同じ匂い、違う心
朝、目を覚ました律は、階下から漂う匂いに気づいた。バターを熱した香りと、コーヒーの香ばしさ。それに混ざって、ほんの少しだけ緊張の匂いがした。
キッチンからは声がする。母と……もうひとり。
階段を降りると、ふたり分の背中が見えた。
「おはよう」
何気ないふうを装って声をかけたが、喉の奥は少し乾いていた。
母がすぐに振り向き、口元を少し引きつらせながらも笑う。
「おはよう、律。今朝は……澪が早起きしてくれて」
“してくれて”という言い方に、ほんの少しだけ違和感が残る。
澪は振り返って「おはよう」と柔らかく言った。昨日と同じ、でも少し控えめな声色だった。
テーブルには、三人分の朝食。トーストに目玉焼き、ベーコンと簡単なサラダまで添えられている。
律は無言のまま椅子に座った。母が気まずそうに目配せをするのが分かったが、知らないふりをした。
「いただきます」と呟いて、トーストにかじりつく。
「澪が、久しぶりに朝ごはん、作ってくれたの」
母の言葉に、律は顔を上げずにパンを咀嚼した。
澪は、マグカップを両手で包むように持ちながら、ぽつりとこぼす。
「……あの頃みたいに、とは言えないかもしれないけど……でも、せめて……ね」
言葉の切れ端に、何かが隠れていた。
律はその“何か”を見つめきれずに、飲み込んだパンで喉を詰まらせそうになる。
母は沈黙を埋めるように笑って話す。
「ねえ、澪、あんたトースト焼くの相変わらず上手いのね。律も、焦げてない?」
「……別に」
母が少しほっとしたように見えた。
澪はそれ以上何も言わず、ただ静かに微笑んでいた。その笑顔は、何かを探るようで、同時に諦めているようでもあった。
朝食を食べ終え、律は立ち上がる。
「行ってきます」
母が台所から顔を出す。
「うん、気をつけてね」
少しだけ気を遣った声。
その後ろから、澪の声が追いかけてくる。
「……行ってらっしゃい」
振り返らず、律はドアを開けた。
曇り空。肌寒い風。
ポケットに手を突っ込みながら、律は思う。
――あいつ、何か言おうとしてたのか?
でも、それが何かなんて、考えるだけで胸がざらついた。
昨日のことも、昔のことも、ちゃんと話せるほど、まだ自分の中で整理がついていない。
律は小さく息をついて、歩き出した。