4-06 Heaven's GRAVITY
はるか上空には、逆向きの別世界が浮かんでいる。
交流はできない。到達もできない。まるで蜃気楼のように。
確認できるのは人らしき生物がいること、文明レベルが現代と近いことだけだった。
だからこそ、その天の世界を天国と考える人々が現れた。
一方、叶多はそんな考えを鼻で笑っていた。
あれが天国? 確かにあの世界が現れたのは不思議だけど、あれは見えるだけだ。だって誰もあの世界に行ったことがないんだから。
そんな叶多は逆向きで浮く少女――遥と出会う。
世界各地で発生する重力異常。叶多はその調査に来たという遥と不本意ながら一緒に行動することになる。
そして叶多はついに、天国に足を踏み入れる。
「ようこそ、そしてお帰り、叶多。ここが私たちの世界――グラズワールだよ」
――その日、天国は落下する。
『人は死ぬと、天の世界に行くといいます』
そんな機械音声がスマホから聞こえてきたのは、高校の課題を片付けている時だった。
BGMとして音楽を動画配信サイトで流していたはずが、自動再生で変な動画に当たってしまったらしい。すでに時刻は二三時を回っていた。
『私たちの上空にある『天井世界』。そこはまさに過去に空想として語られてきた天国、楽園です。実際に天使のような人が降りてきたという話も――』
「バカバカしい」
気分が悪くなり、スマホの電源を落とす。一つため息。そして窓から空に目を向けた。
夏空に浮かぶは膨大な光点。あれはすべてビルの光だ。空に天地逆転して浮かぶ別世界――天井世界の。
八年と十ヶ月前。あれは前触れもなく現れた。
推定高度は約五〇km。成層圏を抜けるあたり。
あらゆる通信を試しても反応はなし。飛行機などで向かっても気が付けば宇宙。太陽光も問題なく地表に注がれている。それこそ蜃気楼のように、天井世界は見えるだけの世界だった。
わかることといえば、ビル群などから見て文明レベルが地球と同等ということ。人らしき生物がいること。それくらい。
だからだろうか、人々はあれが天国であると考え出した。どこかの調査によると天井世界の出現前後で、日本の天国を信じる人の割合が二割から九割まで増加したらしい。
「バカバカしい」
眉を顰め、そう口にする。
あれが天国? そんなわけない。あれはただ見えるだけの蜃気楼だ。事実、どの国も天井世界に干渉できていない。
やる気も失せ、なんとなくテレビをつけてみる。
『昨日午後九時過ぎ、六〇歳くらいの女性が血を流して倒れているのを警察官が――』
『お次はこちらにやってきました! ネットで話題の――』
『ここ数日世界各地で発生している重力異常について専門家は――』
チャンネルを切り替えても面白そうなものもやっていない。一つため息。
そんなことより明日の課題だ。そう思い再びノートに視線を戻そうとした――その時。
「――え」
窓の外を何かが落ちていった。信じられず目をこする。見間違いじゃなければあれは。
「女の子……?」
少し時代が古めのセーラー服、そして腰当たりまでありそうな黒髪。見えたのはほんの一瞬だけど、確かにそう見えた。
いやそんなわけない。だってここはタワーマンションの十一階だぞ。
恐る恐る窓を開け下をのぞくが、そこに死体らしきものもない。だけど見間違いとは思えなかった。
「…………」
気味が悪い。見なかったことにしたかったけど、あれが何だったのか確かめないと夜も寝れなさそうで。
母親も今日は仕事で帰ってこない。しぶしぶ外に向かった。
深夜という時間帯もあって、外に人は見られなかった。包み込むような蒸し暑さに、外に出たばかりなのに額に汗がにじむ。
たぶん落ちてきたのはエントランスの逆側だ。そこは非常階段しかなく、人は滅多に通らない。
「ついに!! 来られた!!!」
「!?」
突然響く声に、つい肩が跳ねた。この深夜には場違いな声量だけど、間違いなく女の子の声だった。
「すごい。重力移行や重力切替すらも起こってないなんて、まるで楽園ね!」
わけがわからないことを大声で叫んでいた。角から彼女がいるであろう場所を覗き見る。そこにいたのは、確かにさっき見た少女だった。
「なんだ、あれ……」
目を疑った。でも信じざるを得なかった。俺がこの目で見てしまったから。
少女が、浮いていた。しかも――逆向きで。
格好は先ほど見たものと変わらない。だがスカートも髪も、重力に逆らって空に向かって垂れ下がっている。
「待て待て、落ち着くのよ、遥。私は安定世界の特異点調査に派遣された、エリート中のエリートなんだから! 初調査だから失敗するわけにはいかないわ」
高さ的には彼女の頭と俺の頭が同じくらい。ふわふわと浮く彼女の周囲にクレーンのようなものも見当たらない。代わりに黒く光る金属の板が何枚も重なった翼のようなものが背中に一対、後頭部には複雑な輪のような機械がそれぞれ浮いていた。
「これは極秘ミッション。特に現地民に見つかるわけにはいかないのよ」
「ならもっと声落とせよ……」
「わひゃあっ!!」
遥というらしい彼女は、情けない声を上げ勢いよく振り返る。赤くした顔でキッと睨み付けられてようやく、やべと自覚する。
しまった、つい声を出してしまった。
後悔している間に、気が付けば彼女は空中をスライドするようにして俺の目の前まで移動していた。
年は同じくらいだろうか。まっすぐ正面から彼女を見てみると、かなり整った顔立ちだ。少し釣り目気味の瞳で睨み付けてくる。背中に汗が伝った。
「あんた、現地民ね」
「現地民って。ていうかあんたは――」
「なんで私を見つけられたの。場合によっては――」
「……そりゃあんな声で叫んでれば見つかるだろ」
「あれ、またやっちゃってた?」
すると途端に彼女はきょとんとした顔になる。
あーやっぱだめだなぁと一人肩を落とす遥をしり目に、俺は彼女の翼と頭の輪を観察した。
近くで見ても間違いなく浮いている。プロペラの類も見当たらない。よく見てみると翼は板一枚一枚がそれぞれ高速で振動している。
「これ、気になる?」
立ち直ったのか彼女は翼に目をやりながらそう問いかけてきた。敵意はなくなり、友人に話しかけるような調子で。
「そっか、こっちにはないんだっけ。視線でベクトル制御――まあ要するに見た方向に移動できるのよ。速度も角度も高度も自由自在なんだから」
「なら向き俺と合わせてくれよ。見てるだけで違和感しかない」
「頭に血が上るから嫌よ」
一応訓練受けてるけどあれ嫌いなのよ、と。彼女は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ていうかそもそもね、こっちの重力は――ってちょっと!?」
話し出すのも気にせず、俺は遥に背を向け歩き出した。途中で離れるのは無礼と自覚してるけどそれはそれ。一刻も早くこの会話を中断したかった。これ以上話していたら、あの世界に触れそうな気がして。
「今日見たのは誰にも言わないし忘れるから」
「そうはいかないのよね」
その瞬間、体が硬直した。
「こんなことだってできるのよ? そう、エリートだから!」
そう言いながら遥は俺の正面にスライドして回り込んだ。彼女にドヤ顔を受けられながら体をよじる。すると反発するような感覚があった。
「あんたには一緒に私の世界に来てもらわないといけないのよ、記憶を消すために。殺すとこっちにも影響あるから殺せないしね。あ……でも特異点調査もしないとなのか」
「だから忘れるって――」
「そんなの信用できるわけないでしょ? 今できる忘却処理もなぜかあんたには効かないみたいだし」
「は!? いつのまに!?」
彼女が俺の右腕に視線を向けると、右手は俺の意志に反して彼女に向かって手を伸ばす。
「安心して。気になることはあるけど、殺しはしないわ。記憶を消したら家に帰してあげる」
そう言って彼女は俺の手を取った。その瞬間体の拘束が解けるが、今度は宙に浮く。
「ちょ、なんだよこれ!」
「安心して。手が離れない限り落ちたりはしないから」
「落としてくれて一向にかまわないんだよ! 手離れないぞ!」
「残念、私の世界に行かないと離れないようにしたから。逃げられたら困るしね。いつだって油断しない。ふふ、さすが私」
「何してくれてんだお前!?」
何やら満足気だけど俺からすればたまったものじゃない。
「いいじゃない。あなた達は私たちの世界を天国って思ってるんでしょ?」
「ふざけるな。天国なんて存在しない」
遥をにらみつけるも、彼女は「ふぅん、あんたみたいなのもいるのね」とどこ吹く風だった。
このままあの世界に行くのか? それだけは、それだけは勘弁してほしい。そうなると俺はあの世界を自分の目で見ることになる。信じざるを得なくなる。
「さあ、行くわよ!」
そのまま遥が空を見た――かと思えば、ばっとこちらに顔を上げた。
遥と目が合う。その瞳は大きく開かれ、固まっていた。
一向に行こうとしない。見た方向に進むらしいし、天井世界に行くには俺を見ていてはいけないはずだ。
どうしたと声をかけようとすると、遥がフルフルと口を開く。
「わ、忘れてた……」
彼女の瞳がわずかに潤む。
「私、高所恐怖症だった……」
「……………は?」
一瞬何を言っているのかわからなかった。だが俺を見上げる彼女を見て考え付く。
彼女にとって地球の地面とは空であり、空とは地面だ。彼女にとってここは、高度数十キロの世界。そして浮いた状態での移動には、移動先に視線を向けなければならない。つまり――下を見る必要がある。
「お前、まさか――」
あまりにも恐ろしく、そしてバカバカしい事実に顔が引きつる。しかし彼女はやけくそのように口角を上げ、震えた声で言った。
「どうしよう……。怖くて、下見れない……」
「お前マジで……!!」
彼女はキュッと手を強く握ってきた。そうだ、この繋がれた手が厄介なんだ。これさえなければ俺は何も見なかったことにして立ち去れるのに。
要するに、要するにだ。
くっついた手をどうにかするには、この逆さまに浮かぶ天使もどきを隠しながら、誤魔化しながら、どうにか向かえと。あの憎々しい天井世界に。
「だ、だいじょうぶ! なんとかするから! 私エリートだし!」
涙目でそんなこと言われても、信憑性は全くなかった。