(7/9)タカハシの元カノ
バレンタインデーがやってきた。
「実家で作ってきますっ!」と妻は張り切っていた。
またなんかあれだ。何か企んでる。
恐ろしいような。楽しみなような。
妻から渡されたのは金の縁取りをした茶色の箱で、青いリボンがかかっていた。しかも立方体。何このサイコロみたいな箱……。
5段ある……。
開けて見てびっくり。
ピンクのハート型チョコがびっしり並んでいたからだ。
何時間かかったんだこれ……。
「紫陽」
「はいっ」
「ありがとう……。ちなみにこれ何個あるの?」
「33個ですっ」
圧、つよっ。
タカハシは引いた。
「すごいね……。特に真ん中のチョコ。大きいね。一口じゃとても食べられなさそうだね……」
「それが今年の分ですっ」
「え? 今年? 今年って?」
「残りの32個が出会う前の分ですっ」
……………………。
◇
思わず妻の顔を見た。力入ってる。『フンスッ!』て表情だ。
「つまりその……。紫陽と出会ったとき俺が32歳だったから……」
「そうです! 是也さんと私出会うの遅過ぎですよ! 32歳からの先生しかわからないんだから! さかのぼって32年分のハートを作りましたっ!」
なるほど……。
これ0歳から1個づつ作ってくれたわけだ。いや。そこまでしてくれなくても……。
紫陽がタカハシの右腕にぶら下がるように両腕を絡ませた。
「もっと早く会いたかったですよ〜。なんなら私が産みたかったです!」
まずいぞ。夫。先生。父親。友達。兄の他に『息子』の役割まで期待してそうだぞ。無理無理。無理無理無理無理。
『赤ちゃんプレイとかさせられたらどうしよう〜』
いらぬ妄想が頭をよぎり、ブルブルと首を振った。
「そういえばカブラギに初めてチョコを貰ったの、高校2年のときだったね」
「はい。1年のときは校則を馬鹿正直に守ってもって来なかったんですよ。誰も守ってないのに!」
◇
鏑木紫陽が、演劇部顧問の高橋是也にバレンタインチョコを渡したのは高2の2月14日であった。
カブラギは非常に真面目な生徒だったので、校則の『校内お菓子持ち込み禁止』を信じ1年の時は持ってこなかったのである。
それがまあ。入学してみたら、お昼休みは連日お菓子パーティー。ちょっとした『お礼』にクッキーが飛び交う。演劇部はお菓子持ち込みダベリ大会の会場。挙句にバレンタインデーは久保悟1人で80個もチョコをもらう。
演劇部の先輩に恐る恐る聞いたところ
「タカハシ? しゃあねぇからやってるよ。顧問だしね。さすがに受け取ってくれるよ」
と投げやりに言われた。久保悟に対するテンションと真逆である。
渡すチョコも『失礼がないように』無難な市販品らしい。
「『規則だから没収するよ。来年は持って来ないように』って鬼太郎注意してくっけど、『定型文』だから。全員に同じこと言うから。気にすんなよ!」
と先輩から言われた紫陽は張り切った。
義理チョコのフリしたバリバリの本命チョコである。1ヶ月以上前から連日試作をして手作りチョコを用意した。
当日。校庭にタカハシの姿を認めると紫陽は走った。場所は初めて出会った渡り廊下である。
春であれば始終桜の花びらが舞い落ちる吹きっさらしの廊下だが2月は風が冷たいばかりだった。
「先生!」
振り向いたタカハシにチョコを差し出す。心臓はバクバク。
「あのっ」
……なんだっけ? そうだ渡す生徒にも『定型文』があるんだった。「きっ『禁止のお菓子を持ってきてしまいましたっ』すみませんっ」
両手でチョコを差し出した。タカハシ笑って注意してくるはず……。
ところがタカハシは何も言わなかった。
黙ってカブラギの指先を見つめた。
「あ? あの?」ヤバイ。これ受け取ってもらえないパターンなのでは……。
タカハシはカブラギのチョコを受け取ると「うん……」と言ってそのまま立ち去ってしまったのだった。
あれ? 注意は? 『歩く就学規則』なのに……。
◇
紫陽はそのときの話を夫にした。するとタカハシは「ふふふふ」と笑った。
「紫陽」
「はい」
「前、俺のこと。夏目漱石の『こころ』に出てくる『先生』みたいだって言ってなかった?」
◇
紫陽は『こころ』の一節を思い出した。あまりにタカハシっぽいので文庫本の該当箇所に色ペンで線を引いていたくらいだ。
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けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶あいさつをした時も、懇意になったその後のちも、あまり変わりはなかった。先生は何時いつも静かであった。ある時は静か過ぎて淋さびしいくらいであった。私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。
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「言ってました! 是也さんてなんかいつも遠い人だったんですよね。追っても追っても近づけないというか」
「それね。当たってたんだ」
「え?」
「俺はカブラギを避けていたんだよ」
えええええ!?
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衝撃の事実であった。
『得体の知れない鬼太郎』に避けられていたとは。
「目を合わさない。話しかけない。授業の内容について聞かれたら答えるくらいしか接触しない」
「……気付きませんでしたよ……。だって先生って誰に対しても『遠い人』じゃないですか。何聞いても『そんなこと聞いてどうするの』だし」
タカハシは『ふふふふ』と笑った。「生徒と仲良くなることが先生の仕事だとは思ってないからね」
◇
初めて鏑木紫陽にバレンタインチョコレートをもらった時。いつもの『定型文』が言えなかった。
『規則だからね。没収するよ。来年は持って来ないように』
誰にも見つからないようにチョコを隠して、家に持って帰って、自宅のテーブルに乗せたとき。
『これはまずい』と思った。
『来年は持ってこないように』それがどうしても言えなくて。『本当に来年持って来なかったらどうしよう』そんな馬鹿みたいなこと考えてしまって。
頭の中に『児童福祉法違反』『青少年保護育成条例違反』の単語が浮かぶ。
生徒に恋をするなど教師としても絶対に持ってはいけない感情だった。
とどめにタカハシは結婚を前提とした彼女がいた。付き合ったのは自分が33歳。彼女が31歳。
婚約しているわけではないが軽い気持ちでつきあっていいような歳ではない。
何よりカブラギに気持ち悪がられることをタカハシは恐れた。
「そこでね……。元の彼女。『オーディションの元カノ』と結婚しようとしたんだ」
カブラギにしては頭を殴られるような話だ。高校の入学式で出会って以来タカハシ一筋に恋を貫いてきた自分。その自分が渡したチョコのせいで、タカハシが永遠に届かない人になろうとしていたとは。
「そうは言っても気が進まなくてね……」
「どうしてですか?」
「うーん。紫陽。この家に初めて入った時、率直にどう思った?」
◇
カブラギは目をパチパチした。
「どうって……『広いなあ』って」
ふふふふ。タカハシが笑う「それだけ?」
「あとは。『本がものすごくあるな!』って」
「それだけなの?」
「それだけなのって! それだけですよ! 4年も好きだった人と『初夜』ってときにのんきに家の感想なんか持てませんよ!! 史上最高にテンパってますよ!」
「それはそうだね。ごめんね。」
あの時は俺も本当に緊張したよ、とタカハシは笑って続けた「元カノはね。全く違う感想を持ったようだったんだ」
◇
元の彼女は家の玄関に1歩足を進めるなり眉をひそめたのだという。
『古い。それに臭いわ』
『臭い』というのは独特の木の香りや土壁のせいだった。古い家特有のしめった匂いだが別に気にするほどでもない。
それからカブラギと同じように家の『探索』をした。
違うのはカブラギが目を輝かせて見回ったのに対し、元カノは終始粗探しをした。
床が軋む。
雨漏りしそう。
今どきタイル張りのお風呂?
何この本! こんな持ってたって読まないでしょう!
リビングのテーブルにお茶を出すとのべつくまなしに話し始めた。
『是也! ここ売りましょうよ。更地にして、土地を半分売れば結構なお金が入るわ。私3階建がいい! 最新のシステムキッチンやミストサウナの出るお風呂が欲しいわ。こんな古びた家いつまで住む気なの? 私はごめんですからね』
紫陽はギョッとした。
『初めて家に来た日』なら付き合って間もない頃のはずだ。まだ具体的な結婚の話も出てなかったろう。それなのにいきなり!?
「驚いたし。ショックだったよ」
特に彼女は風呂場が気に入らなかった。この風呂場はタイル職人の祖父が、新婚の娘のために張り切って作った『最高傑作』なのである。いわば祖父の『形見』なのだ。
しかし元カノには『風呂場の狭さ』しか目に入らないらしい。
「結婚しようと思ってお付き合いしたんだけどね。それが原因で急に気持ちが冷めてしまって」
決定的だったのはその後半年ほどして、タカハシの仕事中不動産屋を招き入れたことだった。不動産会社のアンケートにはしれっと『妻』と関係を書いたのだという。
仕事から帰ってきたタカハシに目を輝かせて査定書を差し出す。
『是也! すごいわ。ここ土地だけで3800万はするって! 建物の価値はゼロだけど、更地にしたらすぐに買い手がつくって。是也は正社員だし結構なローンが組めるわ! 結婚生活はピカピカの家で始めたいの』
思わずタカハシは反論した。
『土地を売るとは決めてないよ』
『はあ!?』
『こんな古びた家でもね。両親が大切にしてきた家なんだよ』
すると彼女は階段を駆け上り2階から、本を持って
『何よこんなもの!!』と投げつけてきた。
ガンッと音がして本が床を傷つける。箱入りの『広辞苑』だったのだ。
『こんなもの! こんなもの! いつまで思い出にしがみついて! 馬鹿みたいだわ!』
元カノは母親のオルゴールを投げて壊した。父親の扇子を折った。是也のトロフィーを投げつけてふちを欠けさせた。
1階の廊下にどんどんどんどん『思い出』が降ってくる。
『やめなさい! やめなさい!』
決して乱暴なことをしないタカハシだが。このときばかりは彼女を羽交い締めにして止めようとした。
泣きわめく彼女に引っかかれる。
叫び声が耳をつんざいた。
『とにかく! 私はこんな! こんな異様な家に住むのは嫌なのよっ。まっぴらごめんだわっ!!』
◇
紫陽は黙ってテーブルのマグカップを見つめた。何と言ったらいいかわからなかったからだ。
「土地の権利書をね……サトルの実家に持っていったんだ」
サトルの父母は快くそれを受け取ってくれた。
『金庫に入れておくわね』
『すみません』タカハシは頭を下げた。
真理亜(サトルの母)が真剣な顔をしてタカハシの右手を握った。
『ねぇ……。是也さん。私たちあなたの恋人のことまで口を出したいとは思わないんだけど……その彼女はどうなのかしら?』
タカハシは下を向いたまま何も言えなかった。
『ねぇ……。その……。長生子はダメかしら?』
タカハシはハッとなってサトルの母を見た。久保長生子はサトルの姉である。その時30歳であった。
『私たちね……本当にあなたのこと自分の子供のように思ってるの。最初の子の空羽がお腹の中で死んじゃったでしょ? どうしても同い年のあなたと空羽を重ねてしまうの。それでね。うちの長生子と是也さんが結婚してくれたらどんなにいいかって……』
『そのお話でしたら、長生子さんご自身にキッパリお断りされました』
『それはそうだけど! あの子もまだ21歳で、子供だったのよ! 幸いといったらなんだけど。30超えてまだ独身なのよ。ね? サトルだって喜ぶし。真剣に考えて欲しいの』
◇
「えええええ〜〜〜〜〜〜〜〜」
紫陽は泣きそうであった。サトルの姉とか! これ以上ないカードだ。玉の輿である。
サトルが乗り気なのは知っていたが、家族ぐるみで久保家に取り込もうとしていたわけだ。
「そんなん来たら勝てないよ〜〜〜〜〜〜〜〜」
紫陽の実家じゃ金も名誉もおいしい役職もそろえられないのだ。
「サトルにもやいのやいの言われたけどお断りしてね」
「なんで〜? 成り上がれたのに〜」
ふっふっふっ。タカハシは笑った。
「長生子さんがね。俺なんか眼中にないんだよ」
周りがどうセッティングしても2人が甘い雰囲気になることはなかったのだという。
長生子曰く『弟の友達としてならいいですけど。夫としてはお断りします』ハッキリしたものだった。
『じゃあ。長生子! あなたいつ結婚するのよ!』と母親の真理亜に迫られても『親とはいえ、私の人生に口だししないでください』ツーンと顔を背けた。
久保長生子は現在34歳。今だ独身なのである。
◇
「おそらくその直後に元カノは俺以外の男を作ったんだ」
タカハシを含め3人の男と同時進行で付き合ったあげく、役者をオーディションするかのように採点。自身の結婚式の直前にタカハシを『ポイッ』と捨てたのだった。
この男じゃ最新型のシステムキッチンもミストサウナも叶わないと思ったのだろう。
◇
「ねえ。紫陽」
タカハシが紫陽の右手に自身の左手を重ねた。
「紫陽は嫌じゃないの?」
「何がですか?」
「だから……。この家……。紫陽だってまだ21歳じゃないか。真新しいキッチンや、広いお風呂に憧れない?」
本当いうとね、タカハシは目を伏せた。
「それで紫陽をこの家に呼ばなかったんだ」