あの時の“遊び”
雨が降り出したのは、ちょうど下校のチャイムが鳴る頃だった。
律は傘を持っていなかったが、構わず歩き出した。濡れても誰も気にしないし、自分だってどうでもいい。
傘の花が次々と開いていく中、律だけがずぶ濡れになって歩く。前を歩く女子が一瞬だけ振り返ったが、目が合う前に律は視線をそらした。
“気持ち悪い”と思われたくなかった。そう思われたところで、別に驚きはしない。
家に着くと、玄関にもう一足、見慣れない靴があった。
「……ただいま」
声が少し掠れた。返事はすぐには返ってこなかったが、数秒ののち、台所の方から母の声がした。
「あ、律……おかえり。あのね、今日……少しだけ、澪が帰ってきてるの」
心臓が、軽く跳ねた。
リビングの扉を開けると、ふわりと柔らかい匂いがした。花のような、石鹸のような、それでいてどこか記憶に触れるような香り。
そして、ソファに座っていた彼女が、ゆっくりと顔を上げた。
「……久しぶり、律」
姉――澪だった。
長く伸びた髪を後ろで軽くまとめ、薄手のブラウスの袖をたくし上げていた。
昔と同じ輪郭のはずなのに、面影はどこか遠く、きれいになっていた。
律の言葉は出なかった。喉が、何かをせき止めたように動かなかった。
澪は立ち上がりもせず、けれど柔らかく微笑んだ。
「びっくりした? 急に帰ってきちゃって、ごめんね」
その声は落ち着いていて、どこか眠気を誘うような静けさがあった。
何もかも知っている大人の女の人、そんな空気を纏っていた。
律の視界に、記憶の映像がフラッシュバックする。
暗い部屋。毛布の上。ふたりきり。
細い指が、喉のあたりに添えられる。
――「動かないでね、律。こうやってると、どきどきするね」
無邪気な声だった。笑っていた。
遊びの延長。ごっこ遊び。
けれど息がうまく吸えなくて、怖くて、声も出せなかった。
そのとき、彼女はただ、楽しそうに笑っていた。
律は目を逸らす。澪と視線が合いそうになるのを避けるように、廊下の奥へと歩いた。
「……ちょっとだけ、こっちに戻ることになったの」
背中越しに、もう一度声がした。
あたたかくて、やわらかい。何かを誤魔化すような響きもあった。
「元気そうで、安心したよ」
足を止めそうになった。けれど、律はそのまま自分の部屋のドアを閉じた。
息をつく。背中が、じんわりと熱かった。
――なんで、そんな顔で笑えるんだよ。