物品③号
街路の桜花は散った。枝先にはもう葉が開きだしている。
陽射しが幾人ものビジネススーツの繊維に反射して駅前の横断歩道で輝く。ほんのりと今年の4月は冬が後ろ髪を引かれているようで半ばになろうというのにまだ冷たい風が吹く。
地方都市と言えど、ここは日に100万人以上が乗降するターミナル駅。仕事、学業、遊興、観光、人の営みには欠かせないこの都市の心臓部である。
人が多さが生み出す利点があれば、欠点も生まれる。その一つが落とし物だ。放置されれば単なるゴミになるそれらを施設の管理者は回収保管している。この駅の裏にも落し物センターと呼ばれる場所が存在する。
センターは駅長室と隣接しており、各駅や車で発見された落し物(=拾得物)はここに集められる。中はエアコンがないのに夏でもひんやり冷たく、蛍光灯を点けても薄暗い。金属製のラックが何列も立ち並び、日付ごとに仕分けた拾得物が一時保管されている。
届く物はまさに多種多様だ。スマホ、傘、財布、ワイヤレスイヤホンが特に多く、着脱可能な服飾品を中心によく回収される。珍しいものだと籠入りのハムスター等小動物ペット、コスプレに使うのかエアガンや模造刀、小パケの白い粉やカラカラに乾燥した植物……などもある。
最後は例外だが、この会社のルールだとこれらの拾得物は拾得日から原則7日間保管された後、全て警察に引き渡される。一路線で平日で約110件、休日なら約180件以上の拾得物があるため、いつまでも保管していたら駅が落とし物に占領されてしまうからだ。
しかし、中には警察移管せず7日を待たずに即処分される品がある。
なぜか。
答えはシンプル。それが危険だから。
その品を業界では”マルサン”と呼んでいる。
マルサンとは③のことで、拾得物の区分に由来する。すなわち①は貴重品、②は非貴重品、③はそれ以外の品……どちらにも該当しない”例外”を意味する。
即処分のマルサンの取扱いにはいくつか独自のルールが定められている。
【決して素手で触らない】
【5秒以上直視しない】
【愛着を持たない】
【〇〇〇〇を想像しない】
――などのルールがある。
ルールは駅員全員だけでなく、拾得物の回収義務を課せられた業務で駅に出入する清掃業者や配送業者も守らなければならない。
若い社員は特に疑問に思う。なぜ危ないのか、破ったらどうなるのか。もっともな意見だ。このルール、一説には戦前からあるという。長年の悪習、もとい慣習を安易に変えたくない古くて固い上層部を説得するのは簡単ではない。
百歩譲って危険なのは分かった。
ならばマルサンをどのように見分けるのか。判別できなければルールを守れず危険を回避できない。かといって拾得物を発見する度に手袋をし目を逸らしながら回収するのも手間である。
雑踏騒めく改札を横目にこの春入社したばかりの新人の研修が駅長室で行われていた。
新人の佐野は幼少からの憧れである電車に関わる仕事に就いた。電車運転士の専門学校に通っていたため、拾得物の仕事も少々知ってはいたが、拾得物の想像以上の多さとマルサンという謎のルールに困惑していた。
拾得物について、駅長からここまで説明を聞かされた佐野の顔には大きな疑問符が皺の寄った眉間と不満そうに歪めた口元に表れていた。
それを見たうえで大先輩である駅長の近藤は言う。
”立場が変わればものの見方が変わる。対象への扱い方も向き合い方も”
”気持ちが変われば物自体の見え方すら変わる。まるで鑑定士が真贋を見分けられるように”
「変わるって、精神論ですか? 具体的な方法は?」
「ない」
「…………」佐野の眉間にさらに影が増える。
「……すまん、方法はないんだ」
若者との距離感が年々掴めなくなっている近藤は自分が新人教育に向いていないと痛感している。元々会話が得意でないうえ、叱ってはいけない、茶化してもいけない、上から目線はダメときては適切な言い回しがわからない。ここ数日の研修を経ても、まだ今年の新人を勝手に手ごわく感じていた。
息を整えてから「ただし」と前置き、近藤は続ける。
「すぐに見分けられる人はいる。適性が有れば直感的にそれだと分かる。無ければじっくり経験を積んで勘を養うしかない」
「適性があるかないかはどうやってわかるんですか」
「――ふう。まあ君もいずれは知らなければならないからな。適性診断のため、変な質問をするが気を悪くしないでくれよ。んん……君は、身内や近しい人が亡くなった経験はあるか?」
「え、まあこの歳ですし、ありますけど」
「誰が亡くなった」
「昔、母方の祖母が。あと祖父は2人とも。……必要なんですか、これ」
「他には?」
「はぁ……親戚も2人くらい」
「親族以外は」
「はい? ……えっと……あの、友人が1人。中学時代の。……もういいですか?」
「待て。なら、その中で病死以外の死因はいるか」
「病気以外は、その友人だけです。」
「死因はなんだ」
「言わなきゃ駄目ですか?」
「……」近藤から無言の圧が溢れる。
「…………自殺です」
「っ、そうか……そうか、わかった」
佐野の返事を聞いて近藤は思わず目を背けた。
思い出しくない過去をつつき回され不服な佐野はいらつく。
「こんなことして、なにがわかったんですか」
「適性だと最初に言っただろう。君には有る」
「えぇ? もっとはっきり説明してもらわないとわかんないです」
「理屈は何もわからない。説明できないし私は答えを持っていない。私も先輩からそう教えられただけだ。ただこれまで30年以上駅員として働いてきた経験を踏まえても、確かに君には適性が有る」
「そう言われてもどうすれば……さっぱりなんですが」
「仕事をしてればそのうちわかる、らしい」
「らしいってそんな無責任な……」
「なにせ私には無いからな」
近藤の脳裏にはかつての同僚や過去指導してきた新人がフラッシュバックした。
「駅長? どうかしました?」
「昔に少し……いや何でもない」問題ない喉をわざとうならせてから、
「そうそう見つかる物じゃあない。色々話してきたが、まあ頭の片隅に入れておけばいい」
不安げな佐野に向かって、近藤は励ますように笑った。
「今後の君に事故がないことを祈ってる」
最終電車も車庫に入り、線路の点検や車両の清掃などが急ピッチで始められた。ここから始発までの5時間足らずで全ての裏方業務を完了させなければならない。客がいなくても忙しさは変わらない。
「――今日の拾得物だ。仕分けを頼む」
どさり。どさり。どさり。近藤が各駅と車両内から回収された拾得物を持ってきた。
「あ、はい。……承知しました」
量の多さに佐野は気が滅入る。
使い古した買い物カゴに入った落し物の数々。カゴは駅ごとに1つずつある。たった一日で、この路線だけで100を遥かに超える品が見つかる。
拾得物には拾った場所、時間、拾得者を記した”エフ”と呼ばれる紙がつけられている。小物なら物と紙をジップ付きの袋の中へ、大物なら直接針金で紙を結んである。
今からの彼の仕事は落し物をジャンル分けすること。まず貴重品か非貴重品かに分ける。日本円、スマホ、免許証やクレカは全て貴重品。印鑑や刻印入りの貴金属も貴重品扱いとなり、鍵付き部屋の中の厳重な金庫で保管される。貴重品のエフには①、非貴重品には②と書き、さらに駅ごとに分かれた容器に入れていく。量が量なだけに本来手隙の数人で行う作業だが、この日は研修という名目かつ病気や有休の重なりで佐野と近藤しかいない。
「仕分け中は忘れずにこれを着けろ」
素手の佐野に近藤は白色手袋を渡した。
深夜の駅長室に2人きり。物がこすれる音と時々ペン先が紙に滑る音がして、淡々と作業は進んでいく。
カゴの中をいちいち見ていては作業効率が悪い。慣れた手つきの近藤は近いカゴに手を突っ込んでは物を取り出し横目で確認したらエフを外して番号を記入、容器に分別していく流れを1個6秒ほどのペースで進めている。
佐野は口数の少ない近藤に話しかけるのを躊躇い、近藤のやり方を見て盗んで真似してみた。
カゴの奥へ手を入れ触れたものから引っ張り出して、品を確認する。非貴重品なので②と書いて同じ駅名の容器に仕舞っていく。体に馴染んでいない動作はぎこちないが、それでも自分なりのやり方より効率よく作業できると佐野は感じた。この調子で早く慣れていこう。
カゴの奥に手を伸ばしていく。
指先が物に触れた。佐野は咄嗟に手を引っ込めた。
中指の腹が手袋越しにほんの僅か触れただけだった。それだけで分かってしまった。
これだ。近藤駅長の言っていた落し物は。間違いなくマルサンだと直感的に感じた。
生まれて初めての感覚だった。触れただけで見知らぬイメージが皮膚を突き破り神経を這うように脳まで入ってくるような寒気のする感覚。
「君には適性がある」その意味を身をもって理解した。
心臓の鼓動がドンドン響いて全身に発汗を促してくる。
佐野はゆっくり口を開いた。
「駅長……ありました。この中にあります……マルサン」
「っ! 触ったのか!?」
「……ちょっとだけです。手袋もしてますし、大丈夫です」
「このカゴか。マルサンはどれだ?」
「えっと、多分……あ、これです」
なるべく中身を見ないように、けれど今度は慎重に中を探ると先ほどと同じ感覚になる物をすぐ見つけた。そっと引き出してみるとそれは弁当箱だった。
「これに入れろ!」近藤は真っ黒なゴミ袋を広げて構えていた。佐野は言われるままに袋へそれを放り込んだ。
たった10秒程の間に一晩の体力を消費したような疲労感が2人を襲った。
「……よくやった」
「いえ……あの、あれはどうするんですか?」
「捨てる。朝のゴミ収集時に業者へ他のゴミと一緒に渡す。それで終わりだ」
「本当に捨てていいんですか? 誰かの落とし物なのに」
「佐野」
近藤の目は諦念に満ちていた。お客様の荷物だろうと関係はない。それほどまでによくないものなのだから捨てる以外に方法はない……そう言っていた。
「わかりました……」
それ以上の言葉を飲み込んで佐野は従った。
しかし、気持ちは仕分け作業に戻れず思考だけが駅長室の自分から遠く離れていった。
弁当箱に触れた時、彼に入ってきたイメージはお墓だった。吹きつける空風、人気のない荒れた墓地にかろうじて立つ墓石。黒ずみひび割れ苔生したその墓前に弁当箱が置かれている。誰かがやってきて手を合わせる。その人は弁当箱の蓋を開けると、中には死んで腐った――
「佐野!!」
「は、はい!」
「教えただろう。”ルール”は守らなければ駄目だ。そうしないとお前が……」
「……守ります。やっと理解しました」
「……ならいい。気をつけろよ」
「ありがとうございます」
でも、もう――と誰かが小さく言った。
朝の引き継ぎまで、2人が言葉を発することはなかった。
退勤前に近藤は佐野に話しかけようとしたが、うまく言葉が出ず、
「お疲れ様」とだけ告げた。
佐野は無言で帰宅した。
翌日、佐野は轢死した。