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4-11 旅に出た。世界を巡った。君より素敵な人はいなかった。

『君が私を好きになったのは、私のことしか知らないからだ。薄暗い研究室で、ずっと私の世話をしていたからだ。世界を知れば、その気持ちはまやかしだったとすぐに気づく。恋はあらゆる感情に似ていて、あらゆる感情は恋に擬態するのだから』


 本当にそうなのだろうか? と少年は首を傾げた。自分の命を救ってくれた彼女の言葉はいつも、いつだって正しかったけれど、初めて彼女の言うことに疑問を持った。


 だから少年は旅に出た。

 緩やかに滅びゆく世界を巡ることにした。

 彼女に世界最高の告白をするために。


――大丈夫。報われない恋なんてないんだから。


 どうして死ぬ間際になってまで、(あの人)の言葉を思い出すのだろうか。

 さらさらと崩れ行く指先を眺めながら、リーリエはやり場のない怒りを感じた。

 リーリエの母はとても美しい女性だった。

 気立てが良く、穏やかで、そして何より一途で愚かな女性だった。

 彼女の愛した男性は、リーリエの物心がつく前に蒸発した。世界を旅して、ビッグな男になりたいのだと言ったらしい。


『必ず帰って来る。その時は、君を今の何倍も幸せにする』


 歯の浮くようなセリフを残し、男は去った。母は愚かにもその言葉を真に受けて、実に十五年もの間、律儀に男を待ち続けた。

 百年も昔、科学が隆盛を極めていた頃であれば、女手一つで育てることも可能だっただろう。

 しかし遥か北にそびえる古代氷河の崩壊によってカクテル・ウィルスが蔓延し、人類が衰退の一途をたどる今――子育てをしながら生きるために、力のある男手はどうしても必要だった。

 結局母はリーリエを育てる過程で体を壊し、最後にはカクテル感染で息を引き取った。


 死ぬまでずっと愚直な愛を貫いた母のことを、リーリエはいつも馬鹿にしていた。

 そんな口だけの人、戻ってくるはずがない。

 早く新しい人を見つけた方がいい。

 何度も口を酸っぱくして言い募るリーリエに、母はいつも静かにほほ笑んで言うのだった。


――大丈夫。報われない恋なんてないんだから。


「バカみたい」


 体が崩れていく。皮膚に埋め込まれた銀色の識別タグが、乾いた音を立てて地面に落ちた。

 腕と足の感覚は既にない。白くかすみゆく視界の端で、やせ細った足が胴体に別れを告げた。

 眠るように、おとぎ話のお姫様のように息を引き取った母とは違い、自分はこんなにも無残な最期を遂げるのかと思うと、またやり場のない怒りが鎌首をもたげた。


 世界は、あまりにも不公平だ。


 あんな母の元に産まれたばっかりに、リーリエは父を知らずに育った。

 知らない男の帰りを待ち続ける母の背中を、毎晩じっと眺めていた。

 レーションの供給すらままならない片田舎で、「お母さんはいらないから」と自分に食料を分ける母親が嫌いだった。

 やせ細った体に無骨な防護スーツを被せ、毎日食料を探しに行く母親の後姿にいら立ちを覚えた。

 緩やかに滅びゆく世界の中で、それでも幸せそうな家庭を垣間見るたびに、焼けつくほどに嫉妬した。

 死ぬまで恨み言一つこぼさなかった母親を埋めるとき、気持ちが悪くて吐き気がした。

 そして最後の最後には、こうしてカクテル感染し、崩れる体をただ漫然と眺めている。


 ふと、廃ビルの隙間から漏れ聞こえた笑い声が、か細い琴線を逆なでした。

 何が、あの子たちと違ったのだろう。

 なぜ自分はこんなにもみじめなのだろう。

 どうして……どうして同じ境遇にいたはずの母親の最後は、あんなにも幸せそうだったのだろう。


――大丈夫。報われない恋なんてないんだから。


 嘘だ。

 母の恋は、決して報われてなどいなかった。

 十五年以上ただひたすらに想い続け、一目会うこともできないままに、一人寂しく死を向かれたのだから。

 けれど――母の死に顔はあまりにも穏やかだった。

 きっと、今自分が浮かべている表情とは正反対だった。

 

 意識が遠のいていく。自分の最後が近いことを自覚する。

 リーリエはそっと瞼を下ろしながら、ぽつりと零すようにつぶやいた。


「恋って――いったい、何だったんだろう」




「奇遇だね。僕も、それが知りたいんだ」




 ※


 昔は、あらゆる病に名前がついていたらしい。

 青霞病。

 クローンミート恐怖症。

 幻惑幻想失調症。

 リヒテンシュタイン症候群。

 けれどその習慣は、氷河に閉じ込められていた何億という種類のウィルスが解き放たれたことで、歴史の中に消え去った。

 誰もが見たことのない病気を発症し、薬の開発が追いつかず、やがて人は外気を遮断し、感染を防ぐしかなくなった。


砂礫されき病だね。細胞が一つずつ剥がれ落ちていくんだ。ちょうど、角砂糖をお湯に溶かしたときみたいにね」


 だから、その少年が当たり前のように病名を口にしたとき、他にも聞くべきことは沢山あったはずなのに、リーリエは思わず聞いてしまった。


「あなたは、お医者さんなの?」

「僕が? 違うよ、僕は患者。昔も、今も、そしてこれからもね」

「どういうこと?」

「全部、受け売りってこと」


 いまいち要領を得ない返答だった。けれど、大人びた口調のせいか妙に説得力がある。齢十二歳くらいだろうか。見た目と口調がアンバランスだ。


「それって――」と言葉をつなげようとしたとき、ふと自分の体が目に入り、口をついて出てくる言葉が急転換した。


「足がある……手も……」

「義肢だよ。ありあわせのジャンクで作ったものだから、ちょっと見栄えが悪いけど、品質は保証する。神経系をつなげるのは、もうちょっと先かな」


 彼の言う通り感覚はなかった。けれど、まるで生まれた時から自分の手足であったかのように、驚くほどなめらかに動いた。


「私の病気……どうして治ったの?」

「僕が薬を持ってるから……というか、僕が薬だから」


 そう言って少年は、プラプラと右手を振った。手首には真新しい包帯が巻かれている。


「僕の血液には、あらゆるウィルスに対する抗体が含まれてるんだ。だから君に血を分けて、砂礫病を治したってわけ」


 およそ信じがたい話を、少年は当たり前のように言った。

 けれど事実、リーリエは生きている。ついさっきまで死にかけていたのに。


「……名前、教えてもらっていい?」

「シュウ。ずっと東の国から旅をして来たんだ。よろしくね、リーリエ」


 どうして私の名前を――と聞きかけて、そういえば識別タグが外れたことを思い出した。体内から落ちたのだから、人類管理プログラムからは死亡者扱いされているだろう。すでに形骸化したプログラムだから、特に気にはならないが。


「他には何か聞きたいことはある?」

「えっと……」


 聞きたいことは山のようにあるけれど、どれから聞けばいいか整理がつかなかった。必死にいろいろ考えて、ようやく口をついて出た言葉は、


「どうして私を助けてくれたの?」


 そんなありふれた質問だった。


「僕はね」


 シュウは答えた。


「いろんな人の恋の話を集めながら旅をしてるんだ。だから、君の言葉の真意が知りたくて」


 そういえば、気を失う間際に何かをつぶやいた気がする。それが彼の興味を惹いて、結果的に助けてもらえたのであれば――それは幸運なことだと思った。


「聞かせてくれる? 君の恋の話を」


 もちろん構わなかった。リーリエは「私の母の話だけど」と前置きをして、話し始めた。

 母の、報われなかった恋の物語は、ほんの数分で幕を閉じた。その間シュウは、じっくり咀嚼するように何度もうなずいて聞いていた。やがて、


「そうか、それはとても救われる話だね」


 とつぶやいた。


「救われる? どうして?」


 少年はからっと笑って答えた。


「僕ね、ある人に告白したんだ」

「うん」

「まぁ振られちゃったんだけど」


 シュウは続ける。


「で、その時の振り文句が傑作でさ」



『君が私を好きになったのは、私のことしか知らないからだ。世界を知れば、きっとその気持ちはまやかしだったとすぐに気づく。恋というのはそういうものだ』



「だからね、僕は世界を巡ることにしたんだ。いろんな人に出会って、いろんな恋を知って――それで最後は先生に『やっぱりあなたが一番素敵でした』って伝えたい。それが、僕の旅の目的なんだ」

「へぇ……」


 リーリエは失礼だと思いながらも、頬が引きつるのを止められなかった。

 恋愛のことをよく知らないリーリエでも分かる。それは体のいい断り文句だ。そんな言葉を真に受けて、世界中を旅しようだなんてどうかしている。

 もしシュウが本当に旅を終えて、その女性に愛を告げてしまえばーーその人は驚きのあまり失神してしまうだろう。


 どうしよう……ここで彼に事実を伝えるべきだろうか。

 彼には命を救ってもらった恩がある。伝えるならば、できるだけ穏便に、傷つけないように――


「……ねぇ」


 はたと、リーリエは気づいた。

 シュウが首にかけているネックレス。その先にぶら下がっている銀色のタグ(・・)。それが、ついさっき自分の体から零れ落ちたものと同じ形をしていることに。


「それ、誰のタグ?」

「ん? あぁこれ?」


 なんてことはないみたいに、シュウは答えた。



「先生のだよ。僕が告白した人」



 刹那、締め付けるような感情がリーリエの胸に押し寄せた。

 自分の話に、なぜ「救われる話だ」と言ったのか。その理由をこれでもかと言うほどに突きつけられた気分だった。


 この世を去った相手を、この世で一番愛していたと確信するために世界を旅する。なんて無意味で非生産的で、そしてたまらなく切ない行為なのだろう。


 きっとそれは、世界で一番報われない恋だった。

 そんな恋に身をやつす彼の心情を、リーリエには到底理解できなかった。

 

 母の姿が、年端もいかない目の前の少年に重なった。

 今はもう土の中にいて、上に置いた墓石を蹴っても叩いても、うんともすんとも言いやしない。そんな彼女の答えを――彼が教えてくれるような気がした。 

 だから、


「私も、あなたの旅に連れて行ってくれない?」


 旅に出て、世界を巡ることにした。

 世界で一番報われない恋の、その結末を知るために。

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― 新着の感想 ―
[一言] 崩壊世界のボーイミーツガール、ですね。 恋というものに対する考えが完全に反対な二人は、旅を通してどう成長していくのか? 非常に楽しみです。
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