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数年ぶりに再会した幼馴染が猫ちゃんになってしまったが、猫ちゃんのお世話を知り尽くした俺に任せてくれ!

作者: 黒足袋

 1


 その日、少年は天にも昇る気持ちで帰宅した。

 辿り着いたのは彼の契約したアパートの一室。

 今日から一人暮らしを始める新居であり、しかし彼は独りではなかった。

 少年が胸を躍らせる理由は、脇に抱えた猫用キャリーバッグに入っている。

 フローリングの床にキャリーバッグを置き、入口を開けながら彼は表情を綻ばせた。


「よしよーし、出ておいで」


 彼の声に応えるように、キャリーバッグの中から一匹の黒猫が姿を見せる。

 少年はそれを見て、歓喜の声を上げた。


「可愛いいいいいい。ほんとに可愛いなキミは。おやつ食べるか? ほら、にゅーるあるぞ」


 少年は猫が大好きだった。

 今まで家庭の事情でペットを飼うことはできなかったが、とある事件をきっかけに今日からこの部屋で黒猫との同居生活が始まる。

 その事実が、否応なしに彼の心を躍らせた。


「そうだキミに似合う可愛い首輪を用意してるんだ。ほら、つけてあげるよ」


 嫌がるそぶりを見せる黒猫に、少年は鈴のついた赤い首輪を巻き付ける。


「いやあ、キミは本当に可愛いな。写真撮ってSNSで自慢しないと。

 そうだオモチャもあるよ。ほら、猫じゃらしつきの釣り竿だ。一緒に遊ぼうね。

 それとキャットハウスもあるんだ。気に入ってくれるかな?

 あとあと、またたび入りのボールもあるんだ。ボール遊び楽しいぞー」


 スマホで写真を撮りながら、ありとあらゆる猫グッズを並べて黒猫の気を惹こうとする少年。

 そんな彼を見て黒猫はプルプルと左手を震わせる。


「いい加減に――してください!」


 少女の声とともに、黒猫は飛び上がり少年の頬を思いっきり殴り飛ばした。


「がっ、ぐふっ!」


 小さな黒猫の体から繰り出されたとは信じ難い衝撃に、少年の体は吹き飛び、新居の壁に叩きつけられる。

 その勢いで壁は凹みヒビが走ったのを見て、黒猫の表情に後悔の色が浮かぶ。

 一方で少年は洪水のような鼻血を垂らしながら、瞳を輝かせた。


「い、今のは猫パンチ! 猫ちゃんとの絆を深めた飼い主(げぼく)だけが味わうことができる最上級の愛情表現! 伝説の猫パンチか!」


 殴られたことに何故か感動しているが、少年の鼻血は止まることなく滴り続けていた。


「いえ、殴った私が言うのもなんですが違うと思います。というか――」


 黒猫は少年を睨み、少女の声で抗議の声を上げる。


「いい加減にしてください幸人(ゆきと)さん。医者(せんせい)の言葉を忘れたんですか? ネコナウィルス患者を猫扱いしては駄目です!

 猫用のおやつを食べさせたり、猫用のオモチャで遊んだりすれば精神が猫に近づいて、人間に戻れなくなるんですよ!」


 その言葉に少年は、はっと目を見開く。

 黒猫は強い口調で主張する。


「私は人間です! 人間の女の子です! 幸人さん、今ご自分のした行為を人間相手にやったらどうなると思います?」


 そこで少年はようやく気付いた。

 今までの自分の行動を、人間の少女相手にしたものとして脳内で置き換える。

 目の前の黒猫は服などは着ていない、当然裸だ。

 それ故に少年の脳裏には、一糸纒わぬ黒髪美少女の姿が描き出される。

 自分は何をした?

 自分は裸の少女に首輪をつけて写真を撮り、S N Sにアップするなどという蛮行に及んでしまったのだ。

 さらに言えば、またたびとは猫にとっては酒のようなものと言われている。

 またたび入りのオモチャで遊ぶのは、女の子に無理やり酒を飲ませて酔い潰させるに等しい最低の行為だ。

 そこまで考えて少年は吠えた。 


「う、うおおおおおおお! 俺はなんてことを! なんて取り返しのつかないことをしてしまったんだああああああ!」

「いや、まさかそこまで反省するとは思ってなかったです」

「すまない静雫(しずく)! 俺はお前に一生消えない傷を負わせてしまった。この罪は許されていいものじゃない! 俺は最低最悪の生きる価値のないゴミクズ野郎なんだ!」

「あ、あの、流石に大袈裟というか、そこまで自分を追い込まなくてもいいと言いますか」


 黒猫の言葉が耳に入っているのか、入らないのか。

 少年は涙と鼻血を流しながら、部屋の奥のガラス戸を開ける。


「ごめんな静雫。ここから飛び降りて死ぬのが俺にできる唯一の贖罪だ。シーユーアゲイン、地獄に行ってくるよ」

「ええ?」


 困惑する黒猫の目の前で、少年はガラス戸の外へ身を投げた。

 彼がいなくなり、静寂の戻った室内で黒猫の少女はため息を吐く。


「全く、人のことを可愛い可愛いって」


 誰もいない空間で、拗ねたように呟く。


「そういうのは、人間の姿の時に言ってくださいよ。幸人さんの、ばか」


 そんな彼女の独り言は空気に溶けていく。

 さて、何故こんなことになったのか。

 それを説明するには少し時間を遡る必要があるだろう。


 2


 突然だが、猫ちゃんってとてつもなく可愛い生き物だと思う。

 フサフサモフモフの毛並み、三角の耳、無防備で愛くるしい寝顔、そしてなにより俺の心を掴んで離さない肉球という神秘の存在。


「なあ、キミもそう思うだろ。ジェノくん」


 バスの揺れを感じながら、俺は長年連れ添った茶トラ猫ちゃんを膝の上に載せて背中を撫でる。


「ふふ、ジェノくんは今日も可愛いなあ。毛並みが綺麗で触り心地も最高だよ」


 そんなことを呟いていると、他の乗客の話し声が耳に入る。


「ママー、あのお兄ちゃん。猫のぬいぐるみ撫でながらニヤニヤしてて気持ち悪いよ」

「息子よ、目を合わせてはならぬ! あれはこの世ならざる存在。魅入られれば我らもあちら側に引き込まれるであろう」

「どうしたタカシ? ママなら一週間前に葬式を終えたばかりだろう。辛いだろうがお前も現実を受け入れて生きていくんだ。ところで父さんな、再婚の約束をした相手がいるんだが」

「はっ、ざけんなクソ親父。ママが生きてる時から不倫してやがったなテメエ。もう我慢できねえ、ぶん殴ってやる!」

「い、いや落ち着いて話を聞いてくれタカシ。髪の毛を引っ張らないで! カツラが! カツラがずれる!」


 なんかほのぼのした親子の会話が聞こえたような気がするが、まあ俺には関係ないだろう。

 俺は心を落ち着けるために茶トラの背中をもうひと撫でする。

 さあ、ジェノくん。

 もうすぐ着くよ。俺達の新しい家に。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 俺こと二階堂(にかいどう)幸人(ゆきと)は猫ちゃんが好きだ。

 近所に猫ちゃんを飼ってる家があれば毎日でも会いに行くし、今まで食べたパンの数は覚えてなくても、動画サイトの猫ちゃん動画をお気に入り登録した回数はやっぱり覚えていない。

 本音を言えば自分の家にも猫ちゃんをお迎えしたい。

 だが、両親の仕事の都合で各地を転々としていたウチではペットを飼うことはできなかった。

 しかし高校二年になる今年、両親を説得し、夢の一人暮らしを実現したのだ。

 俺の新たなる城、メゾン四宮(しのみや)

 年季の入ったアパートの前に立ち、ジェノくんを胸に抱く。


「ご覧、ジェノくん。今日からここが俺達の愛の巣になるんだよ」

「あっ、ウチのアパート、ペット禁止っすよ」

「ホワァイ?」


 早速出鼻を挫かれ、俺は声の方を振り向く。

 そしてその少女を一目見て、俺は息を呑んだ。

 春の日差しに照らされたツーサイドアップの髪は太陽よりも眩しい黄金色にキラキラと輝き、青空よりも澄み渡ったスカイブルーの瞳は、コウモリの髪飾りが示す通り小悪魔のように楽しさを滲ませている。

 四宮(しのみや)深白(みしろ)、このアパートの大家の娘にして俺の幼馴染の少女。

 彼女は片手を上げて元気に挨拶した。


「チョリーッス。お久しぶりっすパイセン!

 直接会うのは三年ぶりくらいっすかね。なんかめっちゃ背え伸びてて東京タワーよりデカくなってるから一瞬誰かわかんなかったっすよ」


 そう言って彼女はケラケラと笑う。

 まあ俺も身長を褒められて悪い気はしない。


「ああサンキュ深白。まあ東京タワーは俺の弟みたいなものだからな。東京タワーのオムツ替えたこともあるし、アイツには飯も奢ってやったっけ」

「マジっすか、パイセンぱねえっす! 東京タワーって何食べるんすか?」

「アイツ意外と少食だからなー、人の心に巣食う憎悪や嫉妬をよく食べるんだよ」

「東京タワーはラスボスだった?」

「憎悪ばっかり喰ってないで、魚や野菜もバランスよく食えって言ってるんだけどなー」

「それって同列に並ぶものなんすか! パイセンマジやばっすね」


 それにしても彼女と最後に会ったのは小学生の時以来か。

 俺の一個下で今は高一の筈だが、記憶の中の姿からずいぶん成長している。


「にしてもパイセンがウチのアパートに住むって聞いて楽しみにしてたんすよ。あっ、さっきも言ったけどペット禁止なんで」

「うっそ、引っ越し落ち着いたら里親募集とか調べるつもりだったんだが!

 大家が知り合いってことで、親がここしか許してくれなかったけど、なんという落とし穴!

 いいもん、俺にはジェノくんがいるから」


 言って俺はもっふもっふ毛並みの茶トラを抱きしめる。


「あー、そのぬいぐるみ。パイセンが小さい頃から大事にしてた子だ。可愛いけど、流石に男子高校生がぬいぐるみ抱いてる絵面はキツいっす。パイセン恥ずかしくないんすか?」

「何を言う。ジェノくんはこの世界を統べる魔王だぞ。真名(まな)はジェノサイド・ファイナルトルネード・オブ・ザ・ライトニングノヴァ」

「いや、そんな小学生が考えた必殺魔法みたいな名前つけて恥ずかしくないんすか?」


 呆れ顔の深白は置いておいて、俺は改めてアパートを見上げる。

 部屋数八部屋で二階建ての小さなアパートだ。

 そろそろ自分の部屋に入るとするか。


「俺の名前は二階堂幸人。今日から住む部屋二階をゲット。邪魔する奴は視界からアウト!」


 ご機嫌に歌いながら俺は外階段に足をかける。


「いや、ラップ調で歌ってもパイセンの部屋は一階っすよ」

「なんでだよ。俺は二階堂だぞ! 二階に住むのがジャスティスだろ!」

「二階堂だからって特別扱いされると思ったら大間違いっすよ。ウチのアパートの経営理念は二階堂もそうでない人も平等に暮らせる場所を提供することっすから」


 そんなニッチな理念、初めて聞いたわ。


「てかパイセン、自分の部屋も知らないとか下見とか一切しなかったんすね」

「遠かったからなー。ペット禁止を確認しなかったのは後悔してるよ」


 テンションだだ下がりで俺は階段を降りる。


「で、パイセンの部屋は一階の一番端っすよ」

「端ぃ?」


 改めてアパートの前に立ち、建物を見上げる。

 一階と二階にそれぞれ四部屋づつ。

 俺は一階の右端の部屋へ向かいドアノブを回した。


「きゃあっ!」


 俺がドアを開くと同時に、丁度中から出ようとしていたらしき少女がよろめきながら姿を現す。

 何ということだ。この部屋は美少女付き物件だったのか。

 部屋から出てきた彼女を改めて見る。

 肩口まで伸ばされた栗色の髪は両サイドで細三編みにして結えられており、頭に載せた白いセーラー帽と、青と白のセーラーワンピが清楚な印象を引き立てていた。

 気弱そうなブラウンの瞳が俺を見つめて揺れる。


「あ、あの」


 彼女が何かを言おうとして口を開く。


「あの、その、あ、あな、貴方は? ええっと、こ、ここ、ボ、ボクの、部屋、だよ」


 顔を赤くしてめっちゃ言葉に詰まってた。

 わたわたと焦りながら話す彼女が可愛くて、とても庇護欲をくすぐられる。


「よし暮らそう! 今日から俺達は家族だ! お兄ちゃんがキミを守ってあげるからな!」

「えっ、ええ!」


 セーラー帽の彼女が困った声を上げると、深白が呆れた様子で言葉を吐き出す。


「はい、セクハラー! パイセン、イエローカードで通報っす」


 なんだと? 俺は即座に反論する。


「ズィスイズマイハウス、ドゥーユーアンダスタン?」

「今日からパイセンの家はブタ箱っすよ」

「美味しそうじゃねえか、豚肉は好物なんだ」


 俺の歓迎会のメニューが豚しゃぶに決まったところで、深白は説明する。


「パイセンの部屋は一階の左端っす。右端(そっち)奏音(かのん)パイセンの部屋っすよ」

「奏音?」


 その名前には覚えがあった。


「お前、奏音か! うわー、久しぶりだな。俺だよ、幸人だよ。小学生の頃一緒に遊んだろ!」


 俺の幼馴染の一人、三枝(さいぐさ)奏音(かのん)

 引っ込み思案で、俺達幼馴染組の背中に隠れていた姿を思い出す。

 俺と同じ高二の筈だが、根本的な性格は昔と変わってないらしい。


「えっ、ユキ。あの、あの、今日からここに住むって言ってた、あの?」

「そうそう、ユッキーパイセンは今日からウチらメゾン四宮の家族(ファミリー)っすよ」

「おう、今日からよろしくなお隣さん」

「いや、お隣ではないっす」


 言って深白はこちらにジト目を向ける。


「パイセンの部屋は一○一号室。奏音パイセンが住んでるのは一○四号室っす。

 で、パイセンのお隣である一○二号室の住人は何を隠そうウチなんすよ」

「へー、お前もここに住んでるんだ」


 親の物件で一人暮らしなんて、微塵も独り立ちできてないと思うが。

 そんな風に考えてると、深白は嬉しそうに自分の顔を指さしてアピールする。


「パイセンパイセン! ウチの好感度上げておけば、料理作り過ぎちゃってお裾分けイベントとか起きるかもしれないっすよ」

「お前、料理できんの?」

「得意料理は憎悪と嫉妬のグラタンっす!」

「魚や野菜もバランスよく食えって言っただろ!」


 三年ぶりの再会だが、スルスルと昔の感覚が戻ってくる。

 そうだ、あの頃も俺達はこんな風に馬鹿騒ぎをしてたっけ。

 俺と深白と奏音と、そしてあと一人。

 そういえばあの子は元気でやってるかな?

 そんな風に昔一緒に遊んだ幼馴染に思いを馳せていると、そこに凛とした声が割り込んでくる。


「あれ、お客さんですか?」


 カンカン、と金属製の外階段を下る足音と共に、その少女は俺達の前に姿を現す。

 春一番の風に吹かれて靡く長い髪は、見惚れるほど美しい烏の濡れ羽色で、顔の左側の髪に巻き付けられた赤い紐リボンがよく似合っていた。

 均整のとれた顔立ちは、熟練の職人が手がけた精巧な日本人形の様であり、あどけなさと淑やかさが同居している。

 白いノースリーブシャツの上に黒いジャケットを緩く着崩したファッションは、ジャケットに袖を通してなお肩出しスタイルになっており、とてもキュートだ。

 ベージュのキュロットパンツからスラリと伸びた生足は健康的な魅力を放っている。


「あれっ、貴方は?」


 俺を見て不思議そうな顔をする彼女に、片手を上げて挨拶をする。


「よお! 今日からこのアパートの一億一号室に越してきたんだ。よろしくな静雫(しずく)

「一億一号室! ウチのアパートにそんな隠し部屋があるんすか!」


 深白うるさい。

 今は目の前の黒髪美少女と話してるのよ。


「えっ、私の名前?」

「そうそう、久しぶりだな。一葉(いちよう)静雫(しずく)ちゃん。俺のこと覚えてないか? 昔よく一緒に遊んだろ」

「昔、そういえば」


 遠い目をしながら、彼女は過去に思いを馳せる。


「目出し帽を被った小太りな中年男性が、息を荒くしながら『お嬢ちゃん可愛いね。アイスあげるからウチに遊びに来ない?』って誘ってきたことが」

「その人、絶対俺じゃないから! よく魔法少女ごっこに付き合ってあげた優しいイケメンお兄ちゃんの二階堂幸人を思い出して!」


 不審者おじさんに記憶を上書きされまいと俺は必死に思い出をアピールする。

 その言葉に静雫は納得の表情を浮かべ、言葉を吐き出す。


「幸人さんだったんですね。お久しぶりです。会わない間に大分成長してたんでわからなかったです」


 ぺこり、と礼儀正しく頭を下げながら彼女は再会の挨拶をした。


「はは、さっきも深白に言われたよ。もう俺は東京タワーよりもビッグになっちまったからな」

「いえ、流石に東京タワーが比較対象なのはおかしいと思いますが」

「魂のサイズが俺の方がずっとデカいんだよ。俺の魂は五十万キーロメトロだから」

「ファンタジー小説に出てきそうな架空の単位出されてもさっぱりわかりませんよ!」


 そこに深白が割り込んでくる。


「しっずっくー、アンタが一番ユッキーパイセンに懐いてたよね。大人しいフリしてないで再会のチューでもしたらどう? どう? どう?」


 ウザテンションで絡む深白に対し、静雫は冷ややかな目線を向ける。


「ウッザ、死ねよ。過酷なラジオ体操で首を二百七十度回転させて死ね」

「ラジオ体操に罪をなすりつけないで! ウチが死んでもラジオ体操は無実だから!」


 静雫は俺を始めとした歳上には礼儀正しいけど、同い年の深白にはちょっと砕けた喋り方をするみたいだ。

 そこに奏音が口を挟む。


「あの、あのあの、その、ホントに久しぶりだねユキ。それに猫ちゃんも」


 奏音の視線が、俺が脇に抱えている茶トラ猫に注がれる。


「おっと、そうだな。俺だけじゃなくジェノくんとも久しぶりの再会だよな。ジェノくん、ご挨拶しような」 


 その時だった。俺がジェノくんを胸に抱くと、静雫の表情が強張る。

 そして彼女は声を震わせながら言葉を吐き出す。


「ジェノサイド・ファイナルトルネード・オブ・ザ・ライトニングノヴァ! まさか、魔王まで帰還するとは」

「あの、静雫? なんでその子のフルネームは覚えてるの?」


 奏音の疑問には答えず、静雫は踵を返し、外階段に足を向ける。


「すいません、用事があるのでこれで失礼します」

「どうした静雫? 顔色が悪いみたいだが」

「お気になさらず、なんでもありません」


 ジェノくんを見てから静雫の様子がおかしい。

 彼女は逃げるように階段を駆け上がっていく。

 その時――


「きゃあっ!」


 彼女が階段を踏み外し、バランスを崩した。


「おい、危ない――」


 だが続く目の前の光景に俺に思考は真っ白になった。

 外階段の上に静雫の衣服が舞う。

 彼女の姿はその場から忽然と消え、身に纏っていた服だけが無造作に階段に落ちた。


「はっ? 一体なにが」

「静雫が消えちゃったっすよパイセン! 人体消失マジックっすか!」


 そんな愉快な特技は残念ながら俺にはない。

 その時、静雫の衣服の下で何かがモゾモゾと動いた。

 やがてその存在は、衣服の山を掘り進み、隙間から顔を出す。


「あれっ、私は確か部屋に帰ろうとしてた筈じゃ」


 そんな静雫の声が聞こえる。

 しかしその場に静雫の姿はない。

 彼女の代わりに言葉を発したのは、服の下から現れた小さな黒猫ちゃんだった。

 なんということだ!

 俺の全身に電流が走る。

 目の前に鎮座する黒猫ちゃんを見て、俺の脳は冷静に一つの解答を導き出していた。


「か、可愛いいいいいいいい!!」

「えっ? えっ、幸人さん? なんなんですかこれ? 私の目線が低いような」


 正反対のテンションで騒ぐ俺達を後ろで奏音と深白が言葉を交わす。


「あの、あの、これってまさか」

「ええ、ウチもビックリっすよ。まさかウチのアパートから感染者が出るなんて」

「うん、ボクも初めて見た。これが――」


 奏音の口からその名が告げられる。


――ネコナウィルス患者、と。



『オージーザス! なんという事デース! 人間が猫になるという恐るべきウィルス、その名もネコナウィルス! まさか私の可愛い一人娘の静雫が感染するなんて! この世には神も喉仏もないのか!?』


 パソコン画面越しに男泣きする静雫の親父さん。

 次の瞬間、彼の首が筋肉質な腕にホールドされ、締め上げられた。


『喚くんじゃねえよお父さん! 静雫は大丈夫だ! アタイらには筋肉の神様がついてる! 筋肉がある限りウィルスなんぞに負けやしねえ! 静雫は必ず死の淵から息を吹き返す! アタイらの娘を信じてやろうぜ』

『オウ! お母さん、グヘッ、く、苦しいデース! ジャパニーズ三途の川が見えマース』


 筋肉ムキムキでガタイがいいこの女性は静雫のお袋さんらしい。

 両親揃ってキャラが濃すぎる。

 黒猫ちゃんの姿となった静雫はパソコンカメラ越しに両親の言葉をかける。


「お父さん、お母さん、私のことは心配しなくて大丈夫です。ネコナなんてただの風邪みたいなものですから」


 いや、現在進行形で首を絞められてる親父さんを心配してあげて。


「その通りだ静雫ちゃんのご両親!」


 その時、シルバーネックレスをジャラジャラと首から下げた、茶髪混じりのアップバングの青年がパソコンカメラに向けて力強く言葉をぶつけた。


「ウチの病院に静雫ちゃんを連れてきたからにはもう安心。世界最強の獣医であるこの二階堂光亮(こうすけ)がネコナウィルスを必ず完治させて見せますよ。黒船に乗ったつもりでいてください」


 ペリーに開国迫られたらどうするんだよ。

 しかし彼の登場に、静雫の両親の目の色が変わる。(ついでに親父さんが首締めから解放される)


『アンタは最強獣医決定戦の世界チャンピオン、二階堂先生じゃねえか!』

「最強獣医決定戦って何!?」


 思わず俺は声に出してツッコんでしまう。

 それに答えたのはドクター二階堂本人だ。


「知らないのか? 言葉通り最強の獣医を決める大会だ。参加者は猛獣の檻に入って、最後まで生き残った獣医の勝ちだ」

「獣医ってそんなデスゲームやるの!?」


 既に社会人として独り立ちし、家を出ている俺の兄、二階堂光亮。

 離れて暮らしていたせいなのか、獣医の仕事というのは俺の想像とは大分かけ離れたものになっていた。

 そこで兄貴は俺に顔を向け、世間話でもするかのように軽口を叩く。


「そういやお前と会うのも久しぶりだな、幸人。家出してきたんだって?」

「家出じゃないですう。今日からメゾン四宮で一人暮らしするんですう」

「知ってるよ。俺と一緒のアパートってことでなんとか母さん達を納得させたんだろ」


 くっくっく、と意地悪く笑う

 そう、兄貴もまたメゾン四宮の住人の一人だ。

 現在俺達がいるのは、兄貴が勤めている動物病院の診察室。

 室内にいるのは俺と兄貴、猫ちゃんになった静雫と、そして深白と奏音。


「それにしてこんな形で光亮さんの職場にお邪魔するなんて思わなかったっすよー」

「うん、静雫がこんなことになって不安だったけど、光亮お兄さんならきっと助けてくれるよね」


 メゾン四宮の住人は俺含め六人。

 その内、五人がこの診察室に集まっている形になる。

 そういえば、最後の一人とはまだ会ったことがないな。

 そう思っていると、ガチャリと音を立てて入り口のドアノブが回された。

 噂をすればなんとやら、きっと現れたのはメゾン四宮の最後の住人である――


「グアアアアアアアア!」


 いや、誰!?

 乱暴に開け放たれたドアから熊が雄叫びを上げながら入ってきた。

 熊は手に持ったアサルトライフルを俺達に向ける。


「熊!? なんで熊がここに!?」

「ユユユユユユキ、どうしよう」


 取り乱す深白、涙目になりながら頭を抱える奏音。

 そんな中で一人冷静な様子で、兄貴は言葉を吐き出す。


「どうやら、お腹を空かせた熊さんが山から降りてきたようだな」

「山にいる熊さんがあんなゴツいアサルトライフル持ってるわけないだろ!」

「多分、山にはアサルトライフルの木が沢山生えてるんだよ。この辺の名産品だしな」

「名産品買ったら銃刀法違反になっちゃう!」


 一方、その光景をパソコン越しに見ていた静雫のご両親も悲痛な叫びを上げる。


『クマだあー! 静雫逃げるんデース!』

『筋肉を信じろ静雫うううう!』


 くっ、なんてことだ。

 とにかく可愛い猫ちゃん姿になってしまった可愛い静雫だけでも守らないと。

 ああ可愛いな。あと熊怖い。


「クマアアアアアアアン!」


 謎の雄叫びと共に熊は兄貴に銃口を向ける。

 狭い診察室内に無慈悲な銃声の連射が響き、俺は瞼を閉じた!

 銃弾を正面から受けた兄貴は、果たしてどうなったのか?

 目を開けると、兄貴は熊の前に立ち、片手を突き出していた。

 その指の間には何発もの鉛玉が挟まっている。

 まさか、銃弾を素手で掴みとったとでも言うのか?

 兄貴は不敵な笑みを浮かべながら、熊に向けて言葉を放った。


「朝飯にハエが止まって見えるぜ」


 汚い!

 銃弾にハエが止まるほどゆっくりに見えるとか、朝飯前だぜとか言いたかったんだろうが、絶妙に残念な決め台詞になっていた。

 そこで兄貴は銃を構えたままの熊に優しく微笑んだ。


「わかってる。腹減ってんだろ? だから人里に降りてきたんだよな」


 言って彼は熊の片手に自分の手を重ねる。


「ほら、これで美味いもんでも食え」


 そして熊の手には一万円札が置かれていた。

 いや、熊に日本円を渡してどうすんねん!

 しかしそれが効果があったのかなんなのかわからんが、熊は急におとなしくなり、万札を握りしめて診察室のドアから出ていった。


「またのお越しをお待ちしています」


 などと兄貴は呑気に言うが、二度と来ないで欲しい。

 熊が去ると、室内が落ち着きを取り戻す。

 続いてパソコン越しに静雫の両親が興奮した様子で捲し立てた。


『す、すげええええ! 暴れてた熊を一瞬で手懐けちまった! これが世界最強の獣医の力か! 先生アンタすげえよ!』

「はっはっは、獣医たるもの動物の気持ちがわからないと務まりませんから」


 獣医は猛獣使いじゃないと思うんですが。


『流石デース。どうしてあの熊さんが空腹だってわかったんデースか?』

「今朝の星座占いで熊座の人のラッキーアイテムがアサルトライフルでしたからね。そこから推測した結果です」


 何をどう推測したんだよ! 熊座って何月生まれだよ? ラッキーアイテムがアサルトライフルって言われても一般人には調達できないよ!

 その星座占い、インチキって言葉で済むレベルじゃないだろ!

 俺は診察室のドアに目を向ける。

 結局あの熊は一体何者だったんだ? というか病院内をあんな熊が歩いてたら大騒ぎになるのでは。

 内心ビビりながらも熊の正体が気になり、ドアを開けて廊下へ出る。

 すると、そこに奴はいた。

 熊はアサルトライフルを廊下の壁に立てかけ、自分の頭を両腕で掴んでいる。

 そして勢いよく頭を取り外した。

 熊の頭の下からは、美しいアッシュブロンドのポニーテールが姿を現す。

 なんと! あの熊は着ぐるみで、しかも中に入っていたのは女の人だったようだ。


「あの、貴方は一体?」


 背後から声をかけると、彼女が振り向く。

 その顔を一目見て、俺は息を呑んだ。

 整った目鼻立ちはまるで神に愛されたような造形美。

 絵画から出てきたような静謐さと可憐さを併せ持つ彼女は深窓の令嬢のようであり、その口から紡がれる声は小鳥の囀りのように綺麗な音色を――


「クマアアアアアアアン!」


 恐ああああああああああい!


「あっ、すいません。ついつい熊マインドトランスが深すぎて人間語を忘れていました」


 申し訳ないと彼女は一礼する。

 ビビったあ! 熊マインドトランスの意味はさっぱりわからないけど、とにかく恐かった!

 彼女は上品に微笑みながら言葉を紡ぐ。


「二階堂先生の弟くんですよね? 初めまして、わたくしは五月女(さおとめ)凛々(りり)と申します。今回は先生のお手伝いをさせていただきました」


 お手伝い、その言葉を聞いて俺は合点がいった。


「つまりさっきのは兄貴の獣医としての腕を見せつけて、静雫の両親の信頼を得るための芝居だったんですね」

「察しがよくて助かります」


 そうか、そうだったんだ。そりゃあ病院に熊が忍び込んでくるなんておかしいもんな。


「じゃあ、あの銃も人を傷つけるものじゃなくて、実はオモチャの銃だったとか――」

「あっ、あれは本物ですよ。本気で二階堂先生を殺そうとしました」

「なんで!」


 見るからに清楚でお淑やかなお姉さんが、俺の身内に殺意を向けていることが発覚したのだが俺はどんな反応をすればいいんだ。


「自慢じゃないのですが、わたくしの家はお金持ちで裏社会にも繋がりがあるんです。それで駄菓子屋のお爺ちゃんから肩叩き券と引き換えに銃を購入したんです」


 恐い! 駄菓子屋のお爺ちゃんって何? 肩叩き券って何? 言葉どおりに受け取っていいの? 何かの隠語なの?


「いやいや、銃の入手経路よりもウチの愚兄を殺そうとした理由をお聞きしたいのですが? 兄が何か失礼をしていたら弟として全力で謝罪します」

「いえいえ、先生はとても紳士的で素敵な方です。恨みなんてこれっぽっちもありませんよ」


 どうやら怨恨の線ではないらしい。では一体何故兄貴は命を狙われてるのだろう?


「そうですね。それを説明するにはわたくしと先生の出会いから話さなければなりません」


 そう言って凛々さんは遠い目をしながら語り始める。


「あれはわたくしが大学の春休み中のことでした。暇を持て余していたわたくしは、どこにでもいる一般的なお金持ちらしくデスゲーム観戦に出かけました」


 お金持ちのイメージが歪みまくってる!


「そうして辿り着いた最強獣医決定戦、そこでわたくしは先生と出会いました。

 毒蛇に首筋を噛まれても、ライオンに頭から食いつかれても、先生は笑顔を絶やさず平然としていました。そんな彼の不思議な魅力にわたくしは気付けば心奪われていたんです」

「俺も不思議だよ! なんで兄貴生きてんだよ!」

「そう、それなんですよ」


 凛々さんが興奮した様子で捲し立てる。


「何故先生は生きているのか? どうやったら死ぬのか? それをわたくしの卒業論文のテーマにしようと決めたのです。ほら、お金持ちって不老不死に憧れるものでしょう?」


 へー、大学生って卒業論文とかあるんだ。大変なんだなー。

 いや、ウチの兄の生死を研究課題にされる方がもっと大変だわ。


「と、言うわけで先生がどうしたら死ぬのか、わたくしは日夜研究を続けているというわけです。ところで弟くん」


 凛々さんは先ほど兄貴からもらった万札を熊ハンドで器用に掴み、ひらりと翻して見せる。


「バイト代も貰えたので、一緒に牛丼でも食べに行きません? 奢りますよ」

「お金持ちのなのに食の好みが庶民!」


 マッド過ぎるお嬢様の登場に俺が戦慄していると、彼女は恍惚とした表情で頬に手を当てながら語る。


「色んな高級料理を口にしてきましたが、やはり牛丼こそがこの世で一番美味しい飲み物だとわかりました」

「庶民のファストフードにハマっちゃうタイプのお嬢様キャラだったかー」


 めちゃくちゃ頭のヤバいお嬢様を前に、俺はもう診察室に戻りたい一心だった。


「とりあえずお気持ちだけ受け取っておきます。友達がネコナになっちゃってそれどころじゃないんで」

「あらっ、それは大変です。何かあったらわたくしを頼ってください。すぐ近くにいますから」

「えっ?」


 すぐ近くにいる? それってどう言う意味だ?


「申し遅れました。私はメゾン四宮の二◯二号室の住人です。一緒のアパートに住む者同士、これからよろしくお願いします」

「なんで? なんでお嬢様があんなボロアパートに!」

「それはもちろん先生を暗殺、コホン。ではなく生命の神秘を探求するために」

「今さら取り繕わなくていいです!」


 頭痛えええええええええ。

 静雫のネコナだけでも大変なのに、お金持ちで裏社会と繋がってるお嬢様に兄貴が命を狙われてるという情報量は俺のキャパシティをオーバーしている。

 俺は逃げるように、診察室へ戻るのだった。



「というわけで静雫ちゃんの世話係は幸人にけってーい! はい拍手」


 診察室に戻ると、兄貴の明るい声とともに、天井から垂れ下がったくす玉が割れ、俺の頭に紙吹雪が舞い落ちる。


「えっ、いや何? どういう状況? 人がいない間に何決めてんの?」


 問い詰めると兄貴は悪びれる様子もなく答える。


「そりゃ、静雫ちゃんは一人暮らしなんだぞ。猫の姿じゃ家事もできないし、誰かが面倒を見ないといけないだろ」

「申し訳ありません幸人さん。お手数をおかけします」


 兄貴の言葉に続き、黒猫ちゃんになった静雫がすまなそうに告げる。

 しかし、俺が静雫の世話係? つまり今日からこんなに可愛い黒猫ちゃんとの共同生活が始まると言うことか?


「とりあえず静雫ちゃんには薬を出しておくから数日は様子見だ。幸人は春休み中で暇だろ? 猫の扱いもわかってるし、一緒のアパートで住んでるんだからこれ以上なく適任だろ」


 むっ、むむ。確かにもっともらしい理由だが。


「確かに俺は昔から猫ちゃんとの生活を夢見て、猫ちゃんの飼い方を勉強してきたし、猫ちゃんの喜ぶおもちゃ類を集めて日々イメージトレーニングに励んできたとは言え、こんなに可愛い猫ちゃんと一緒に暮らすなんて、いや可愛い、本当に可愛いな。もふもふしたいな。肉球触りたい」


 話しながらも俺の視線は可愛い可愛い黒猫ちゃんに釘付けになり、途中から自分が何を喋っているのかもわからなくなった。


「めちゃくちゃニヤけてるじゃねーか、嬉しいなら素直に言えよ」

「あの、幸人さん? なんだか目が怪しく輝いているように思えるのは気のせいですか? 早くも身の危険を感じるのですが」

「あのあの、イメージトーレニングって、その、ひょっとしてユキがいつも抱いてる猫ちゃんぬいぐるみはそういうことに使ってたの?」

「リアル猫を飼ってるわけでもないのに、猫用おもちゃとぬいぐるみでエア飼育してたとか、ちょっと怖いっすよパイセン」


 みんなが何やら言ってるがもはや関係ない。今日から俺は静雫猫ちゃんと一緒に暮らすのだ。


「そんじゃパイセン、ウチからの餞別っす」


 深白が可愛らしいピンクのナップザックを俺に渡す。


「静雫の着替えを詰め込んできたので、人間に戻った時に使ってください」


 人間に。そうか、冷静に考えるの今の猫ちゃん姿の静雫はすっぽんぽんなのだ。

 突然人間の姿に戻ったりしたら大変なことになるかもしれない。


「幸人さん、なんで顔を赤くしてるんですか?」


 猫ちゃんの静雫がジト目で見つめてくる。

 いや、だってほらもしラッキースケベ的な展開になったらと思うとドキドキしてくるのは仕方ないだろ?


「あのねユキ、もしもの時はこれを使って」


 言って奏音が数個のマフィンが詰められた透明な袋を差し出してくる。

 お手製らしきラッピングを見て俺は察した。


「ひょっとして奏音の手作りか?」

「あ、うん、その、ボクお菓子作りが趣味で。って言っても下手の横好きなんだけど」

「いや、美味しそうだよ。食べていいか?」


 俺は袋からマフィンを一個取り出して口に運ぶ。


「あっ、待ってユキ。それはね、いざというときに食べて。もし静雫が突然人間に戻ったら、この子の裸を見た記憶を消す為に使って」


 記憶を消す? 不穏な響きに俺は問い返す。


「つまりこれはラッキースケベの記憶を都合よく消せるマフィンだということか?」


 しかし奏音は首を横に振った。


「えっとね、そんな都合のいいものはないから。そのマフィンを食べた人は、全部の記憶を失って言葉も喋れなくなるの」

「恐い! なんて恐ろしいものを!」


 即座に俺は食べようとしていたマフィンを袋に戻す。


「あっ、ごめんねユキ。やっぱりボクみたいな素人の作ったお菓子なんて駄目だよね。想定外の副作用が起きたら大変だもんね」

「いや想定通りの主作用が既に大問題なんだが!」


 そこで深白と兄貴の揶揄が飛んでくる。


「パイセン、女の子の手作りお菓子っすよ。一口くらい食べましょうよー」

「そうだぞ幸人、別に死ぬわけじゃなし」

「反応おかしいだろ! 俺が廃人になってもいいのかよ!」


 ワイワイ騒いでいると、奏音が自信なさげに俺を見つめながら言った。


「あ、あのね、ユキ、もし良かったら、食べた感想とか聞かせてほしいな」

「食べたら言葉も忘れちゃうのに!」

「だ、大丈夫だよ。たとえユキが何も話せなくなっても、ユキの気持ちはなんとなくわかると思うんだ。ボクら幼馴染だもん」

「幼馴染の絆ってやつか。イイハナシダナー。そもそも俺を廃人にする元凶がお前ってことに目を瞑れば美談なんだろうなー」


 そんなやりとりを経て、俺は今日から一人暮らしする予定のアパートに一匹の同居人を連れて帰るのだった。



 そして冒頭へ戻る。


「ただいまー! 静雫、今日も可愛いなー!」


 自室のドアを開け、リビングに入りながら可愛い可愛い黒猫ちゃんに挨拶する。

 静雫は呆れたような顔で言葉を返した。


「あの、幸人さん。今がどういう状況かわかってます?」

「ああ、俺は静雫に許されざるセクハラ行為を働き、窓から飛び取りて死んで償った。

 今の俺は生まれ変わった清く正しい幸人お兄ちゃんだ」

「いえ、この部屋一階ですし、飛び降りてもケガひとつしないと思いますが」

「俺は二階堂だぞ」

「いや、ここは一階なので」

「二階堂だ! 二階堂に不可能はない!」

「あっ、はい。なんか、すいません」


 俺は室内に足を踏み入れる。

 一歩あるくと鼻からボタボタと血が床に落ちた。


「というか幸人さん、殴った私が言うのもなんですが、いい加減鼻血を拭いて下さい」

「ん、そうだな」


 その時、ピンポーンとインターホンが鳴り響いた。

 同時に玄関の外から少女達の声が届く。


「パイセーン、アナタの可愛い後輩が遊びに来ましたよー」

「ユキ、何か困ってない? 手伝いに来たよ」


 聞き覚えのある声に、俺は問いを返す。


「新聞ですか? 宗教ですか?

 新聞なら耳の穴と鼻の穴に新聞紙を詰め込んで追い返す。

 宗教なら耳の穴と鼻の穴に千手観音を突っ込んで浄霊する」

「幼馴染に無慈悲な二択を押しつけないでください!」


 静雫のツッコミが響く中、ドアの向こうから深白の回答が返ってくる。


「どちらかというと宗教っすね。神よ、家賃の滞納をお許しください。ラーメン」

「ラーメン美味そう。よし入れ! ゴートゥーヘル!」


 俺が入室を許可すると、玄関の扉が勢いよく開かれ、深白が靴を脱いで部屋に上がる。


「地獄で会おうぜパイセン!」

「まさか入居初日に自分の部屋を地獄扱いされるとは思わなかった」

「ゴートゥーヘルって言ったの幸人さんですよ」


 そんな挨拶を交わすと、深白は俺を見て目を見開く。


「うわっ、パイセン鼻血出てるじゃないっすか、ティッシュとかないんすか!」

「あー、まだ引っ越しの荷解きが終わってなくてな」


 引っ越し屋さんが運んでくれた段ボールはその殆どが未開封で、部屋の隅に積まれている。

 深白は段ボールの山に突っ込み、ティッシュを探して次々と箱を開けていく。


「あったー! こんなところに丁度いいハニワが! パイセン、これを鼻の穴に突っ込むっす!」

「グオッホー! さ、サンキューな深白。お前の優しさ受け取ったぜ」

「いや、ハニワの腕を鼻に押し込まれて苦しそうですけど」


 静雫の冷ややかな声がそこに割り込む。

 いやだって、良かれと思ってやってくれてるんだからちゃんと感謝しないとね。それにしても鼻いってえ!

 一方、奏音は室内をキョロキョロと見渡し、ヒビの入った壁を見て目を丸くしていた。


「えっ、そんな激しいプレイを?」


 何を想像したのか、頬を赤らめて俺と静雫を交互に見る。


「いや、本当に何を想像したんですか奏音さん」


 困り顔で呟く静雫。そこに深白が割り込んできた。


「なるほど、わかったっすよパイセン! ズバリ、パイセンは静雫にセクハラ行為を働いてぶん殴られたんすね!」

「な、なななな何を言いいいいいいいうのかねねねねえねね深白ん」

「動揺しすぎだよユキ」

「やっぱりそうっすか。セクハラは私刑っすよ! 切腹モノっす! ハラキリっす!」


 くっ、やはり俺の犯した罪はどれほど償っても許されるべきではないのか。


「そうは言っても、ハラキリできるような刃物なんてないぞ」

「あ、あの、あのねユキ、そういうことなら役立ちそうなものを持ってるよ」


 そう言うと奏音は持ってきたバッグから、短刀のようなものを取り出した。


「あの、あのね。男の子って修学旅行で木刀とか買うの好きだから、ユキもこういうの好きかなって作った、刀型のクッキーなんだけど」

「ありがとう。俺を喜ばせようと作ってくれたんだよな。喜ばせ方が斜め上すぎて理解が追いつかないけど」

「パイセン、これで刃物も揃ったし、問題なくハラキリできるっすね」


 ウッキウッキでそう吐き出す深白

 そんなに俺に切腹させたいのか後輩よ。

 仕方なく俺は短刀型クッキーを片手に握り、自分の腹に向けて構える。


「わかったよ。俺も日本男児だ! 切腹の仕方は義務教育で習った!」

「いや、そんな物騒な義務教育あります?」


 静雫のツッコミを聞き流しながら、俺は刀を思いっきり腹部に刺した。

 しかし腹部に響くのは、軽い衝撃のみ。

 それを見て、申し訳なさそうに奏音は告げる。


「あ、あのあの、ごめんね。その刀、一キロ先の物を斬ることに特化してて、近くの物は全く斬れないの。ナマクラなクッキーでごめんね」


 そんな謝り方初めて聞いたわ。

 見た目は刀に酷似してても、実態はクッキーだし、人を斬ることなんてできないと思って、正直舐めてたのだが。


「あー、そんなことないよ奏音。おかげで俺は死なずに済んだし。一キロ先の物を斬れるクッキーなんて凄いじゃん。きっと世のパティシエ達がレシピを聞きたがるぞ」


 とりあえずそんな風に彼女をフォローするのだった。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 その頃、一キロ離れた場所では。


「フハハハハハハ! 逃げても無駄だタカシ! 父さんの軍門にくだれ!」

「ちっくしょおおおおお、クソ親父め! やられてたまるかよ!」


 夜の公道を仲良し親子がマラソンしていた。

 息子はどこにでもいる平凡な男子中学生だが、異様なのは父親の方だ。

 父は髪の毛が無数の蛇となって動き、息子に噛みつこうと迫る。

 父親は朗々と語り始めた。


「五億年前より続くキノコタケノコ戦争に終止符を打つ為、私は力を手に入れたのだ。今こそ地球上のキノコ派を殲滅する!」

「ふざけんな! キノコ派とタケノコ派はいつかきっと分かり合える! 力だけじゃ何も解決しないんだ!」

「愚かな息子よ。なぜこの世から戦争が無くならないかわかるか? それは全ての人間の遺伝子にキノコとタケノコの因子が刻まれているからだ。

 キノコ派とタケノコ派の戦いは遺伝子レベルで宿命づけられた人の本能なのだよ」


 その時だった。

 タカシは自分が走る先に、幼い少女の姿を見つける。

 少女はキノコの形をしたチョコを食べながら、自分の方に走ってくる二つの人影を見て不思議そうに首を傾げた。

 一方で、父親は少女の姿を認めると、口の端を切れ込ませ醜悪な笑みを浮かべる。


「キノコ派の少女か、貴様もタケノコにしてくれる!」


 父親の頭から生えた無数の蛇達がタケノコ型のチョコを咥える。

 そして蛇達は体を伸ばし、一斉に少女に襲いかかった。


「やめろおおおおおおお!」


 タカシの心に絶望が浮かぶ。

 見ず知らずの少女を自分達の戦争に巻き込んでしまった後悔。

 少女を助けようにも間に合わない。諦めそうになったその時!

 眩い閃光が走り、父親に襲いかかった。

 瞬間、父親の頭から生えた無数の蛇が光の洪水に焼き払われる。


「ば、馬鹿な! 私のメデューサのカツラがあああああああ!」

「親父がツルッパゲに! 一体何が起きたんだ?」


 蛇の髪が一本残らず蒸発したショックで父親は口から魂を吐き出し、抜け殻となった体は通りすがりのUFOに回収された。

 残されたタカシは周囲を見渡す。

 自分達を救った今の攻撃は一体どこから放たれたのか?


「今の光はまさか、聖剣ハルパー! この遠距離から敵を仕留めるなんて、超一流のパティシエが作った剣に違いない。どこの誰だか知らねえが、助かったぜ」


 タカシのその言葉は誰の耳に届くことなく、夜空へ溶けていった。



「夕飯ができたぞー」


 その夜、部屋に遊びに来ていた奏音と深白に俺は夕食をご馳走することにした。


「おおっ! 引っ越し蕎麦っすか?」

「ハズレ、俺の愛情たっぷりの鮭ご飯ですよ」


 一口サイズに切った鮭を炒め、みじん切りにした野菜と一緒にご飯に載せたシンプルな料理である。

 深白と奏音の分を皿に盛り、テーブルに並べたところで不安そうな顔をしている黒猫ちゃんの姿が目に入った。


「ほら、静雫の分もあるからねー」


 すぐに猫用テーブルを用意し、鮭ご飯を皿に盛って静雫の前に置く。

 それを見て静雫は目を丸くした。


「大丈夫なんですか? 人用の食べ物を猫が食べても」

「安心しなさい。これは猫ちゃんをうちにお迎えした時に備えて、人間と猫ちゃんが同じ物を食べたいと夢見て調べた猫ご飯なんだ」


 そんな俺の様子を見て、深白が引き攣った表情を浮かべた。


「猫を飼ってもいないのに、どうして猫用のテーブルとかお皿が家にあるんすか? 準備の良さが怖いっすよパイセン」

「これはジェノくん用でもあるからな。ほら、ジェノくんもお食べ」


 俺は相棒の茶トラ猫ちゃんを抱えて、静雫の隣に座らせる。

 そして鮭ご飯を盛りつけた皿をジェノくんの前にも置いた。

 黒猫ちゃん姿の静雫はびっくりした様子で、ジェノくんに警戒心を向ける。


「ぬ、ぬいぐるみにもご飯を! ペットを飼えない一人暮らし男子っていうのは寂しさを紛らわせるためにここまでやるんすか!」

「お供え物みたいな感じなのかな?」


 深白と奏音が衝撃を受けてるが、これで夕飯の準備は整った。


「じゃ、みんなの分が揃ったところで、いただきますしようぜ」


 人間用のテーブルにつき、俺達はいただきます、と言葉を吐き出す。


「はあ、今日は色々あって疲れました。でもキャットフードを食べるハメにならなくてよかったです。これなら美味しく食べられますね」


 そう言って静雫は皿に盛られた鮭ご飯に顔を向ける。

 しかし俺はもう学習している。

 彼女は人間だ。

 皿に顔を突っ込んで直接食べるなんて、獣じみた食事法は避けたいはず。


「静雫う、スプーンあるぞ。ほら、俺が食べさせてあげる。あーんしてごらん」

「はっや! この人、さっきテーブルについたばっかなのに、早速静雫の世話を焼きにきてるっすよ」

「何を言う。ネコナウィルス患者を猫ちゃん扱いしてはいけないのは常識! 俺は静雫に人間らしい食事をしてもらう為にこうしてスプーンを用意してるんじゃないか」

「多分ユキが、あーんってやって食べさせたいだけだよね」

「それはわかるっす、可愛い猫ちゃんには自分で食べさせてあげたいっすよね」

「わかってくれるか、ということで静雫お食べ。ほら、あーんってお口を開けてごらん」


 俺はスプーンで鮭ご飯を一掬いすると、静雫の眼前に差し出す。

 そこで彼女は右手をプルプルと振るわせた。


「じ、ぶ、ん、で食べられます!」

「ぐはあっ、猫パンチ! ありがとうございます!」

「ああっ! パイセンが吹っ飛ばされた!」

「でも、なんかユキ、満足そう。もうこの世に何の未練もなさそうな顔してる」


 本日二度目の猫パンチを受け、再び鼻血ダラダラとなる俺。

 その後、器用にスプーンを使って食事をする黒猫ちゃんの静雫を眺めながら、和やかに夕食の時間は進んでいくのだった。


 7


 夕食後、深白と奏音は自分の部屋に帰っていき、一○一号室には俺と静雫だけが残される。

 黒猫ちゃん姿の静雫はベッドの上で丸くなり、くったりと眠りについていた。

 いや、もうホント可愛いな。

 猫ちゃんの寝顔ってどうしてこんなに可愛いんだ?

 その時、ポケットに入れていたスマホが震える。

 画面を見ると兄貴から着信が来ていることがわかり、俺は電話に出た。


「はいはい、どしたん兄貴?」

『静雫ちゃんの様子を聞きたくてな。今どうしてる?』


 静雫の様子だと。そんなもの聞くまでもないじゃないか!


「可愛い! 可愛いんだ! めっちゃ可愛い! ベッドの上で丸まって寝てるのこの世で一番可愛いと言っても過言ではないくらい!」

『うん、俺が悪かった。お前が猫を前にして理性を保てるわけなかったな』


 電話の向こうで、何もかもを諦めたような声が聞こえてくるが、俺はそんなものを気にしている場合じゃない。

 静雫がこんなに可愛いんだ! 少しでも目に焼き付けておかないと!


『まあいい、聞いてくれ幸人。ネコナウィルスは無症状の感染者も多い。静雫ちゃんがいつ感染したのかはわからんが、長いこと無症状だったのが何らかのきっかけで発症してしまったんだと思う』

「きっかけ? 例えば何がきっかけになるんだ?」

『一般論としては心に抱えた不安や悲しみ、または強いストレス。そう言ったことが引き金で猫になってしまうケースが多い。なにか心当たりはないか?』


 ふむ、不安やストレスねえ。

 そう言われて静雫が猫ちゃんになった直前のことを思い出す。


「そういえば、静雫はジェノくんを見て急に帰ろうとしてたな。焦ってたっていうか」

『何だよ。静雫ちゃんはあのぬいぐるみにトラウマでもあるのか』


 兄貴が冗談混じりにそう言うが、俺の記憶には静雫が特段ジェノくんを苦手とてしていたようなエピソードはない。

 静雫とは小さい頃から何度も一緒に遊んでいたが、ジェノくんのことも気に入っていた筈だ。

 しかし再会したばかりの彼女は、思い返せばずっとジェノくんを警戒していたように思う。

 一体なぜ?


『まっ、静雫ちゃんのことをよく観察して、なにか悩んでるようなら助けてやれ。一日も早く人間に戻る為にな。んじゃ、おやすみ』


 そう言って兄貴は一方的に電話を切った。

 静雫の悩みか。

 俺は中学時代、静雫達と離れていたのでこの三年間で彼女達がどんな時間を過ごしてきたのかはわからない。

 そこに何か理由があるのだろうか?


――なあ、どう思う?


――はっ、楽勝だろ。静雫は俺達の幼馴染だ。あいつのことは俺達が一番よくわかってる。


――いや、それがわからないから苦労してるんだって。


――お前は相変わらずだな。難しく考えすぎなんだよ。静雫がなにを考えてるのか、直接心の中を覗いてみればいいじゃねえか。


――ああ、そっか。だから兄貴は俺に静雫を託したのか。


――そういうこと。丁度あいつは寝てるんだ。俺の夢見の力で、静雫の夢に入る。さあ、行くぞ!


――あっ、ちょっと待って。まだ夕食の洗い物終わってない。


――知るか、俺が行くと言ったら行くんだよ。反論は許さねえぜ。


――相変わらず、強引な奴だな。お前は。


 俺はベッドに背中を預ける。すると強烈な眠気が襲ってきた。

 台所のシンクには、水を張った洗い桶の中に五人分の皿が浸されている。

 蛇口から水滴がこぼれ落ち、皿の上で跳ねる音が耳に響く。

 そんな音を意識の片隅に留めながら、俺は深い眠りに落ちていった。


 8


「ここは?」


 気づくと、俺は校門前にいた。

 見覚えのある小学校、それが自分が昔通っていた母校だと気づくのに時間は掛からなかった。

 ここが静雫の夢の中。静雫はどこにいるんだ?

 自分の腕にモフモフの茶虎猫ちゃんを抱えていることを確認し、俺は言葉を吐き出す。


「ジェノくん、静雫を探しにいくぞ」


 小学生時代の静雫の家は知っている。

 学校からの下校ルートを進めばどこかで会えるはず、そう思って道を進んでいくと、ランドセルを背負った黒髪ロングの少女を見つけた!


「静雫!」


 と、俺が声を発するのと同時に、彼女の近くに目出し帽を被った怪しげな中年男性が息を荒くしながら静雫に話しかけていた。


「はあっ、はあっ、はあっ、お嬢ちゃん可愛いね。アイスあげるからウチに遊びに来ない?」


 何ということだ。

 これは静雫の記憶なのだろうか?

 このままでは彼女が不審者おじさんに連れ去られてしまう!

 そう思っていた時、静雫が反論した。


「はっ、おっさん。アイスなんかで俺を釣れると思ったか? 俺の舎弟になりたきゃ寿司でも奢ってくれなきゃあな」


 女子小学生の口から飛び出したは思えない粗暴な発言に不審者おじさんは目を丸くする。

 しかし次の瞬間、静雫は頭を抱え呻き始めた。


「う、ううう、はっ、失礼しました。それで私共と契約したいというお話でしたよね?

 アイスでは対価として相応しくありませんが、片目を差し出すのであれば、我らが宵闇の魔女様の力を借りることもできましょう。

 さあ、こちらの契約書にサインを」


 急に人格が変わったように物腰柔らかな口調になる静雫。しかしまたすぐに別の人格へスイッチする。


「ああああああ! お腹すいたお腹すいたお腹すいた! 肉づきのいい人間が食べたいいいいいい!

 ううううううう!」


 ここで頭を抱えて人格交代。


「ああ、ごめんなさいごめんなさい! バラムが失礼しました! あの、初対面で大変不躾なお願いではありますが、死んでいただけますでしょうか?

 あっ、痛い! 頭が!」


 そしてまた頭痛に襲われ別の人格が。


「おやおやあ、お兄さんよく見たらワガハイ好みのイケメンじゃないかねえ? その被り物をとって美味しそうな顔を見せくれぬかね?」


 次々と現れる静雫の裏人格達。それを見て不審者おじさんの顔は目出し帽の上からでもわかるほど恐怖に歪んでいた。


「ヒイイイイイイ! 恐いよママアアアアアア!」


 そうして彼は一目散に逃げ出していった。

 俺はこの時学んだ。不審者を撃退するには、自分がそれ以上の不審者になればいい、と。


「思い出した。小学生の頃の静雫ってこんな奴だったっけ」


 宵闇の魔女。

 その身に二百五十五の人格を宿し、二百五十五属性の魔法を操る人類最強の魔女。

 それが彼女の設定である。

 小さい頃の俺達は魔女対魔王ごっこをしてよく遊んでいたっけ。

 そこで場面は変わる。

 気付くと知らない学校の教室に俺はワープしていた。

 制服を見るにどこかの中学校だろうか?

 同じ制服に身を包んだ生徒達の中で、一際目を引く存在がいた。

 制服の上に漆黒のローブを羽織った少女が机にロウソクと水晶玉を並べ怪しげな儀式をしている。

 そんな彼女に若い男性教師は困ったように言葉をかけた。


「あー、一葉静雫さん。授業に関係ないものは仕舞って、制服も普通に着てくれるかな」

「くっくっく、わらわにローブを脱げとな?

 すまんが、それはできん相談だな。

 こいつにはわらわの溢れんばかりの魔力を抑える役目があるのだ。これを外したら魔力が暴走して宝くじ当たっちゃう」

「それは恐い」


 そんなやりとりを他の生徒達は困惑しながら遠巻きに眺めていた。

 それからも静雫の中学時代の光景は続く。

 登校から下校まで常に黒魔女ルックで役になりきり、時には突然別人格が現れて騒ぎ出して痛いキャラを演じぬいた。

 周りの生徒達は男女問わずそんな静雫にドン引きして、距離を置いていた。

 彼女に友達は一人もできず、また静雫自身もそれを苦にしていない。

 中学の三年間ひたすら多重人格の魔女を貫いていた。

 どうやら過去の映像を見せられてるだけで、俺達の姿は夢の登場人物からは認識されていないようだった。

 そう思って気が緩んだ時だった。


「まったく人の夢を覗き見とは、悪趣味ですね」


 学校の廊下を歩いていた静雫が突如として俺に振り向いた。

 彼女はフードを外しながら、俺に言葉を向ける。


「あなた達とは再会したくなかったです。私は私の過去を全て葬りたかった。中学の頃のことは思い出すだけで頭が痛くなり、後悔にのたうち回るような黒歴史でした。

 だから私は高校に進学した今年から真人間になろうと決意したんです。なのに、どうして今なんですか。今更帰って来るんですか。幸人さん」


 そう言って顔を伏せる静雫に俺はなんて声をかけてやればいいのだろう?


「すまん、お前の心の闇が深すぎて慰めの言葉が浮かんでこねえ」


 俺も頭を抱える。

 中学の三年間奇行を繰り返し、常に周囲から距離を置かれていたとかガチの黒歴史じゃん。そりゃ過去を消し去りたくもなるわ。

 その時、俺が抱いていたジェノくんの瞳が光った。

 そこで俺は、はっとする。

 そっか、そうだよな。

 過去は変えられない、だからこそ俺達の過ごした過去はいつまでもキラキラと輝くんだ。 


「フッフッフッフ、クハハハハ! それで終わりか宵闇の魔女よ!」


 俺の哄笑とともに、茶トラ猫の体は大きく膨れ上がり、ニメートル近い化け猫ちゃんとなって俺の背後に立つ。


「お前が戦えないと言うなら、我らが魔王ジェノサイドファイナルトルネード・オブ・ザ・ライトニングノヴァ様がこの世界に散らばった真理の欠片フォーチュン・クリスタルを三百六十五個集めて世界の支配者となってやるわ!」


 突然の俺のテンションに静雫は、ポカンとした顔を見せる。


「はっ、何を言ってるんです?」

「なあ静雫、俺達ガキの頃からの付き合いじゃん。そりゃ人間、成長すれば周りからの視線とか気にしなくちゃいけなくなるし、年相応の振る舞いを求められるだろうさ。

 けどな、俺達幼馴染の前だけはガキに戻っていいんだ。昔みたいにまた馬鹿やって遊ぼうぜ!」

「幸人さん」


 静雫が目を丸くする。

 俺は彼女の返事を待たず、声を張り上げた。


「さあ終わりにしてやる! 魔王ジェノサイドファイナルトルネードオブ・ザ・ライトニングノヴァ様の究極魔法、終幕の閃光(カーテンコール)でお前の学校を滅ぼしてやる!」


 巨大ジェノくんの目が光り、その口に光の玉が生み出される。


「幸人さん、まったくあなたという人は」


 静雫は諦めたように苦笑すると、すぐに表情を引き締めた。


「魔王よ! 二百五十五の魔法を操る我ら宵闇の魔女を目覚めさせたこと、後悔させてやる!

 極限奥義! 永久なる銀河エターナル・グランドクロス!」


 黒いローブを纏った雫の手にも闇色の球体が現れる。

 まったく、夢の中なら何でもありだな。

 俺がそんな風に苦笑していると、巨大ジェノくんの口から究極魔法、えーっと終幕のなんたらが発射された。

 それに対抗し、静雫の手からも増幅した闇が放たれる。

 光と闇、強大な魔法がぶつかり合い、拮抗する。

 そしてそれらは爆発し、周囲を歩くモブ生徒と校舎を呑み込んでいった。

 二つの魔法の衝突は夢の世界さえも容赦なく飲み込み、全てを消し去っていく。

 どうやら今夜の夢も終わりが近いようだ。

 全てが光に呑み込まれ消えていく中で俺は思う。

 明日からもよろしくな静雫。

 俺の可愛い幼馴染。


 9


 自分がどこにいるのか、わからなくなる時がある。

 さっきまで脳裏に描かれていた光景は果たして夢だったのか、現実なのか。


「おはようございます。幸人さん」


 そんな俺の寝ぼけた頭は、聞き慣れた少女の声を聞いて一瞬で覚醒した。


「静雫!」


 ベッドから起き上がる。

 そこには既に私服に着替えた静雫がエプロン姿で立っていた。

 彼女は上機嫌にクスリと笑う。


「春休みだからっていつまでも寝てちゃ駄目ですよ」

「お前」


 そんな静雫を見て、俺は驚きながら言葉を吐き出す。


「人間に戻ったんだな」

「まあ、それはそうなんですけど」


 言って彼女は自分の頭を指差す。


「完治したとは言い難いですね」


 彼女が指差す先に視線を向けると、静雫の頭には可愛らしい猫耳が!

 ね、猫耳があああああああああ!

 猫耳! 猫耳! 可愛いいいいいいいいいいいい!


「か、可愛すぎるううううううううう! ねねねねねねこねこねこねこちゃん!」

「ああ、もう! 朝から壊れないでください! 本当に猫が絡むと面倒臭い人ですね!」


 頬を赤らめ、照れ怒りを浮かべながら彼女は俺に背を向ける。


「もー、ちゃんと目を冷ましてからリビングに来てくださいね。朝ご飯用意して待ってますから」


 言って寝室から出ていこうとする彼女に俺は言葉を投げた。


「宵闇の魔女!」


 その名前を呼ぶと、静雫の足が止まる。

 こちらに背を向けたままの彼女に俺は言葉をぶつける。


「我ら魔王軍との戦いはまだ決着がついてないぞ。いつか魔王ジェノサイドファイナルトルネード・オブ・ザ・ライトニングノヴァ様がこの世界を猫色に染めてやる! 首を洗って待ってな!」


 そこまで言い切ると、静雫は肩をすくめ顔だけこちらに振り向いた。


「そーいう子供の遊びはもう卒業したんですよ。幸人さんのばーか」


 べー、と舌を出してそう言い残すと彼女は柔らかく笑いながら寝室を出ていった。

 ノリノリで返してくれることを期待した俺は胸に一抹の寂しさを覚える。


「娘の成長を見守るパパって、こんな気持ちなのかな」


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「えー! でも人間に戻れたならいいじゃん静雫!」


 俺達が部屋を出ると、玄関先でバッタリ深白と遭遇した。

 まあ隣に住んでるのだからこういうこともあるだろう。


「その節はお世話になったね。一応、礼は言っとく」

「素直じゃないよね静雫はー。本当はだいちゅきな幸人お兄ちゃんとの同棲生活をもっと続けたかったんじゃないの?」


 からかう深白に対し、静雫は呆れたように言葉を吐き出す。


「深白も一度ネコナになってみればあの辛さがわかるよ。人としての尊厳が奪われる屈辱が」

「残念でしたー。ウチはワクチン四回打ってるもんねー」


 二人の微笑ましい会話を聞きながら、俺は郵便受けを確認する。

 おっ、新聞きてるな。


「だからウチは絶対ネコナになんてなりま――」


 そこで深白の声が途切れる。

 えっ? まさか!

 嫌な予感に振り返ると、そこにあったのは静雫の驚いた顔、そして地面に散らばった深白の衣服だった。

 その衣服の下から、愛らしい子犬が顔を出す。


「わ、わうん?」


 子犬は状況が掴めない様子で、困惑の鳴き声を放つ。

 俺が郵便受けから取り出した新聞の一面にはこんな文字が踊っていた。

 新型イヌナウィルス、国内で感染報告多数、と。

 俺達の看病ライフはまだまだ先が長そうだった。

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