火の轟きか。

 

 王城の「碧玉の間」には張り詰めた糸のような緊張感と押し隠すことのできない絶望が澱みとなって充満していた。


 豪奢な装飾が施された円卓を囲むのはこの国の中枢を担う重臣たちである。しかし彼らの顔色は一様に優れない。ある者は青ざめて唇を噛み、ある者は脂汗を拭うことも忘れて地図を睨みつけている。

 

 無理もないことであった。

 

 たった今、早馬によってもたらされた凶報はこの平和な小国エスティナにとって、国家の死刑宣告にも等しいものだったからだ。


「……報告を繰り返します」


 伝令の騎士が泥と汗に塗れた顔を上げずに声を絞り出す。


「隣国ヴォルガルド帝国軍、その数およそ八万。国境の要塞線は今朝未明に突破されました。敵軍の先鋒はすでに王都へ続く街道を破竹の勢いで進軍中。……王都到着まで、あと三日とかからぬ見込みです」


 堪えきれない悲鳴のようなざわめきが広がる。

 

「八万だと……!?」


「不可侵条約はどうなったのだ! 先月、友好の証として葡萄酒を贈り合ったばかりではないか!」


「相手はあの軍事狂の皇帝だぞ。条約など、鼻をかむ紙切れ程度にしか思っておらんわ!」


 怒号と嘆きが交錯する中、軍務大臣が苦渋の表情で地図を叩いた。


「この奇襲、あまりにも強引すぎる。だが理には適っている……」


「どういうことだ?」


「我が国エスティナは小国といえど、周辺諸国との外交関係は密接だ。ひとたび宣戦布告をして手順を踏めば、すぐに他国から援軍が駆けつけるだろう。帝国は包囲網が敷かれる前に短期決戦で我が国を飲み込むつもりなのだ」


「くそっ、奴らめ……我らが友邦と連絡を取る時間すら与えぬ気か!」


 さらに財務大臣が青ざめた顔で補足する。


「それに帝国の内情も切迫しているという噂があります。近年の悪天候で帝国の食糧事情は極めて悪化しており、飢餓による暴動が起きるのも時間の問題だとか。奴らは我が国の豊かな穀倉地帯を喉から手が出るほど欲しているのです」


「食い扶持を奪うための戦争か……! それに加えて周辺国との関係悪化でいつ宣戦布告されてもおかしくない状況だ。奴らは生き残るためになりふり構わず我々を喰らいに来たのだ!」


 追い詰められた獣ほど恐ろしいものはない。


 絶望的な分析が交錯する中、円卓の上座に座る一人の青年――国王テリオンは顔面を死人のように白くして震えていた。

 

 金の髪に碧眼、絵画から抜け出してきたような正統派の美男子である彼は平時であればその微笑みだけで婦人たちを卒倒させるほどの魅力を放っている。

 

 だが今の彼は見る影もない。


 膝の上に置かれた両手は固く握りしめられているがその拳がガタガタと小刻みに震えているのを隣に立つ王妃サリィナは見逃さなかった。


 テリオンは心優しき王である。

 

 民を愛し、芸術を庇護し、争い事を何よりも嫌う穏やかな君主だ。

 

 だがそれは裏を返せば彼は乱世の覇王ではないということでもある。血と鉄の匂いが充満するこの非常事態において、彼の繊細な神経は限界を迎えようとしていた。

 

 呼吸は浅く、視線は宙を泳いでいる。

 

 今すぐにでもここから逃げ出したい。誰もいない場所で、頭を抱えて蹲ってしまいたい──そんな悲痛な叫びが彼の全身から滲み出ていた。


「陛下……!」


 宰相が意を決したように声を上げた。

 

「もはや一刻の猶予もなりませぬ。ご決断を」


「決断、とは……」


「退避のご決断でございます。敵の狙いは王都の制圧と王族の捕縛にあることは明白。ならば、敵が到着する前に王都を脱出し、南方の同盟国へ亡命するのです」


「そうだ、それが良い! 王家の血さえ絶えなければ、いつか再起の時も来よう!」


「直ちに馬車の用意を! 近衛騎士団を護衛につければ、山脈越えも可能です!」


 重臣たちが我先にと逃亡の進言を口にする。

 

 彼らもまた、怖いのだ。圧倒的な暴力を前にして、理性を保てなくなっている。

 

 テリオンは縋るような目で周囲を見渡した。

 

 逃げたい──その甘美な誘惑に彼の心は大きく揺らいだはずだ。

 

 亡命すれば、少なくとも命は助かる。愛する家族や、妻であるサリィナを守ることもできるかもしれない。

 

 テリオンの視線がふと隣のサリィナに向いた。

 

 彼女はまるで午後のティータイムでも楽しんでいるかのような落ち着き払った様子で、扇子を揺らしている。

 

 そのアメジストの瞳と目が合った瞬間、テリオンの喉がごくりと鳴った。


「陛下」


 サリィナが鈴を転がすような声で囁く。

 

「皆様はこのようにおっしゃっていますわ。……どうなさいますか?」


 テリオンは血が滲むほどに強く唇を噛み締めた。そして、震える膝を両手で押さえつけるようにして、ガバリと立ち上がる。

 

 椅子が倒れる音が静まり返った広間に響いた。


「……逃げぬ」


 掠れた、精彩を欠いた声であった。

 

「こ、国王が……国を捨てて逃げてどうする!」


 テリオンは叫んだ。裏返りそうな声を必死に腹の底から張り上げて。

 

「民を残して、余だけが生き延びて何になる! 余はここに残る! 最後まで城に留まり、民が避難する時間を稼ぐのだ! それが王の務めだろうが!」


 勇ましい宣言だった。

 

 その場にいた誰もが若き王の悲壮な決意に胸を打たれ、涙ぐむ者さえいた。


 だがサリィナにだけは見えていた。

 

 生まれたばかりの子鹿のように震えているテリオンの脚が。背中には冷や汗がびっしょりと滲み、マントを握る指先が白くなっているのが。

 

 テリオンは死ぬほど怯えている。

 

 本当は泣き叫んで逃げ出したい恐怖を必死に理性の檻に押し込めて、虚勢を張っているのだ。


(ああ……随分とお変わりになって……)


 サリィナは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 もしここで彼が我先にと逃げ出していれば軽蔑していただろう。

 

 逆に恐怖など微塵も感じずに剣を取るような蛮勇の持ち主であれば、呆れていただろう。

 

 彼は自分の弱さを知っている。状況の絶望さを理解できる知性がある。

 

 だからこそ怯え、それでもなお、王であろうとして踏みとどまった。

 

 その矛盾。その人間臭い弱さと高潔さ。

 

 震える小動物が懸命に巣を守ろうとして牙を剥いているような健気さがサリィナの胸の奥にある何かを強烈に刺激した。


 (お若い頃よりずっと素敵ですわ、テリオン様。貴方がそこまで痩せ我慢を見せてくださるのなら、妻として、それに応えないわけにはいきませんわね)


「陛下」


 サリィナは一歩進み出ると夫の震える手を両手で優しく包み込んだ。

 

「サ、サリィナ……? すまない、君だけでも逃げてくれ。公爵家の……」


「いいえ。逃げる必要などございませんわ」


「な……?」


「愛しい陛下。貴方はただ、その玉座にどっしりと座っていてくだされば結構です。震える足をマントで隠して、毅然としたお顔で微笑んでいてくださいな」


 サリィナは扇子を開き、口元を隠して艶やかに目を細めた。


 その瞬間、広間の空気が変わった。それまで背景の一部に徹していた彼女が突如として圧倒的な存在感を放ち始めたからだ。

 

 その背後には目に見えぬ黒い翼が広がっているかのような威圧感があった。


「わたくしにお任せくださいな。ヴォルガルド帝国ごとき、指先一つで瓦解させてご覧に入れますわ」


「な、何を言っているんだサリィナ。相手はあの軍事大国だぞ? 八万の軍勢にどうやって……」


「あら、野蛮ですこと」


 彼女は歌うように言った。


「戦争とは剣と剣が触れ合う前に終わらせるものですわ。――こういう時の為に諸国へ『貸し』を沢山作っていたのですから」


 ◇


 そこからのサリィナの手際は鮮やかという言葉では生温い、一種の芸術的な「解体ショー」であった。


 まず、彼女が動かしたのは「食」である。


 ヴォルガルド帝国は軍事偏重の国策ゆえに食料自給率が極端に低い。その胃袋の八割を南方の諸国連合からの輸入に頼っていた。


 サリィナは直ちに諸国連合の大手穀物商会へ早馬を飛ばした。


 彼らは皆、かつてサリィナに「裏帳簿の隠蔽」や「政敵の醜聞処理」、「後継者争いの仲裁」などで恩を売られ、頭の上がらない者たちばかりだ。


『ヴォルガルド帝国への輸出を即時停止なさい。理由はなんとでも――そう、大規模な疫病が発生したとでもして』


 その指令は絶対であった。翌日には帝国へ向かうはずだった数百台の荷馬車がピタリと止まった。


 次に彼女が狙ったのは「金」である。


 戦争には莫大な金がかかる。帝国は戦費を調達するため、他国の銀行家から多額の借金をしていた。


 サリィナは大陸中央銀行の頭取に一通の手紙を送る。そこには頭取が隠し子に送っていた愛情溢れる手紙の写しとほんの少しの「お願い」が添えられていた。

 

 結果、帝国の国債は一夜にして紙くず同然となり、追加融資は凍結された。

 

 兵士への給金は止まり、約束されていた略奪品の分配も怪しくなる。


 とどめは「情報」と「疑心」だ。


 彼女は帝国宮廷内に潜り込ませていたスパイを一斉に起動させた。


 流布された噂は単純かつ猛毒だった。


『今回の遠征軍総司令官が王都を留守にしている皇帝に対し、クーデターを画策している』


『皇帝はそれを察知し、総司令官を処刑するために近衛軍を差し向けた』


 真実の中に一割の嘘を混ぜる。皇帝はもともと猜疑心の強い男だ。補給が届かず進軍が停滞している状況を「総司令官の反逆の準備」と邪推させるのにそう時間はかからなかった。


 飢え、金欠、そして内輪揉め。


 八万の大軍勢はエスティナの国境を越えることすらできず、自らの重みで崩れ去った。

 

 皇帝は総司令官を更迭し、疑心暗鬼の末に粛清。指揮系統を失った軍は蜘蛛の子を散らすように敗走していった。

 

 エスティナ王国軍はただ城壁の上から、その無様な撤退劇を高みの見物と決め込むだけでよかったのである。


 事のすべてが片付くまで、わずか十日間の出来事だった。


 ◇


 嵐が去り、静寂が戻った王宮の夜。

 

 国王夫妻の寝室には穏やかな月明かりが差し込んでいた。


 豪奢な天蓋付きのベッドに腰掛け、テリオンは呆然とワイングラスを傾けていた。

 

 事の顛末があまりにも鮮やかすぎて、現実味が湧かないのだろう。

 

 先程届いた報告によれば、ヴォルガルド帝国は内乱状態に陥り、向こう十数年は対外侵略などできる状態ではないという。


「……君はすごいな」


 ぽつりと漏らされた言葉には畏敬の念が滲んでいた。


「あの帝国を兵を一人も損なうことなく追い返してしまうなんて。私は君に支えられっぱなしだ」


 テリオンが自嘲気味に笑う。

 

 肩の荷が下りたその表情は憑き物が落ちたように穏やかで、そしてどこか幼い子供のように無防備だった。


「情けない話だが私は君がいなければ、きっと震えているだけで何もできなかった。君という希代の才女を妻にできたことが我が国最大の幸運だよ」


 その言葉を聞いて、鏡台の前で髪を梳かしていたサリィナはふわりと微笑んだ。

 

 彼女は立ち上がり、夫の隣に寄り添うように座る。

 

 その手からワイングラスを取り、代わりに自分の指を絡ませた。


「お褒めにあずかり光栄ですわ。でも大したことではありませんのよ」


「大したことない、なんて……これは歴史に残る偉業だぞ?」


「いいえ。これはすべて、両親の教育のたまものですわ」


 サリィナはテリオンの肩に頭をもたせかける。


「生き抜くための術、毒を以て毒を制す方法……すべてお父様とお母様が涙を呑んで叩き込んでくださいましたもの」


「公爵夫妻の……? 確かにスレイン殿もアンゼリカ殿も切れ者だがこれほどの謀略を君に教えていたとは」


 テリオンは目を丸くする。彼の中にあるサリィナの両親のイメージは穏やかで過保護な、娘を溺愛する貴族の姿だったからだ。


「ええ。……それと陛下。いえ、テリオン」


 サリィナは身体を起こし、愛しい夫の碧眼を正面から見据えた。


 そのアメジストの瞳が月光を受けて妖しく、美しく煌めく。


「あなたのおかげでもありますわね」


「私? 私は何もしていないじゃないか。ただ虚勢を張っていただけで」


「いいえ。あなたがわたくしを『人間』にしてくださったのですから」


 サリィナの言葉にテリオンは首を傾げる。


 そのきょとんとした顔は出会った頃と変わらず無邪気で、そして少しだけ愚かで――愛らしい。


「あなたが一度わたくしを捨ててくださらなければ、わたくしは一生、温室の中で枯れていくただの人形でした。あなたが目覚めさせてくれたのです。この世界がいかに残酷で、それゆえに面白い場所であるかを」


「捨てた、だなんて……昔の話だろう? あの時は私も若かったし、どうかしていたんだ」


 テリオンがバツが悪そうに視線を逸らす。


 サリィナはくすりと笑い、彼の頬にそっと口づけを落とした。


 そう、すべてはあの日から始まった。


 砂糖菓子と花の香りだけに包まれていた、無垢で愚かな少女だった頃。


 白薔薇が棘を持ち、鮮血のような赤色に染まるきっかけとなった、あの日々。


 サリィナの脳裏に懐かしくもほろ苦い記憶が鮮やかに蘇る。

 

 ・

 ・

 ・

 

 ◇


 公爵家当主スレインと妻アンゼリカにとって、娘のサリィナはこの世の奇跡に他ならなかった。


 絹糸のような銀髪にアメジストを砕いて嵌め込んだかのような瞳を持つ赤子は至宝である。


 二人は誓った──この清らかな存在を生涯かけて守り抜こうと。


 あらゆる悪意や汚辱から遠ざけ、ただ美しいものだけを見せて育てようと決めたのだ。


 その決意は徹底されており、屋敷の使用人は厳選され、粗野な言葉を使う者は即座に解雇された。


 絵本一つとってみても、悲劇や残酷な結末を迎えるものは排除される。


 サリィナの世界は砂糖菓子と花の香りだけで構成されていたのである。


 やがて彼女は成長し、その美貌は「白薔薇の姫」とまで謳われ、王都でも評判となった。


 王太子テリオンとの婚約が整ったのも自然な流れだろう。


 テリオンは金髪碧眼の正統派な美男子で、当初はサリィナを大切に扱っていた。


 温室で育った花のような彼女に庇護欲を掻き立てられたのかもしれない。


 二人の仲は睦まじく、公爵夫妻も安堵の息を漏らす。


 これで娘の未来は安泰だと信じて疑わなかった。


 王宮という新たな温室に移し替えられるだけで、彼女は傷つくことなく生涯を終えるはずだった。


 だが運命とは皮肉なものである。


 あまりに純粋培養されたサリィナには人間的な「あく」が欠落していた。


 毒がない代わりに深みもない。


 会話は常に穏やかで、模範的な返答しか返ってこないのだ。


 テリオンが冗談を言っても、彼女はきょとんとして微笑むだけである。


「君は本当に美しいね」


「恐れ入りますわ」


「今日は天気がいい」


「ええ、本当によいお天気ですこと」


 そんな会話が延々と続く日々にテリオンが飽きを感じるのに時間はかからなかった。


 そこに現れたのが伯爵令嬢モモエである。


 彼女は鮮烈だった。


 赤毛を無造作に束ね、大きな口を開けて笑う。


 礼儀作法はなっていないが話題は豊富でウィットに富んでいた。


「殿下! そんな堅苦しい顔をしては皺が増えますよ!」


 王太子の背中を叩くような無礼な振る舞いさえ、テリオンには新鮮な風として感じられたのだ。


 彼がサリィナとの約束をキャンセルし、モモエと過ごす時間が増えていく。


 サリィナはそれを不思議に思ったが疑うことを知らなかった。


「殿下はお忙しいのですね」


 そう自分に言い聞かせ、刺繍に精を出すだけである。


 そして訪れた王立学園の卒業パーティー。


 大広間の中央で、テリオンはサリィナの手を振り払った。


 隣には勝ち誇ったような笑みを浮かべるモモエが寄り添っている。


「サリィナ・バーンスタイン! 君との婚約はこれをもって破棄する!」


 音楽が止まり、静寂が広間を支配した。


 サリィナは何が起きたのか理解できず、ただ瞬きを繰り返す。


「どうして……でございますか?」


「君はつまらないんだよ。人形と暮らしているようだ。それに比べてモモエは素晴らしい。人間らしい感情に溢れている」


 テリオンの言葉はサリィナの胸よりもむしろプライドを傷つけるべきものだった。


 しかし彼女には怒り方さえ分からない。


 ただ立ち尽くす娘を駆けつけたスレインとアンゼリカが連れて帰る。彼らにせよ、テリオンに言いたい事は沢山あったが今この場は愛する娘の心情をおもんぱかる事を優先した。


 馬車に揺られ屋敷に戻る道すがらも、サリィナは涙一つ流さなかった。


 感情の処理方法を教わっていなかったからだ。


 帰宅した屋敷のサロンには重苦しい空気が漂っていた。


 両親は顔を見合わせる。


 はあ、という大きなため息。


 そして娘を見る乾いた目……それが婚約破棄をされてしまったサリィナに対しての、父と母の最初の反応だった。


「育て方を間違えたかな?」


 スレインが疲れた様に言ってお茶を飲むアンゼリカを見る。


「少し過保護にし過ぎてしまったのかもしれませんわね」


 アンゼリカがそう答えた。


 過保護……そう、確かにサリィナは過保護……いえ、可愛がってもらっていたと思っていた。


 けれど今の両親の瞳にはかつての温かな慈愛の光が見当たらない。


 まるで不良品を前にした職人のような冷徹な評価だけがそこには漂っていた。


 サリィナは見捨てられたのだという絶望が冷たい雫となって胸の奥に広がるのを感じる。


 このままでは屋敷を追い出され、修道院へ送られる未来しか残されていないのではないか。


 恐怖に震える娘に対し、翌日から両親による奇妙な「再教育」が開始された。


 それは淑女としてのマナー講座でもなければ、刺繍の練習でもない。


「いいかいサリィナ。人の足を掬うにはまず相手が一番心地よい靴を履いている時を狙うのだ」


 スレインは紅茶を飲みながら、領地経営の裏帳簿の隠し方について講義を始める。


 アンゼリカは優雅に微笑みながら、毒を使わずに人を社会的抹殺に追い込む噂の流布について語った。


「真実の中に一割の嘘を混ぜるの。それが一番人の心にこびりつく毒になりますわ」


 サリィナは必死にペンを走らせ、両親の教えをノートに書き留めていく。


 覚えなければ捨てられるという強迫観念が彼女を机にかじりつかせた。


 しかし根が純粋培養されたサリィナには彼らの言う「悪意」の本質がなかなか理解できない。


 ある日、サリィナは両親の前で課題の発表を行った。


「使用人の靴を隠して業務を遅らせるのはどうでしょうか」


 彼女の精一杯の悪だくみを聞いた瞬間、スレインたちは顔を見合わせ頭を抱えてしまう。


「……可愛いが違うのだ。それはただの悪戯だ」


 スレインが深く嘆息し、サリィナは自分の無能さに唇を噛んだ。


 やはり自分はダメな娘なのだと涙が溢れて止まらなくなる。


 退出を命じられる前に自分から消えようと背を向けたその時だ。


「待ちなさい」


 呼び止めたのはそれまで沈黙を守っていたスレインである。


「書斎へ来なさい」


 低い声に逆らうことなどできず、サリィナは処刑台へ向かう囚人の足取りで後を追った。


 重厚な扉が閉ざされ、密室となった空間に緊張が走る。


 叱責されるのだと身を竦めた彼女の体を予想に反して温かな腕が包み込んだ。


「サリィナ、愛しい我が娘よ。勘違いをしないでおくれ。儂やアンゼリカはお前を疎んでいるわけではないのだ」


 耳元で聞こえた声はかつての優しい父のものだった。


 驚いて顔を上げるとそこには苦渋に満ちた父の表情がある。


「本来ならお前にはこのような事を覚えさせたくはなかったのだ」


 スレインは娘の髪を撫でながら、噛んで含めるように語り始めた。


「我が子に汚い部分を見せたがる親などどこにいる? お前には王太子妃として、そして将来の王妃として平和に幸せに暮らしてほしかった」


 その言葉には親としての深い愛情と後悔が滲んでいる。


「汚い事などは我々臣下がやれば良い……そう思っていたのだがそれが間違いだったのだよ」


 スレインはサリィナを椅子に座らせ、自身も向かい側に腰を下ろした。


「純粋さは美徳だが王宮という伏魔殿では無防備な肉片に過ぎない。我々がお前を守り過ぎたせいで、お前は牙を持たぬまま狼の群れに放り込まれてしまった」


 アンゼリカもいつの間にか入室しており、娘の手に自身の手を重ねる。


「だからこそ感情を交えず、淡々と教え込んでいこうと思ったのです。甘やかしてはまた同じ過ちを繰り返してしまうから」


 アンゼリカの瞳が潤んでいるのを見て、サリィナは自分の愚かな勘違いを恥じた。


「だがお前がそのように辛そうにしているのを見るのは儂にはもう耐えられない……。だからこうして説明したのだよ」


 スレインの言葉に胸のつかえが取れたようにサリィナの瞳から涙が溢れ出す。


 自分は愛されていたのだ。


 ただその愛し方を彼らは今娘のために変えようとしているに過ぎない。


「お父様、お母様……私、頑張ります。どんな悪辣な事にも手を染めてみせます!」


 涙を拭いながら宣言した娘に両親は複雑そうな笑みを浮かべた。


 そして、その日を境にサリィナの学習意欲は爆発的な向上を見せることになる。


 愛されているという自信は人をここまで強く貪欲にするものなのだ。


 最初は拙かった彼女の謀略案も、次第に洗練され鋭さを増していった。


 ある日の夕食時、サリィナは新たな計画を披露する。


「モモエ様のご実家の伯爵家ですが最近カジノ事業に手を出そうとしていますわね」


 彼女は肉を切り分けながら、淡々とした口調で切り出した。


「裏社会の顔役に手を回して、最初は勝たせてあげるのです。そして十分に資金をつぎ込ませたところで一気に梯子を外す。借用書の保証人は王太子殿下の名義を偽造させれば一石二鳥ではありませんか?」


 カチャンとナイフとフォークが皿に当たる音が響く。


 スレインとアンゼリカが信じられないものを見る目で娘を凝視していた。


「……サリィナ? それは少しやりすぎではないかね?」


 スレインの額に冷や汗が流れているのが見て取れる。


「そうですわよ。偽造は証拠が残ると厄介です。王太子殿下の筆跡を真似るより、殿下が懇意にしている商会を巻き込んで連帯保証にさせたほうがより『事故』に見えますわ」


 アンゼリカが慌てて修正案を出すがその顔もどこか引きつっていた。


「なるほど!さすがはお母様です。ではその商会の弱みも握っておく必要がありますわね」


 サリィナがメモを取ろうとするとスレインが慌てて娘の手を押さえた。


「ま、待ちなさい。まずはもう少し穏便な、そう、相手の評判を落とす程度から始めよう」


「評判? 生ぬるいですわお父様。根絶やしにしなければ雑草はまた生えてきます」


 無邪気な笑顔で答える娘に両親は顔を見合わせる。


 自分たちが開けてしまったパンドラの箱の深さに戦慄しているようだった。


 ◇


 季節が巡り、再び王宮で大規模な夜会が催されることとなった。


 そこはかつてサリィナが婚約破棄された場所であり、今夜は彼女の新たな門出の舞台でもある。


 会場には我が物顔で振る舞うモモエと彼女に付き従うテリオン王太子の姿があった。


「あらサリィナ様。まだ王都にいらしたの? てっきり田舎へ引っ込まれたと思っていましたわ」


 モモエが甲高い声で嘲笑し、周囲の貴族たちが様子を窺う。


 以前のサリィナなら恥ずかしさに俯いていただろう。


 けれど今の彼女にはモモエの挑発など子犬の遠吠えにしか聞こえない。


「ごきげんようモモエ様。素敵なドレスですわね。まるで今日の主役は貴女だと言わんばかりです」


 扇子で口元を隠し、サリィナはにっこりと微笑んだ。


「当然でしょう? テリオン様は私を選んだのですから」


「ええ存じております。ところでお父上の事業は順調ですか? 先日港に到着するはずだった積み荷が海賊の被害に遭われたとか」


 サリィナの言葉にモモエの顔色がさっと変わる。


 それは事実だがまだ公にはされていない情報だったからだ。


「な、なぜそれを……」


「公爵家の情報網を甘く見てはいけませんわ。それとその積み荷の保険金ですが……掛け金が支払われていなかったというのは本当かしら? 不思議な話ですわね、なぜ保険をかけなかったのです? 海賊による被害は以前より伝わっておりました」


 サリィナは首を傾げてみせる。


「保険金をかけないというのは掛ける金がないか……もしくは『保険を掛けられない理由』があるか。そのどちらかですわ」


 海運保険の契約時には保険組合による厳重な積み荷の検査が義務付けられている。それを避けたということは中身は決して検査官の目には触れさせられない「何か」だったということだ。


 モモエがよろめき、テリオン王太子が彼女を支える。


「サリィナ、何を言っているんだ。彼女を脅すつもりか」


 王太子が睨みつけてくるがその瞳にはかつての覇気がない。


 伯爵家の資金繰りが悪化し、彼自身も私費を投じていることをサリィナは知っていた。


「脅すだなんて人聞きが悪い。私はただ事実を確認しただけですわ。公爵家として王家に連なる家柄の方々が不正に手を染めていないか心配だったのです」


 サリィナは一歩踏み出し、二人の距離を詰める。


「不正? 何の話だ」


「伯爵家が輸入しようとしていたのは禁制品である『幻夢蔦げんむづた』だという噂があります。幻覚作用を持ち、一度使えば廃人となる猛毒……。もしそれが事実で王太子殿下が資金援助をしていたとなれば、ただのスキャンダルでは済みません」


 彼女は言葉を切り、意味深な沈黙を落とした。


 会場中の視線が疑惑の色を帯びて二人に突き刺さる。


 もちろん幻夢蔦の話は「真実の中に一割混ぜた嘘」である。確証は公爵家にもつかめなかった。


 しかし伯爵家が怪しい積み荷に手を出していたのは事実であり、完全な否定はできないはずだ。


「ば、馬鹿な! そんなはずはない!」


 狼狽する王太子を尻目にサリィナは遠くで見守る両親に目配せを送った。


 ここから先は大人の仕事である。


 スレインが衛兵を引き連れて、厳かな足取りでこちらへ向かってくるのが見えた。


 伯爵家の不正暴きと王太子の監督責任追及は数週間のうちに決着を見ることとなる。


 モモエの実家は爵位を剥奪された上に当主の死罪が言い渡され、その家族は王都追放の憂き目となった。こうまで厳しい沙汰が下ったのは嘘が誠であったからだ。実際にモモエの実家は幻夢蔦の輸入に手を染めていた事が詳しい調査により明らかとなった。

 

 死罪が当主一人で済んだ事は僥倖と言えるだろう。本来ならば家族も連座となる。ただ、今回については禁制品が出回る前に明らかになったため、そのあたりが寛恕された。 


 残されたのはテリオン王太子ひとりである。


 ここで一つの疑問が残る。

 

 なぜ王家はテリオンの独断による公爵家令嬢との婚約破棄という暴挙をすぐさま撤回させなかったのか。

 

 その理由は極めて俗物的なもの――「金」であった。


 実のところ、王家の財政は逼迫していた。長年の不作に加え、度重なる城壁の修繕費が国庫を圧迫していたのだ。

 

 そこへ現れたのがモモエの実家、シャザル伯爵家である。

 

 新興貴族である彼らは際どい商売で莫大な富を築き上げていた。彼らは王太子の歓心を買うため、そして王家に食い込むために湯水のように金を献上していたのだ。

 

 王家にとってシャザル伯爵家は決して手放したくない「金蔓」であった。


 加えて、「伯爵家」という家格も絶妙だった。

 

 公爵家よりは明らかに格が落ちるものの、男爵や子爵とは違い、王太子妃の実家としてギリギリ許容できるラインである。もしモモエが男爵家の娘であれば、国王もテリオンを叱り飛ばしていただろう。

 

 だがシャザル伯爵家の潤沢な資金力とそれなりの家格が王家の目を曇らせた。

 

「公爵家とは縁が切れるが背に腹は代えられぬ」

 

 そう判断し、王家はテリオンの火遊びを黙認したのである。


 しかし今、その頼みの綱であるシャザル伯爵家は崩壊した。

 

 金の切れ目が縁の切れ目。王家は慌てて新たなパトロンを探し始めた。

 

 王族といえど、その本質は「国で最も権威ある貴族」に過ぎない。金がなければ兵も雇えず、城の維持もままならないのだ。

 

 国王は有力な貴族たちに片っ端から接触を図った。

 

 だが誰一人として首を縦に振る者はいなかった。

 

 侯爵も、豪商も、地方の領主たちも、皆一様に困ったような顔をして王家の申し出を断ったのである。


 理由は明白だった。

 

 バーンスタイン公爵家――スレインが手を回していたからだ。


 ──『王家に金を貸すな。もし貸せば、我が公爵家は貴殿を敵とみなす』


 その無言の圧力は絶対だった。バーンスタイン公爵家は国内最大派閥を率いる筆頭公爵家である。王家の一時の恩情と引き換えに公爵家を敵に回したいと願う愚か者はいなかった。


 王家は完全に孤立無援となった。いわば経済的な兵糧攻めである。


 進退窮まった国王が頭を下げるべき相手はただ一人しか残されていなかった。


 そう、かつて息子が袖にしたバーンスタイン公爵家である。

 

 本来ならば娘の尊厳を泥靴で踏みにじった相手など、見捨てるのが筋である。しかしバーンスタイン公爵家当主スレインは王家の打診を受け入れた。


 そこには冷徹な計算があった。


 第一に国の安寧である。

 もしここで王家を瓦解させれば、国は分裂し、内乱の火種となる。それは隣国につけ入る隙を与えるだけであり、エスティナという国そのものの存亡に関わる事態だ。公爵家とて、沈みゆく泥船の乗客にはなりたくない。


 第二に実利である。

 自らが玉座を奪い取るよりも、弱体化した王家を存続させ、内部から意のままに操る方が遥かに旨味が大きい。恩を売り、恐怖を植え付け、逃げられぬように絡め取る。いわば「飼い殺し」にすることで、公爵家は影の支配者としての地位を盤石にできるのだ。


 そして何より、当事者であるサリィナ自身の変化が大きかった。両親による苛烈な「教育」を経た彼女はもはや愛だの恋だのという少女趣味な夢を見ることはなくなっていたのだ。

 

「テリオン様は御しやすい方ですわ。操り人形としては最適の素材でしょう」


 彼女は両親に対し、涼しい顔でそう言い放ったという。彼女はすでに一人の「貴族」として、感情ではなく損得で物事を捉える冷徹な視座を獲得していたのである。


 こうして、サリィナとテリオン王太子の婚約は再び結ばれることとなった。


 王家からの、なりふり構わぬ懇願という形で。


 ただし、以前とは力関係が完全に逆転している。


「サリィナ、その……すまなかった」


 王宮の庭園で、テリオンが気まずそうに頭を下げる。


 憔悴しきった彼は以前よりもずっと人間らしく、そして扱いやすく見えた。


「お気になさらないでくださいませ。誰にでも過ちはありますわ」


 サリィナは優しく微笑み、彼の手を取る。


「これからは私がテリオン様をお支えいたします。何一つ心配なさらなくて結構ですわ。私がすべての害虫を排除し、歩きやすい道を用意して差し上げます」


 そう言いながら、サリィナは婚約者の腕に寄り添った。

 

 

 

 (了)

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