(3/9)タカハシがとうとう負けてしまうまで
最初に鏑木紫陽に告白されたときは面食らった。1年前の高校校庭であった。
その日たまたまタカハシは校庭に出ていた。明日の行事の準備をしていたのである。
地面にチョークで印をつけていると、ふと、目の端にものすごく綺麗な子が歩いてくるのを捉えた。
当時の日本は疫病が流行っていて、外に出る人間はみなマスクしていた。その子もだ。
ピンクのシャツに膝の見える花柄のスカート。髪の毛はクレオパトラみたいに切り揃えられていた。目にクッキリとした黒いラインが引いてある。
目の一部しか見えないが相当可愛い。何より胸がモリモリであった。
タカハシはそっと視線を外した。自分の知り合いではないと確信したのである。
あんな綺麗な子1度見たら忘れるはずがない。制服も着ていないし、生徒ではない。
そのまま自分の横を通り過ぎるのを待った。
ところがである。
その花柄スカートムッチムチボディがどんどん自分に近づいてくるではないか。
『もしかして俺がとうせんぼした形になっているのかも……』上手に避けようとしたその瞬間、花柄がピタッとタカハシの前で立ち止まった。
「お久しぶりですっ。タカハシ先生っ」
戸惑って棒立ちになるタカハシの前で彼女がレースのマスクを外した。
「卒業生の鏑木紫陽ですっ」
◇
カブラギ!?
まさか!! 俺の知っているカブラギはこんな子じゃないぞ!?
鏑木紫陽っていうのは! 地味で! いつもブカブカのジャケットを羽織っている子で! 図書館の隅でひっそり本読んでいるような……月見草みたいな……。
だがタカハシはこれがカブラギであることを理解した。皮肉にもある一点で。
胸のデカさがカブラギ。こんなメロンみたいな胸の子教員生活15年ただ1人しか見たことない。
「お久しぶり…………カブラギ……随分イメージ変わったね……」
タカハシはチカチカした。目の前のカブラギはシャツを大胆に開いて谷間を見せてるし、白い太ももはパンパンだし。クレオパトラみたいなメークなんである。目の周りにやたら白くキラキラした粉を塗っている。
カブラギは、カブラギなんだけど。
『地味カブラギ』をアンインストールして『派手カブラギ』を再インストールしたみたい。
「ちょっとお話よろしいでしょうか!!」
ベンチに座ってなんとなくタカハシもマスクを外すと驚天動地の告白が待っていた。
「好きです! 付き合ってください! 結婚してください!!」
◇
言われた瞬間カッとなった。
『俺じゃないだろ!!!!』と思った。
綺麗で、スタイルも最高で、すごくいい子だってわかってるし、若い。こんなしょぼくれたオヤジ狙うな! IT社長とか会社のエリートとかいくらでも落とせるだろ。これから花開こうかというときに終わった高校生活引きずって何血迷ってんだ。
それでかなり厳しいことを言ってフッたのである。
◇
だがカブラギシヨウ、諦めると言うことを知らない女であった。執念深いのであった。そもそも成人になるまで4年も告白を待てるわけだから相当計略的であった。
まんまと職員室でタカハシに『お題』を出させて勝利。ランチデートを勝ち取ったのである。
全教員にことの経過を知られているため、ランチの日タカハシはなるべく何気ないふりをして席を立った。
ちょうど12時のチャイムがなったところ。ゆっくり歩いても12時10分にはカフェにつける。
ところが!
タカハシの元に校長が走り寄ってきたのだ。
阿賀褄美千代校長。今年教員生活40年の大ベテラン。ふくよかな体格に紺の上下のスーツ。ストッキングは地肌そっくりのベージュであった。
真っ赤なルビーの指輪をはめている。
「タカハシ先生ーーー!! ついに天下分け目の関ヶ原でございますわねー!!!」
タカハシ。腰が引ける。
「え? 関ヶ原?」
「後がありませんわよっ。絶対に次のデートの約束をしていらっしゃいっっ。一撃で倒すんです! この機会を逃したらあんな可愛いお嬢さん二度と先生の相手なんかしてくれませんよっ」
「……………………」
「そろそろご自分のお年とかお考えになって。あのお嬢さんどころか誰も来ないと心得なさいましっ。降って湧いた幸運を逃してはなりませんわよー!!!!」
「……いえ……卒業生と昼飯を食べるだけですが……」
「まー! そんなことで中年の危機が乗り越えられると思っているのですかっ」
『クライシスですよっ。クライシスでございますよっ』と言いながらタカハシの両手をギューギューと握りしめてくる。
ハッと周りを見たら職員が総立ち。
ウワァァァァァー!!! と歓声と拍手が上がった。
「タカハシ先生ーっ! 頑張ってくださいっ」
「宝くじに当たったようなもんですよっ!」
「万年独身のタカハシ先生に思わぬ春が!」
「巨乳を逃す手はないっ」
「よっ! 得体の知れない鬼太郎っっ」
パチパチパチパチ!!! と満座の拍手を浴びながらタカハシはいたたまれなかった。
俺ってそこまでモテないとみんなに思われていたのか。
さらに数学の久保悟が追い討ちをかける。
「あんなエロい女子大生と2時間も! 気にせずヤってこい!!」
◇
タカハシは懊悩した。タカハシとカブラギでは全く釣り合わない。側から見たらキャバクラ嬢とカモの客にしか見えない。それか親子である。
勢いで付き合ってもカブラギが就職したら気づくだろう。
仰ぎ見る師も単なる人間だと。
確かに今は教師と生徒という『権力勾配』がある。タカハシが大きく偉大に見えているのかもしれない。
でもそんなのあっという間に差が縮まる。
こちらは頂上を登り切ろうとしている中年だ。あとは老年へ向かってゆっくり坂を降りていくばかり。彼女はこれから大輪の花を咲かせるつぼみである。
何より『自分が70歳のときにカブラギはまだ53歳』という事実が堪えた。
このままなんとか『先生と生徒』のままでいたい。
幸せな時間なんて一瞬しかない。
カブラギを、失うのが、辛い。
◇
ランチデートの後で家にサトルがやってきた。
どっかで飲んできたのだろう。ニヤニヤした顔をさらにニヤニヤさせていた。
「よぉ〜!タカハシィ。カブラギから聞いたぞ。お前カブラギの告白を断ったあげく『3人の男とデートして来い』って言ったらしいなぁ?」
ネクタイを外して丸めるとポーンと放った。台所の鴨居に見事引っかかる。
「うん……。コーヒーでいい?」
コーヒーメーカーにフィルターと豆をセットする。
ゴボゴボゴボ……と音がしてお湯が沸騰してくる。
「せっかく両思いになったっていうのに、みすみす他の男にやっちまうってわけだぁ」
「……………………両思いなんかじゃないよ」
「じゃあこれは何だよっ」
バンッと冷蔵庫を開けると、一番上の黒いビニール袋を引きずるように取り出した。
ビニールの中にあった箱を開けて乱暴にタカハシの前に叩きつける。
バァンッ。
「好きでもねぇ女からもらったチョコレート。後生大事に1年も持ってんじゃねぇぞ!!!」
◇
タカハシは椅子に座って両手をこぶし状に握り太ももの上に乗せた。そのまま黙ってチョコレートを見た。
高校3年の鏑木紫陽がくれたバレンタインデーの『義理』チョコ。
赤いハートがポツンと1つ。
「タカハシ? オレが今年のバレンタインデーにお前に何言ったか覚えているかよ?」
覚えている。
もうすぐバレンタインの2月初め、家に泊まりにきたサトルが言ったのだった。
『なぁ……タカハシ。1年もチョコが捨てられないくらいなら、カブラギに連絡しろよ。「今年もチョコレートが欲しい」って言ってみろよ』
『理由がないよ』
『理由なんていくらでも後付けすればいいじゃないか。「こんなうまいチョコ食べたの初めてだ」とかなんとか。「食いしん坊なんですね」つて笑われたっていいじゃないか』
『……気持ち悪く思われるよ』
『あ? 何がだ?』
『教師が、生徒のチョコレートを家に持って帰ってること自体重いよ。もうカブラギは卒業しているんだし、担任のことなんてとっくに忘れているよ。卒業生の負担になりたくない。彼女たちには新しい生活があるんだから』
『お前が未練タラタラのくせに何をいう〜〜〜〜〜』
『だいたい……生徒の電話番号を私用に使ってはいけない』
『真面目の権化かよ〜〜〜〜〜〜〜〜』
◇
その、『未練タラタラ』が目の前にあるのだった。
ひんやりと赤い好意を表している。
「なぁ。タカハシ。わかったろうが? 『義理チョコ』じゃなかったんだよ。本気も本気。4年もお前が好きだって言ったんだろ? 今からでもいいからLINEして『3人とデートなんかやめて俺と3回してくれ』って言えよ」
「…………連絡先聞かなかった」
「かぁ〜〜〜〜〜〜〜〜。トロいなぁ〜〜〜〜〜」
サトルにのけぞられる。
◇
どんなに拒絶しても、彼女には効かなくて。
高橋是也はとうとう鏑木紫陽に負けてしまったのであった。
初めて『お付き合い』後のデートをした日。
2人で赤信号を待った。
枯れて硬くなった葉が風が吹くたび木の枝から落ちる。硬い段ボールが地面に叩きつけられているような音だ。
ガサッ ガサッ ガサッ ガサッ
冷たい、12月の風が頬を刺す。
『真面目が服を着ている』と評判のタカハシは、車1台走ってない信号の前で立ち止まった。
彼女になったばかりのカブラギも立ち止まった。
そしてぎゅうっとタカハシを両腕で抱えるように抱きしめた。あごを上げる。
「……………………先生。私の彼氏ですか?」
改めて言われると恥ずかしい。
そっぽを向いたままタカハシは答えた「……うん。そう」
カブラギの顔がほんのり赤くなる。
「じゃあ、私は先生の彼女なんですか?」
「………………そうだよ」
「嬉しい!」タカハシを強く抱きしめる。カブラギはタカハシの体を離さなかった。信号が青になって、赤になって、また青になっても2人で突っ立っていた。