(2/9)ちぐはぐな夫婦
10年ぶりに大学の同窓生、武川智樹から電話がかかってきた。
「タカハシィ〜。お久しぶり〜。武川だぁ」
「あ、武川……。久しぶりだね」
「何だお前。まだ固定電話持ってんの? 電話番号も学生時代から変わってないじゃん。相変わらず変化を嫌うな〜」
『武川』はあだ名が『タレ川』
目が垂れてて細身。いつも人を小馬鹿にするような顔をしている男だった。
「そんでさぁ。鏑木紫陽。今うちのクラスにいるんだけどさぁ」
「うん」
武川は妻の通う大学の助教授なのである。
「お前あいつと結婚したんだってぇ〜〜〜〜!?」
タカハシはがっくりと首をうなだれた。
武川、お前、10年ぶりに電話掛けてきたと思ったら用件それか。
本当にウワサ話が好きだな!
「うん……。4月にね……。妻がお世話になってるね。よろしく頼むよ。しっかり指導してやってくれ」
「どーやってあの巨乳落としたのよ〜〜〜〜〜〜。クソ真面目の勉強ばかりしてるお前がヨォ〜〜〜〜。カブラギだそ〜!? おっぱいボヨヨーンの。太ももパンッパンの。地下アイドルみたいな童顔黒髪オメメパッチリをよぉ〜? 何。高校のときに体育館の物置でやっちゃったの!?」
「……………………」
『同機社大は、何をやっているんだ』タカハシは思った。
なんでこんな下劣な奴を助教授にまでにしちゃったの!?
武川というやつは、とにかくウワサが好きであった。火事があれば講義を中止してでも見に行くだろう。週刊誌のゴシップは隅から隅まで読んでたし、学閥にも造詣があった。
得意技はウワサに尾ひれをつけて『ネズミをあたかも龍のように話す』こと。
「…………武川。お前も教師だからわかっていると思うが生徒と教師には『権力勾配』というものがあってな」
「はぁ?」
「生徒と教師は対等ではないんだ。教師が『恋愛』だと思ってても、生徒には『圧力』でしかない。教師は生徒に恋愛感情を持ってはいけない」
「そんなこと言ったって人の感情なんだから抑えがきくもんでもないじゃ〜〜〜〜ん」
「抑えるんだ!」
つい厳しい声になった。
「うっわぁ怖ぁ」と電話の向こうでおどけた武川はそのまま「ヒヒヒヒ」とくぐもった声を上げた。片手で口を押さえたのだろう。
「偉そうなこと言ってるけどお前も生徒と結婚したわけじゃ〜ん」
「向こうが20歳を超えてから! 告白もカブラギから!」
「うっそだろ〜? 何であのエロ女子大生がお前みたいなしょぼくれたオッサン相手にすんのよ。本当は高校生のときに手をつけちゃったんでしょ〜? 何も知らないJK汚しちゃって〜」
「『汚しちゃって』とは性行為のことか?」
「決まってんじゃん〜」
「その言い方好きじゃない。女性に対して失礼だ」
『うっわ。相変わらずクソ真面目』と言いながら武川はさらに下卑た笑い声を上げた。
「お前でいけるんなら俺もカブラギに手をつければよかったわ〜〜。あのボインボイン一度揉んでみたかったな〜。で? どんな感触なのよ!?」
電話機の向こうでうなだれるしかなかった。そのセリフ旦那に向かっていうことか? あとお前妻帯者じゃないのか? しかも教授の娘婿だよなあ?
「……とにかく。カブラギと一線越えたのも婚約後だから。変な話を振りまかないでくれよ」
「ま! そういうことにしといてやるわ〜〜〜〜」
ガックリと受話器を置いた。明日、大学の職員たちの間でどんなウワサを立てられてしまうのかわかったものではない。
◇
夕方妻の紫陽がやってきた。
タカハシと紫陽は『週末婚』だ。彼女はまだ大学2年なので実家暮らしなのである。木曜日の夕方から土曜の朝までタカハシと2人で過ごし、あとは実家に帰っている。
でもそう言うルールだと思っているのはタカハシだけ。妻の紫陽は毎日やってくる。
玄関をガラガラッと開けると廊下にいる夫まで一目散に走りガバァッと抱きついてきた。
「是也さん会いたかったぁぁぁ!!!」
「…………1日前にも会ってるよ」
「本当だあ!! 24時間も会えなくて寂しかったぁぁ!!」
胸に小さい顔をスリスリ押し付けてくる。
武川の『何であんなエロい女子大生がお前みたいなしょぼくれたオッサンに』という言葉が蘇えってきた。
武川に……見せてやりたいよ……。
◇
だが『エロい女子大生としょぼくれたオッサン』の組み合わせは誰が見てもおかしいようだ。
タカハシと紫陽は新婚なので、買い物も手を繋いで行く。
紫陽は上機嫌である。
スキップせんばかりの勢い。顔に『うれしい』と書いてタカハシの手を握りしめるのであった。
それを通り過ぎる人が結構な確率で振り返る。
だいたい男だ。
『えっ?』って顔で振り返る。中には通り過ぎるまでこちらをジロジロ見て、首を傾げるようなおじさんもいる。
一度なんて通りすがりに「なんで?」と言われた。
『なんで』と言われましても。俺こそ聞きたい。
紫陽。お前単なるオッサンと手を繋いで何がそんなに嬉しいんだ?
だから、何の魔法にかかっているんだ?
◇
金曜日はできるだけ外食するようにしている。
結婚前は毎週土曜日デートだったから、必然的に外食していた。今はほとんど家だ。
その分金曜日の夕飯は『お外デート』にしていた。
その日は2人でカウンターに隣あっていた。
壁に手書きのお品書きがベタベタと貼ってある店。カウンターにはレンコンの煮物、インゲンと卵と春雨の炒め物なんかが大皿にのっている。
『ハッピーフライデー』はサラリーマンでいっぱいだった。笑い声が四方八方から飛んで、テーブルの隙をぬうように店員がおつまみを運ぶ。
厚揚げに大根おろしをのせたもの。串焼きや。シラスのサラダを分け合って食べた。
ビールで乾杯すると1週間の疲れがすべて吹き飛ぶ気がした。
チラチラ向こうのおじさんに見られているなあとは思っていたのだが、タカハシがトイレに席を外した瞬間
ドシン!
と空いたタカハシの席に座られたのである。
グイグイと酒臭い息を紫陽の前に寄越すと
「……おねーちゃんどこのお店の子?」
にんまりした。
紫陽ドン引き。
「え? お店……? 弁当屋ですけど……」
「またまたあ!」
酔っ払いは大きな体を左右に振るわせて笑った。
「どう見ても『同伴』でしょ〜〜〜〜〜〜〜〜。おねーちゃん、可愛いね〜〜〜〜〜〜〜〜。俺も通いたいから名刺くれよ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
紫陽の目が据わった。
「…………『同伴』って接客業のお姉さんがお客さんとご飯食べて、そのまま一緒にお店へ出勤することですよね?」
「そおよ〜〜〜〜〜〜〜〜。あんなしょぼくれたオッサンの同伴してもボトルも入れてくれないって! ねーねー。どこのキャバクラ? それともラウンジ?」
お店の大将が泥酔客に注意しようとした瞬間にだ。紫陽がぐいーっと客の顔に体を傾けて左手を開いて見せた。
左薬指のキラキラしたシルバーリング。
「すいませんねぇ〜〜〜〜〜〜〜〜。私もう永久指名もらったんで。他のお客さんはいらないんですよ〜〜〜〜」
タカハシが戻ってきた。妻のキレた顔に焦って泥酔客の肩に手をやった。
「すみません……。妻が何か……」
「つまぁ〜〜〜!?」脂ぎった顔でタカハシに振り返る。ゴロンとした手で指差した。指の第二関節にゴワゴワとした毛が生えている。
「何がいいんだよっっ。ど平凡のどこにでもいるオッサンじゃん! こんなおっぱいが結婚してくれるわけないだろっ」
「お前だってオッサンだろうが〜〜〜〜〜〜〜〜」
紫陽が低く唸った。
「紫陽止めなさい」
「いーや! やめないね!!」
タカハシの左手をつかむと酔っ払いの目の前に持ってきた。タカハシの指のシンプルなリングを見せつける。
「お前の1000倍は是也さんの方が素敵だよっ。味噌汁で顔を洗って出直せ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
そのままタカハシの手を人形使いのように操ってオッサンのおでこをビタビタこづいたのであった。
「ちょっちょっと! 紫陽やめなさい!!」
ひ〜〜っ。オッサンの脂汗が手に張り付いて気持ち悪い〜〜〜〜〜〜〜〜。
◇
「何なのあのオヤジッ。是也さんをバカにすんじゃないよっっ」
帰り道で妻はプンスコしていた。大股歩きである。
どこかの家の防犯灯に照らされ一瞬2人の影が長く伸びた。
大将に謝られたが、そんなことでは怒りが収まらない。
「アンタみたいな失礼なこと、私の夫は死んでもやらないんだかんね〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
月に向かって吠えている。
まあ…………確かに…………どんなに飲もうがやりませんけれども……。
……………………でも正直言ってあの泥酔客の気持ちもわかる……。
チグハグだよね? 俺たち。
❇︎紫陽は弁当屋でアルバイトをしている。