(4/9)お父さんだったり先生だったり
そんな妻の紫陽が結婚3ヶ月を過ぎたあたりからタカハシのことを「お父さん」と呼ぶようになった。
普段は『是也さん』なのだが、甘えたいとき。
例えば一緒にリビングのソファで本を読んだりしているとき。
妻は夫の膝に頭を乗せるのが好きだった。
横になったままうっとりと夫を見つめる。
「…………何読んでいるんですか?」
「うん? 『人間の条件』だよ」
「『五味川純平』の?」
「そうだよ」
妻は本のハードカバーに手を差しやった。ツルツルの表面を撫でる。
「丸善だ」
「うん。よく買いにいくんだ」
「お父さんは読書家だなぁ」
ふふふふ。タカハシは笑った。
「亡くなられたお父さんの膝の上にもよく頭をのせてたの?」
「小さかったから膝の上に座ってたんですよ」
「…………10歳までしか一緒にいれなかったんだもんね」
「そうですよ。だから代わりに是也さんが35歳からのお父さんをやってくださいね」
「…………うん。がんばります」
ここまでだったらほのぼのとしたいい話だった。
が! 紫陽はそのまま本のカバーから手を離すと是也のシャツに両手を伸ばしたのである。
性急にボタンを外し始める。
「…………娘よ。何をやってるんだい?」
「服を脱がしてるんです」
「見ればわかるよ! お父さんは本を読んでるんだけど」
「お父さん! 私今すっごいエロい気持ちです!!」
「何言ってるの!?」
なぜか五味川純平の『人間の条件』を手に持ちながら半裸にされようとしている。
どこいった! 雪の山とか兵隊とかやるせない不条理とか!!
さっきまで浸っていた世界かき消えていく。
あえなく妻の右手に本を取られガラステーブルにバサッと放置された。
思わず視線で本を追ってしまう。
ああ〜〜〜〜〜〜〜〜。今ちょうど主人公がマッチを盗むところだったのに〜〜〜〜〜〜。
押し倒された。
そのままゴムマリみたいな胸が是也の胸でバウンドする。
「本なんか後でいいじゃないですか〜〜〜〜〜〜〜〜♡♡♡」
『やれやれ…………』
若い女房をもらうのも楽じゃあない。是也は紫陽を抱きしめた。
◇
妻は眠りにつく前にお話をしてもらいたがった。
『お話』と言っても相手は21歳である。まさか『昔々あるところに』というわけにはいかない。
学校のことは守秘義務があるから話せない。
飲み屋はほとんど紫陽と行っている。
「話せることは特にないなぁ……」というと「じゃあ! 何か朗読してください!!」とねだられた。
「朗読と言っても……。何がいい?」
「中原中也です!」
「好きなの……。中也?」
「先生の声で聞くのが好きなんです!」
それで眠りにつくまで髪をなでて詩を朗読してやるのだった。
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海にいるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪ばかり。
曇った北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪っているのです。
いつはてるとも知れない呪。
海にいるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪ばかり。
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妻の寝顔は、波にさらされる貝のようだった。
白くてツヤツヤしていて、砂粒ひとつついてない。
◇
紫陽の父は35歳で交通事故死している。
眠ってしまった紫陽の髪を撫でていると『この子はお父さんが欲しかったのかもしれないなあ』と思う時がある。
その朝。10歳の紫陽が2階の子供部屋から降りると、父親はまだ会社に行っていなかったそうだ。
食卓で新聞を読んでいたという。
朝ごはんを食べながらたわいもない話をして、学校に行くからと席を立ってランドセルを背負った。
「気をつけてな」と言われたから「うん。いってきます」と答えた。
それが親子の最後の会話だった。
◇
「せんせぇ〜助けてください〜」
はい来ました!
「天野の野郎が〜〜〜〜〜〜〜〜」
半べそである。
「恩師を『野郎』なんていってはいけない」と軽く注意するものの、紫陽の気持ちはよくわかった。
天野啓治。同機社大の名物教授である。
学科は『国文史』
万葉から現代までの概要をまとめる必須科目であった。
これがきちんと頭に入っていれば国文を俯瞰して捉えることができるようになる。
この天野が毎週、毎週レポートを提出させる男だったのである。
天野の授業はラスト10分に小テストを行う。
この小テスト中に提出されたレポートを『パラパラ〜ッ』と見ては
バンッ! バンッ! バンッ! バンッ!
と左右に分けていった。
右が合格、左が不合格だ。
テスト終了時に名前が読み上げられる。
「鈴木っ」「はいっ」「佐藤っ」「はいっ」「立川っ」「は……はいっ」「川越っ」「はいっ」「柿又っ」「はいいいい」
「再提出っ!!」
ああ〜。ほんの90分前に出したばかりなのに〜。
座席前3分の1が全くの空席になる教室に天野の声はよく響いた。『ビンゴ』で穴を開けられた数字のように生徒がいく人も顔を沈めた。
残りの生徒も安心はできない。10分テストの間に見れなかったレポートは翌週の授業初めにつっかえされるからだ。
しかも再提出は絶対。へまをすれば4個も5個もレポートを同時進行でやらないといけない。
欠席者は有無を言わさず『再提出』である。
紫陽もこの『恐怖の再提出』を何回も喰らってきたが、あるときから突然『全合格』するようになった。
そればかりではない。
授業の初めに突然名前を呼ばれた。
「カブラギッ」
「はいっ(うわぁ。再提出だぁ)」
「お前のこのレポートよくできているっ。みなもカブラギに見せてもらいなさいっ。実にいいっ」
紫陽はポカンと口を開けて天野のボサボサ白髪頭を見つめた。
「棚橋っ」「はいっ」「再提出!」
隣の席の棚橋薫がガックリと肩を落とした。
カブラギはその日クラスメイトの関心を一身にさらった。あの天野から褒められる生徒なぞ誰も見たことなかったのである。
どんな参考書使っているかとか、ネットは何をみているかとか質問責めになった。
正解は『高校の担任に電話を掛けた』だ。
その担任はこの同機社大卒で『開校以来の秀才』だったのである。
そして今や彼女の夫だ。
タカハシは毎回カブラギのレポートを助けた。『天野啓治』はタカハシも散々揉まれてきたので、どの書き方がウケてどの書き方が退けられるかをよく知っていた。
「紫陽……」
「はいっ。先生っ」
「ここ……資料を補完した方がいいよ……突っ込まれるよ……」
「わかりましたっ先生っ」
「あとここだけど、ちょっとわかりにくいかな……」
「どのようにでしょうかっ。先生っ」
先生、先生、先生、先生。
この時ばかりは2人とも高校時代の関係に戻る。
◇
おそろいのTシャツを買われてしまった。
「マウンテンズの最新グッズなんですよ〜〜〜〜〜」
『マウンテンズ』というのは4人組のバンドで、紫陽は大ファンなのである。ライブグッズは通販含めほぼほぼコンプリートしていた。
「………………ペンギン柄で可愛いね」
青地の真ん中にデカデカと「マウンテンズ」と染められており、山を表した白い線がカクカクと走っていた。
ペンギンが踊っている。
「是也さん〜。今度これ着てライブ行きましょうよ〜〜〜〜〜〜〜〜。なんと武道館ですよ〜〜〜〜」
無理無理無理! 無理無理無理無理!!
そもそも『ペアルック』なんぞできないパーソナリティにこの年である。
おまけに『マウンテンズ』は妻とライブDVDを鑑賞したが、一瞬たりとも理解できなかった。
見ながらずっと『歌詞の文法がおかしい……』とそればかり気になった。
なんだこの
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俺のバイブス お前のテンダネス
お前のロンリネス胸に抱いて
オレが勤しむ今日もフィットネス
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って。三島由紀夫の『金閣寺』を手に持ちながらワナワナしてしまう。
日本語おかしいだろ! 雰囲気以外何も伝わってこない!!
「ご……ごめんね……ライブは別の人といってね」
「えー!! 友達なのに冷たーーい!」
友達だったのか!!!
◇
妻の紫陽。どうやら『お父さん』『先生』『夫』『彼氏』の他に『友達』もご所望らしかった。
確かに付き合う前『友達になってください』と言われて了承しているので『友達』でもあるわけだ。
結婚してるのに毎日LINE送ってくるしね。
◇
「全然いいぞー」
サトルがマウンテンズのTシャツを着た。
「どうだ〜? タカハシ! カブラギとおそろだぞー」
妻と肩を組んで笑っている。
久保悟。31歳。『ほんとに教師かよ』と言いたくなる数学教師である。
ほとんど色の抜けた茶髪によく動く瞳とツンと上がった鼻をしていた。
1番似ている有名人が『ミッキーマウス』
相変わらずタカハシの家に入り浸って夕飯を無心しているのである。
「ねぇ〜。サトルー。是也さんと3人で『マウンテンズ』のライブ行こーよー」
「全然いいぞ! アリーナ取ってやる!」
「キャー♡サトル大好き〜」
旦那の前だというのにしがみつかれてしまう。
『ほんとごめんね。他の人を誘ってね』とご辞退申し上げた。妻にとって最高の2時間が夫にとってはただの地獄。
「さすがにサトルと2人じゃいけないよ〜」と後輩の鈴原美鳥を誘ったらしい。
ちなみにサトルは嫌がっていた。なんと鈴原、サトルの鬼門なのである。
サトルの周りの女子高生は『サトルゥゥゥゥ♡♡♡』という女どもばかりだが、コイツだけしらーっとしているのだ。かたくなにサトルのことを『久保先生』としか言わなかった。
「教師とそんなにお近づきになりたくありません」とハッキリ言われてしまっていた。
◇
さらにサトルはカブラギ一押しの芸人、野間アタルとの飲み会も設定してきた。
「ほんとに!? ほんとに野間チャンと飲めるの!?」
もう紫陽大興奮。地下劇場に通い詰めていた時期もあったという。
「野間アタルだろ〜? 工芸社じゃん。直接は知らねーけど、先輩の百済栄司が知り合いだからよー」
「「百済栄司!? 『エッグマン』の!?」」
タカハシと紫陽は仰天。野間アタルなんぞ、テレビに1年に1回もでたらいい方の(もちろん大型番組に『その他大勢』でウロウロしているだけだ)超無名だが、百済はスターだ。
10時からのワイドショーの司会や、お笑いコンクールの審査員もしていた。
「お〜。今度よ〜。百済司会のクイズ番組に出ないかってプロデューサーに誘われててよ〜」
偉いことになってしまった。