終焉の瞳
僕の人生は、あの時まで、まるで真っ白なキャンパスに真っ白な絵の具で永遠に絵を描い
ているかのような、そんな人生であった。幼い頃に両親は離婚し、父親の記憶はほとんどな
い。母は僕が十三歳の時に入院して以来、ただの一度も家に帰って来た事はなかった。僕は
父親についてあまり多くは知らなかったが、僕の暮らした大きな家、使用人、家の中に飾ら
れている数々の豪華な調度品は、父親からの慰謝料で成り立っているのだろうということ、
つまり、父親はかなりの資産家であるということを僕に教えてくれた。
母はそれらの豪華なものたちには不釣り合いで、貧相な見た目で控えめ、そして病弱な、
少しでも触れると倒れてしまいそうな女性であった。幼い頃から勉強が得意であった僕は、
よくテストで満点を取ったが、それを褒めてくれるような母親ではなかったし、かといって
僕もそれを褒めてもらいたいわけでもなかった。僕が覚えている限りでは、母が声を出して
笑うのを一度も見た事がなかった。笑う時にはいつも、もの悲しげな表情の中で、少しだけ
口角を上げ、目をそっと細めるのであった。昔、父が家に居た頃は良く笑う人だったのだろ
うか。そうやって母の笑顔を想像することすらもとうの昔にやめてしまった。唯一その答え
を知っているかもしれない使用人に尋こうとした事も何度かあったが、家の中はそういう
事を尋ける雰囲気ではなかった。いつも古びた時計の秒針の音が鳴り響き、閑散としていて、
重苦しい空気が漂っていた。
僕は何に対しても実感、感覚を持てなかった。感覚機能に障害があるわけではなかったが、
それらが何の感情ももたらさなかったのである。使用人は毎日多種多様な料理を用意した
が、恐らくそれがすべてきんぴらごぼうでも、僕には何の問題もなかったであろう。異性に
対して関心を抱いた事も一度もなかったし、思い出せる限りでは、寂しい、悲しいと感じた
事もなかった。外を出歩いた時、目には木々や草花の豊かで美しい色が映っていたに違いな
いが、僕にはどれも同じ色に感じられた。
そんな僕の白いキャンパスに、目を凝らさねば見えないくらい小さな赤い点が描かれる
事がごくたまにあった。それは、心臓が一瞬強く引き締められるような感覚であり、それは
また、唯一僕が生きている実感を得られそうな瞬間でもあった− 母の病院からの電話。毎回、
電話があるとすぐに病院に駆けつけるが、そこには、あの複雑な笑みを浮かべた母がぽつり
と座っていて、僕たちの間には何の会話もない。それが常だった。母が危ないという内容の
電話を僕は何度受け取った事であろうか。あのか弱い母は、何度あの世とこの世の狭間を彷
徨い、この世に戻ってきたのであろうか。それはまるで、冬の始まりにも関わらず、ただ一
つ、今にも風に吹き飛ばされてしまいそうになりながら、ずっと主人たる木に我慢強くつか
まっている茶色くなった枯れ葉のようであった。そう、この世に何か未練があるかのように。
日暮が美しい鳴き声を響かせるある夏の暮れ、また病院から一本の電話が入った。
「白崎さん、お母さんの病体が」
この手のセリフは緊迫した、焦りを感じさせるようなテンポとトーンであるべきなのかも
しれないが、そのようなことは一切なく、寧ろ落ち着いたトーンで決まりきったセリフのよ
うに淡々としていた。僕はまた病院へ急いだ。今考えると僕は、母への想いにそうさせられていたというよりも、人の死に魅せられていたのであろうと思う。その瞬間を見れば、僕自
身の生の実感が湧いてくるような、生きているという実感が得られそうな、そんな気がして
いたのだ。もちろん、その頃は自分を善人であると信じていたからそんな事は考えもしなか
った。いや、頭の片隅では薄々気がついていたのかもしれないが、そうは思わなかった。思
わないようにしていた。ドイツの哲学者、マルティン・ハイデッガーは彼の未完の主著、『存
在と時間』の中で、人は唯一確実な未来の可能性である「死」を自覚する事で、己の生の有
限性を悟り、生きる事の素晴らしさや自身の存在の重さを知ることで、己の人生を有意義に
生きようと思う事ができる。そして、真の自己を知り、生を自覚できるのだという「先駆的
覚悟性」という概念を述べた。しかしながら、毎日が生きているのか死んでいるのか分から
ない、死を恐れる事も望むこともない、生と死の線引きが曖昧な僕にとっては、己の死は無
意味なように思われた。
病院を駆け抜けて行く途中、どこの病室からか、感じた事のないまばゆい光のようなもの
を感じた。これは、あの病院からかかってくる電話を受け取ったときと同じような、いや、
それよりも強い感覚を僕に与えた。真っ白いキャンパスが一瞬真っ赤に染められたような
気がした。僕は走りながら今まで感じた事のないパルピテーションを感じた。私の胸はます
ます高ぶったが、母の病室に着き、母のあの表情を見た瞬間、蛍の光がそっと消えて行くと
きのように収まった。
「白崎さん。もう大丈夫ですよ。お母さんはよく頑張りました」
担当医がやってきた。
「そうですか。ありがとうございます」
僕はいつものように返事をした。
母の病室を出た時、僕はあのまばゆい光を思い出した。確かあれは、トイレのすぐ近くの
病室であったことを思い出し、帰り際にその病室を恐る恐る覘いた。半分ほど閉められたカ
ーテンから、美しい黒髪が一瞬さらりと見えた。しかしそれは一瞬のことで、夕暮れの日差
しに照らされたカーテンに映る影しか見えなくなった。僕は気になった。どうしてもカーテ
ン越しではなく、実際に見てみたくなった。プラトンの述べる「魂の三区分説」の「気概」
「理知」「欲望」のうち、「理知」しか持ち合わせていなかった僕が、「欲望」と「気概」へ
の挑戦をする瞬間であったといっても過言ではない。僕はそれまでで一番の勇気を振り絞
り
、今までに抱いた事のない期待を胸にそっとカーテンの向こうへ歩き出した。
初めて自分の心臓の音を聞いたような気がした。カーテンの向こう側にいたのは、相当長
い間病室にいた事を伺わせる真っ白な肌をした、紫外線を浴びた事もカラーをした事もな
い、真っ黒で純粋な、あの美しい髪をした、まだ世の中の汚い側面を何も見た事がないよう
な無垢で汚れのない大きな瞳をした、やせ細った女性だった。僕は自分自身がどのような顔
をして、どのような体勢をしていたか分からないが、時が止まったかのように立ち尽くして
いた。氷河期の終焉とともに、氷に閉じ込められていた微生物が、段々と氷が溶けるにつれ
てもとの自由な世界に戻れた時のように、僕は徐々に身の回りの事態を把握し、彼女の不思議そうな顔が次第に目に映り込んできた。彼女は何か言葉を発したのだろうか。私は完全に
自分の世界と外界との乖離に戸惑っていた。すると彼女が口を開いた。
「ねえ、あの木、何色に見える?」
「えっ、ああ、茶色と緑、じゃないかな」
「どうして断定しないの?」
僕は別に、自分が見ている色を言った訳ではなかった。夏の終わりとはいえ、未だ木の葉は
緑色をしている時期であり、木は常に茶色であるという一般認識を述べたにすぎなかった。
だから無意識のうちに断定はしなかったのだろう。でもこんな事を言うと会話がややこし
くなりそうだったので返答に困った。すると彼女はまた口を開いた。
「私にはね、今日はオレンジ色の葉っぱが水色の木についているように見えるの。これはお
かしなことなんですって」
僕は素敵だと思った。第一、人は茶色という言葉で己の見た色を完全に表現できている訳で
はない。言葉以上に人間が感じている外界の要素は多種多様で複雑であるのだから。
「おかしくはない。きみがそう感じるのならあの木はオレンジ色と水色なんだ」
「はじめてだわ。そんな返事は。それにオレンジと水色って言ったけれど、四日前のオレン
ジとはまた違うし、六日前の水色ともまたちがうの」
「じゃあきみはきみの言葉を作り出さなくてはいけないね。きみの豊かな感性に言葉が追
いついていないのだから」
「でもそれじゃあ、意味がないわ。言葉は誰かに伝わらないと無意味だもの」
「全ての言葉がその人の言いたい事や感じた事をそのまま表せるわけではない。たとえ表
現に成功したとしても、その言葉が相手に同じように伝わるとは限らない。その点ではどん
な言葉も無意味に等しいのかもしれないよ」
「ふふ。私にとってのオレンジはあなたにとっての水色かもしれないのね」
「ああ。でも存在しない言語を他人に言うのと、存在する言語を他人に言うのではまたかな
り異なるけどね」
「そうね。まあでも別に理解されなくたっていいのよ。コウモリであるということがそのコ
ウモリ以外の何者にも分からないように、私であるということは私にしか分からないから」
「そうだね」
「ねえ。何で病院なんかにいるの?また来てくれる?」
「ああ、いいよ。僕の母がこの病院に入院しているんだ」
「なるほど。どうりで、あなたは患者さんらしくないものね」
「どうしてそう思うの?」
「だって、完全に生きているじゃない」
「そんなことが分かるの?」
「十年もこんなところにいたらね」
それから他愛もない会話をして、僕は病室を出た。僕はどことなく不思議な気持ちになった気がした。帰り道はいつもと同じ景色であるは
ずなのに、少し違って見えた。この世界は見方次第でどんな世界にもなりうる。人は己の感
覚器官を通して世界を感じ、見ているわけであるから、どう感じるか、どう見るかは結局そ
の人次第。僕の世界はモノクロで、音もなければ色もない、何もない無機質な世界であった
けれど、ほんの少しその世界は明るんだ気がした。
***
あの病室を尋ねてから約一ヶ月後、また病院からの電話が鳴った。僕は一瞬自分の口元が
ほころぶのを感じた。これは確実に良い知らせではないのに、この電話を今か今かと待ち構
えていたかのように胸が踊った。自分の中の恐ろしい一面が一瞬垣間見えた瞬間であった。
「白崎さん。お母さんの容態が。すぐに病院に来て頂けますか」
「はい」
僕はすぐに家を出た。私の真の目的は確実に彼女に会う事だったに違いない。理由もなく
病院に行く勇気のない僕が、母の命の危機を利用する。そんな事は認めたくはなかった。
「母さん、頼むから死なないでくれ」
思ってもないことを、また、今まで一度も口にした事がないことを呟きながら走った。誰に
見られている訳でもないのに、完全な偽善者であったが、これはある意味で本心だった。母
の死に興味があったこともまた事実だが、その時は、彼女に会いに行く理由がなくなってし
まうことが嫌だったのである。自分が恐ろしかった。
病室に着くと、いつもの母の姿と、いつもと変わらぬ病室があった。また、担当医とも、
いつもと変わらぬ会話をして病室を去ろうとした時、なにか物言いたげな母の姿が目に入
った。いや、勘違いであろうか。改めて母の方を見たが、やはりいつもと変わらなかった。
僕は彼女の病室へ向かった。
病室には誰もいなかった。まさか。まさか彼女が。その辺りの看護師に聞こうと思ったが、
そんな勇気はなかった。途方にくれてロビーの方に歩いて行くと、彼女にとても良く似た少
女が歩いてくるのが見えた。ティーシャツに短パン、その上からロングカーディガンを羽織
っていた。初めて会った時は、彼女の体のほとんどが布団に隠されていたので気が付かなか
ったが、スニーカーから出た彼女の足は色白く、ものすごく細かった。女性というよりは少
女であったのだ。彼女は母親らしき人に連れられていた。
「あっ。あの方よ」
彼女は母親に僕の事を紹介しているようであったが、良く聞こえなかった。彼女の母親がそ
っと会釈をしたので僕も返事をした。彼女は母親に別れを告げると、僕の方に走ってやって
きた。今にも折れてしまいそうな足取りで。それは僕の心を刺激した。
「このところ調子が良かったから、一週間だけ退院したの。今日からまたここでの生活だけ
れどね」「そ、そうなんだ。」
彼女のか弱い体つきを見て、改めて彼女が何らかの深刻な病気である事を自覚した僕は少
し動揺していた。
「私に会いにきてくれたのかしら?」
「あ、いや。ちょっと母親がね」
「そう。お母さんは大丈夫?」
「ああ」
「ねえ。少し寄って行かない?」
「ああ。荷物を持つよ」
僕は少し嬉しかった。不確かだけれどそれは間違いなく感情であったと思う。
「ちょっと着替えるから待っていてね」
彼女はそう言ってカーテンを閉めた。カーテンで隠れているとはいえ、彼女が着替えている
影は見えた。こんなことに興味なんて全くなかったが、かすかに鼓動が早まった。彼女は気
にしないのだろうか。僕は一応ベッドとは反対側を向いて待った。
「お待たせ。別に向こうを向いていなくても良かったのに。カーテンを閉めていたでしょ?」
「ああ。まあね」
「ねえ、あなたの名前は?」
「そういえば言っていなかったね。白崎賢人」
「賢人君。私は佐々木杏。賢人君は学生さん?」
「ああ、そうだよ。文学部哲学科の4年」
「かっこいい。大学ってどんなところ?私、元気だったら今頃大学一年生なの」
彼女が十八か十九ということに驚いた。まだ高校生、いや、中学生でもおかしくないと思っ
ていた。
「何ともない所だよ。僕は普通の大学生じゃないから」
「普通って何?」
「うーん、そうだな。大学生はサークルっていうクラブ活動みたいなものに参加したり、少
人数で勉強するゼミに参加したり、勉強以外にも色々な事をするものだけれど、僕はただ図
書館にいるか講義を受けるか。友達もいないんだ」
「お友達、いないの?さみしい?」
「いないよ。いいや。必要だと思った事はない」
「そう。私もいないわ。強いて言うなら病気が友達かな」
僕は病気の事について聞こうと思ったが、聞けなかった。
「あなた、いや、賢人君。また来てくれる?それで、あの、私のお友達になってくれない?」
僕の心は少しざわざわと踊ったような気がした。
「あ、ああ。もちろんだよ。また来るよ」
その後、彼女は自分の家族や愛犬のククの話をした。しばらく会話をした後、僕が席を立つと、彼女は僕を引き止めた。僕のジャケットの裾を力一杯引っ張った。
「ね、ねえ。またすぐに来てちょうだいね?」
僕は驚いた。彼女が触ったのは僕の衣服の片隅にすぎないけれど、それでも彼女のか弱い力
が全身に伝わり、胸が強く引き締められた。キャンパスには紫色のインクがポタリと落ちた。
「あ、ああ。すぐに来るよ。またすぐにね」
また、いつもの帰り道の景色は少し違って見えた。
***
翌朝、大学へ向かう途中、僕の横を走る道路からドンッという図太い音が聞こえてきた。
よく見ると、黒い鳥、恐らく鴉が車と衝突し、道路の脇に撥ね除けられていた。その悲惨な
姿を、見て見ぬ振りをして去って行く者、心配そうな表情で、どうにかして鴉を救おうと試
みる者、全く気づかずに過ぎ去って行く者、それを見ても表情を一切変えずに、過ぎ去って
行く者がいた。僕はそれらのどれにも当てはまらなかった。
小学生くらいの年頃になると、クラスに一人は残酷な遊びをおもしろがってやる生徒が
いるもので、蟻を解剖したり、虫を残酷なやり方で殺したり、人間の中の破壊本能がむき出
しになってしまうものがいた。それは恐らく一時的なもので、彼らも正常な、常識のある大
人に成長して行く。極々少数を除いては。戦争でも喧嘩でも殺人でもいたずらでも、人間の
中には破壊本能が眠っているに違いない。大抵の人は、ボクシングを見たり、戦闘ゲームを
したり、自己を何かに投影してその破壊的な欲望を解消するものだ。フロイトの述べるとこ
ろのタナトスのような、誰しも、どんなに明るい人でも、その奥底には死への憧れや欲望、
破壊本能、ダークサイドを持っているのだろう。その死にかける鴉を見て、なぜかあの母の
ような気味の悪い笑みを浮かべている自分がいた。そう思ってはいけない、鴉を助けなくて
はいけない、かわいそうであると思わなければいけない、私の頭はそう思おうと努力したが、
本心には勝てなかった。気がつくと僕は、その鴉の真ん前に座り込み、食い入るようにその
死に様を見つめていた。その鴉の右目は潰れていて、その潰れた瞳は僕を魅了していたのか、
僕はその潰れた目をしばらく見ていた。自分が恐ろしかった。
僕のように共感能力が欠如している人間が人の死を面白がるような極悪連続殺人犯にな
るのであろうか。僕は人を殺したいわけでも傷つけたいわけでもなかった。ただ、生きてい
るという実感、自分の存在を実感したかった。死という一つの現象に興味があったのである。
自分を痛めつけ、その痛みで生を実感する人間も中にはいるが、僕は自分の身体すら自分
のものでないように感じていたからそれは無意味であった。僕にとって意味を持つであろ
うと考えられたのはやはり他人の死に他ならなかった。
母の容態が急変したわけでもなかったが、僕は彼女に会いに行くことにした。病院への道
中、僕はとんでもないことを考えていた。病院では一日何人の患者が死ぬのであろうか。母
や彼女が入院しているような大型の総合病院では、「死」という現象は日常茶飯事であるはずだ。病院は患者が命を救われに行くところであるし、そこにいる患者以外の人間は、遺産
目当てのタチの悪い親族などを除けば皆患者の回復を願うものであり、死を見たいという
僕が病院に入ることは許されないような気がした。だが僕には母と彼女がいる。母や彼女が
いる以上、僕には病院へ行く口実がある。病院内は自由に歩き回れるから多くの死を見られ
るチャンスがあるかもしれない。死ぬ瞬間に立ち会えずとも死期を迎えそうな患者を見る
ことは確実に可能であった。僕には良心が残っていたから、そんなことをしてはいけないと
必死に反対する自分もいた。しかし彼は勿忘草のように弱かった。
彼女の病室に着くと、まるで死んでいるかのように静かに冷たく眠っている彼女がいた。
僕の心の中は静かに騒ついた。いかにも病人らしい青白く痩せ細った顔、そしてそんな病人
顔には不釣りあいではあるものの、逆にその青白さが引き立てている真っ赤な唇はなんと
も形容し難い美しさであった。そのアンバランスが彼女に魅力を与えているのだろうと確
信した。しばらく眺めていると彼女はゆっくりと瞼を開けた。
「あら、私ったらせっかくいらしてくれていたのに寝ていたなんて。ごめんなさい。起こし
てくれても良かったのに」
「いいや。とても起こす気になんてなれないよ」
「最近体調が優れなくて。眠っている時の私は幸せに見える?」
「ああ、うん。とても」
「じゃあやっぱりもうずっと眠ったままの方がいいのかしら。夢の中の私はとっても元気
なの。夢の中でだって賢人くんに会えるし、あまり現実と違わないの。むしろ夢の中の私は
元気で自由な分良いのかもしれない」
「今この瞬間も夢のようにただ僕たちの脳内で起きている幻想かもしれないしね。変だと
思っても誰も否定はできない。夢の中でそれが夢だと気づくことがないようにね」
「水槽の脳、の話?」
「おお。よく知っているね」
彼女は嬉しそうに、そして謙虚に微笑んだ。そんな和やかな雰囲気を一瞬にして壊してしま
うあの恐ろしい考えが再び僕の頭をよぎった。
「ねえ、この病院に知り合いはいる」
「ええ、知り合いならたくさんいる。友達ってわけじゃないからそんなに話さないけど」
「みんな重い病気なの?」
「さあ。でも昨日まで元気にしていた人のベッドが翌朝見たら綺麗に片付いていることは
そんなに稀ではないかな。その度に、次は私の番かなあなんて思ったりして。他人の死を悲
しむより先に自分のことが頭によぎるなんて私は冷たい人間ね」
「そんなことはない。どんなに他人に尽くしているように見える人も結局自分が一番なん
だよ。人間はエゴな生き物だからね」
彼女の答えを聞いて気が逸り、彼女の知り合いについて聞こうと思ったが、どうやら勿忘草
の方が力をふり絞ったようだった。「お母様にはもうお会いしたの?」
僕は返答に困った。会っていないと言ったらまるで彼女に会うために病院へ来たみたいだ
し、会ったと言ったら嘘になってしまう。僕は彼女に対して誠実に、真っ白な心で向き合い
たかったから些細な嘘もつきたくはないと思った。
「あ、いや。これから行くよ」
「あら。そうなのね。それではまた」
彼女は僕が病院に来た理由について特に気にしているようでもなかった。自分が思ってい
るほど相手は深く考えていないことが多いのである。母の病室を訪ねないわけにもいかな
いので僕は母の部屋に向かった。
母の病室は、普段はドアの外からもその静けさが伝わるようなつめたい個室であり、入る
ものに一呼吸置かせるような空気を漂わせているが、今日は少し様子が違った。中から男性
の低い声に混じった母のか細い声が微かに聞こえてきた。母に来客などあるはずがない。母
の担当医か何かだろうと思いドアを開けようとしたが、なぜかそのドアは重たく、僕は一度
その場を離れた。すると、母の担当医がやって来てドアを開けた。その隙間からは、高級そ
うな紺のスーツを着た、政治家のような風格を漂わせた大柄な男が母のベッドの隅に腰掛
けているのが見えた。担当医は非常に馴れ馴れしく「ああ、どうも」と言って中に入って行
ったので、どうやら彼は初めて母を訪れたわけではないことが伺えた。僕はドアの隙間から
二人の会話を聞こうとしたが、僕の耳元に届く頃にはその会話のほとんどが言葉の核を失
い雑音と化してしまった。ドアの外に張り付いていても怪しい目で見られるだけであった
ので、僕はさらに離れたところから担当医が出てくるのを待つことにした。
5分ほどすると担当医が出て来てこちら側に向かってきた。
「おお、賢人くん。久しぶりだね。お母さんの見舞いかい?」
「あ、ええ、まあそんなところです」
「めずらしいね。今、神崎さんもいらしてるよ」
神崎というのがあのスーツの男の名前なのだろうか。担当医は、僕がその男を知っている前
提で話しているようだった。
「神崎さんとはどなたのことです?」
「え、賢人くん知らないのかい?」
「存じ上げません」
「そうなのか。神崎さんはよくお母さんのお見舞いにいらしているからてっきり知り合い
なのかと思ったよ。あっ、もうこんな時間か。ごめんね、また今度」
と担当医は振り向きざまに言い捨てて走って行った。明らかに動揺しているようであった。
ますますそのスーツの男、神崎という男が謎めいた存在となった。母の病室に行って確かめ
ることにした。
意を決して病室のドアを開けるとそこにはただ一人母が座っていた。僕が入ってくるの
を見ると母は僕をなんとも言えない、ただ、息子を見る目ではないことは確かな表情で僕を見つめた。
「あなたが何もないのにここへ来るなんて何かあったの?」
「い、いや。別に」
「今来たばかり?」
僕は、ここで今来たばかりだと嘘をつこうか、それともあのスーツの男のことを聞こうか迷
った。
「今来たばかりだよ。どうして?」
母はホッとしたようであった。僕も一気に緊張感から解き放たれたような気がした。もし
ここであのスーツの男の話を持ち出せば、母の中の何かが壊れてしまいそうな、そしてそれ
は一度壊れてしまうともう元にはもどらないような、そんな気がしたのである。普段会話を
しない僕らの間には気まずく居心地の悪い空気だけが流れた。その沈黙を最初に破ろうと
試みたのは母であった。
「容態が急変したわけでもないのにあなたが来るなんて、私にはもうすぐお迎えが来ると
いうことかしらね。ふふふ」
母は不気味な笑みを浮かべた。通常男子にとって母は最初の異性であり、決して不気味など
という感情を抱くべきではなく、そこには暖かく神秘的でミステリアスな何かがあるべき
であった。しかし僕にとって母はスプーキーそのものであったのだ。本当に母なのかも分か
らない、そんな存在であった。僕がこんな考え事をしていたせいで、僕らの間にはまた沈黙
が生まれてしまった。
「母さんは、生きたいと思うの?」
「いいえ」
僕の心に何かがぐさりと突き刺さった。キャンパスは黒点で埋め尽くされた。ここに死を
願う人がいる。自ら死の道を選択しようとするものが。死のうと思えばいつでも死ねる。だ
がしかし母は自然の摂理に逆らうことはできないのだ。死の世界へ行きたいのにも関わら
ず、死の世界の入り口に立たされているにも関わらず、自然が母を迎えに来るまでただひた
すら待ち続けるしかないのだ。なんてかわいそうな。この苦患から救い出すため、母に死を
与えてあげたいとさえ思った。僕は間違えなく天使ではなく死神の形相で微笑んでいた。
「そんなにニッコリとして、賢人くんも私に早く死んでほしいのね」
「い、いや。」
「ふふふ。あなたとこんな話をしているなんて信じられないわ」
「僕、そろそろ行くよ。じゃあ」
僕は一刻でも早く部屋を出たかった。母は僕の心を読んでいるようであったからだ。もう
僕のこの恐ろしい一面に気づいてしまったのだろうか。この恐ろしい考えは僕の心の中だ
けに秘めておかなければならないのだ。もし母がそれに気づいたのだとすれば、それは母の
死を願うほかないのである。それでも母の死を強く悲しむ僕も少しいた。それはやはり僕が
母の子であるということを証明しているのだろうか。一方で、僕は母の子であり言わば僕の分身であることを考えたら、母の死は僕の死のようにも感じられ、ますます母の死をこの目
で見たいという欲望が増さった。他にもスーツの男のことなど様々なことが頭の中をぐる
ぐると駆け巡った。母との間の何かが変わった気がした。
病院の外に出ると、小糠雨が降っており、僕の薄汚れた心を静かに中和した。傘は必要な
かった。
***
家の前までたどり着いた時、僕はすぐさまいつもと様子が違うことに気がついた。僕の家
は地上三階建で、地下も合わせれば四階建の、都内に立つ家の中では非常に大きな家であっ
たので、当然、三人の使用人と僕一人だけではすべての部屋は使い切らず、もう何年も人が
立ち入っていない部屋もいくつかあった。地下は主に使用人の部屋、一階はリビングやゲス
トルーム、二階は僕が使用していたが、三階を出入りするものはいなかった。しかし今、三
階の角部屋には薄暗い電気がついており、誰かが中にいることが伺えた。誰もいない、いつ
も人気がなく暗い部屋に明かりがついているというのはなんとも異様な光景で、それは例
えるならば、大人になってから開けたおもちゃ箱の中で、子供の頃夢中になって遊んだゲー
ム機がただ一つ画面を光らせてまた遊んでほしいと言っているような、そんな異様で不気
味な光景だった。
いつも通り家の中へ入ると、使用人たちは普段と変わらず夕食の支度をしており、僕に
「お帰りなさい」と挨拶をした。使用人たちは気づいていないのだろうか、それとも僕に隠
そうとしているのか、それともまた僕が見たあの三階の灯は幻だったのであろうか。使用人
に聞くより、百間は一見にしかず。直接自分の目で確かめる方が確実かつ効率的だった。し
かし、しばらく様子を見ることにした。
荷物を置くため、二階の自室に向かったが、階段を一段一段登るにつれ、緊張感が高まっ
た。自分の存在に気づいて三階の誰かが降りてくるのではあるまいか。ところが、そんな緊
張を裏切るくらい、三階はしんと静まりかえり、誰かがいる気配はまるでしなかった。誰か
が降りてくるのではないかと恐れていたのにも関わらず、不思議なことに、誰の気配もない
ことにがっかりとした自分もいたような気がした。肩の力がふっと抜けた。僕は荷物を置い
て、手を洗った。鏡に映った僕の顔は、なぜだか他人のように感じられた。僕の動いた通り
に鏡の中の僕が動くか確かめた。それは僕だった。
一階に降り、食卓に着いた。いつも通り多種多様な料理が並んでいた。人参の何か、ほう
れん草の何か、牛肉をソテーした何か、ジャガイモの何か、何だかよく分からないスープ、
ご飯、そして茶色いケーキ。美味しいとも不味いとも感じずに、三階にいるであろう誰かの
ことを考えながら、その何かたちを口に運んだ。階段を上り下りし、洗面所で手を洗ったら、
さすがにその音はその誰かに聞こえているはずだった。茶色いケーキにフォークの先をつ
けた瞬間、昼間見たスーツの男が脳裏をかすめた。フォークを置き、考える間もなく席を立った。自分の意思思考より行動が先立つこともある。無意識に階段を登り、気がつくと三階
の部屋の扉の前に立っていた。
耳を扉につけ、気配を探ったが、何ひとつ誰かがいる気配は感じられなかった。僕はドア
を三回ノックした。何の応答もなかった。ついに僕はドアノブを握り、扉をゆっくりと開け
始めた。三センチほど扉が開いた時、中に誰かがいるという可能性はほとんどないことを確
信した。光が漏れてこなかったからだ。案の定、中には誰もいなかった。昔父親である人が
使っていたであろう書斎。本棚に並ぶ本たちには何の共通点もなかった。三島由紀夫や谷崎
潤一郎といった文豪たちの本、宇宙科学の本、植物図鑑、古典、推理小説、六法全書。いっ
たいこの人は何に興味があり、どんなことを考えていた人なのだろう。思い返せば、最後に
この部屋に入ったのは、もう十年以上も前のことで、全てが新鮮だった。なぜか入ってはい
けない気がした。そんな禁断の香りを、この部屋は漂わせていたのである。三島由紀夫の『近
代能楽集』が机の上に置いてあった。ブックマークが挟んであるページは「弱法師」で、ペ
ージの端っこには「Perspectivism 」と書いてあった。「ニーチェ、か」と僕はつぶやいた。
父であろう人と話してみたくなった。僕の部屋のすぐ上に、こんな宝庫のような場所があ
ったことに少し驚いた。驚きは遠い世界を旅せずとも、身近なところに溢れていたりするの
だろう。普段降りない駅で無駄に降りてみたり、遠回りをしてみたり。何か驚きや発見があ
ることを確信して遠くに旅に出るよりもずっと高尚な冒険であると思った。この部屋に来
た目的を、僕はいつの間にか忘れてそのまま眠ってしまった。
父であろう人の書斎に降り注ぐ光はあまりに穏やかで、暖かく、僕はこんなに安らかな気
持ちで目覚めたことはなかった。感じたことのない、親の愛のようなものを感じた気がした。
そんな穏やかな朝は、掃除のために入って来た使用人の、何とも言えない僕を見つめる表情
によって、シャボン玉が消えるように終わりを迎えた。
「し、失礼いたしました」
「いいや。大丈夫です」
そう言って僕は部屋を出た。彼女になぜ僕があの部屋にいたのか質問する隙を与えるこ
となく。
部屋を出ると、携帯電話が鳴った。病院からの電話かと思ったが見覚えのない番号からだ
った。病院以外からの電話は初めてだったので、恐る恐る電話に出た。
「おはよっ」
「え」
僕は戸惑いを隠せなかった。
「おはよう。起こしちゃった?」
「杏ちゃん?」
「そう。びっくりした?」
「びっくりしたよ。どうして・・・」
「賢人くんのお母さんに番号教えてもらったんだ。勝手にごめんなさい」「母さんに会ったの?」
「うん。退屈で退屈で仕方なくって。散歩してたらね、部屋の外に白崎って書いてあったか
ら、つい入っちゃった。そしたらね、眼鏡をかけたスーツの男の人が出てきたの。賢人くん
のお父さんかしら。でね、お母さん、私に気づいて、無言で電話番号を書いた紙を私にくれ
たの。私のことお母さんに話したの?なあんにも期待せずに歩いてたら、宝物を発見した感
じで、とっても嬉しかったんだよ。すぐに電話しちゃおうって思ったんだけど、ちょっと体
調悪くなっちゃって。元気な声がよかったから、初めての電話は」
「そ、そっか。そんなにたくさん話されたら何て返していいか分からないな」
彼女の「おはよ」という声は僕の思考を鈍らせ、昨晩から頭の中をぐるぐると駆け巡ってい
た痼は一瞬にして溶けてなくなったような気がした。
「あ、ごめんなさい。今日はとっても気分が良くって。私とデートしてくれないかな。今日
ね、外出許可が出たの」
「あ、ああ、うん」
「じゃあ決まりね。病院の下で待ってるから」
そう言い切ると、彼女は電話を切ってしまった。デートという言葉が僕の頭の中を右往左
往した。デートと言う言葉を何度も何度も反芻した。顔を洗い、服を着て急いで家を出た。
望んでもみなかった好機とはこのことなのであろうかと思った。病院へ向かうことしか頭
の中にはなかった。こんな気持ちで病院へ行くことは初めてで、僕のキャンパスには鮮やか
なパステルカラーの絵が描かれたような気がした。
病院のピロティーには、真っ白なワンピースを着た彼女が立っていた。彼女のあまりに無
垢で純潔な姿を見て、外へ連れ出したくない、そう強く思った。彼女の真っ白なワンピース
が、病院へ戻る頃には真っ黒になってしまうのではなかろうか、そんな頓珍漢な不安までも
が僕を襲った。彼女のことを見つめて立ち竦めてる僕の姿に彼女は気づき、手を小さく振っ
た。彼女の弱々しい笑顔が僕の不安を優しく吸い取った。僕は彼女の方へ走って言った。
「お待たせ」
「早かったよ。思ったよりも」
「そう。なら良かった。行きたいところとか何かあるかな。僕、こういうの初めてでよく分
からなくて。せっかくだし、杏ちゃんの好きなことをしよう」
「海に行ってみたい」
「海、行ったことないの?」
「ないと思う。いい?」
「うん。じゃあ、江ノ島にでも行こうか。帰りは夕方までに帰れたら大丈夫かな」
「うん。島に行くのね。楽しそう」
そう行って彼女は大きな瞳を輝かせて笑った。
「駅までタクシーで行こう」
「歩いて行こうよ。私、大丈夫だから。今日は病気ということは忘れて、普通の健康な女の子として扱ってくれたら嬉しいな」
「う、うん。分かった」
僕たちは駅を目指して歩き出した。
「賢人くん、今日もし私と会ってなかったら何してたの?」
「うーん、多分家で本でも読んでたかな」
「そっか。普段暇な時は家にいるの?」
「そうだね。だいたい家にいるよ。行くべきところも行きたいところもないからね」
「そうなんだ。私が賢人くんなら毎日色々なところに出かけるだろうなあ」
「杏ちゃんなら想像力だけで色々なところへ行けそうだけどね」
「賢人くん、よく分かるね。でも想像旅行はいつも一人旅だから。誰も連れて行けないから」
「想像旅行か。僕は一人が好きだから、それがいいや」
「ということは私と今日いるの、嫌だったの?」
彼女の少し怒った顔はとても愛らしかった。
「い、いや。これは別だよ」
「別なの?特別ってこと?」
彼女の表情は一変し、にこりと笑って僕をみた。たわいもない会話をしているうちに、僕ら
は駅に着いた。
「どこの駅まで行くの?切符を買ってこないと」
「藤沢駅まで行こう。このカードにチャージしてあるから、これ使っていいよ」
「え?何?チャージ?」
「あ、ああ、うん。このカードを改札でかざせば通れるんだ。中にあらかじめお金を入れて
あるから」
「そ、そんなものがあるのね。ありがとう」
彼女は驚いて言った。僕の言ったことを信じていないのだろう、彼女は恐る恐るカードを改
札にかざした。改札のゲートが開くと、満面の笑みを浮かべて振り返って僕を見た。子供が
初めて自転車に乗れた時のような、そんな無邪気な笑顔に僕の体は一瞬拘束された。若者は
当たり前のように使うこのカードも、彼女にとっては新鮮なもので、こんな些細なことで純
粋に喜べる彼女の心は僕のものとは真反対のものであるのだと感じた。ふと我に帰り、半分
中に浮いたように歩く彼女の後を追いかけた。
「十番線に来る次の電車に乗ろう」
僕の口から聞こえて来る声は確かに僕自身の声であったが、踊っているようなその声は他
人の声のように感じられ、とても不思議な感覚に陥った。
「久しぶりだなあ電車に乗るのは。いつも車だし、そもそもそんなに出かけないから」
彼女は遠くを眺めながらそう言った。
「そうなんだ。本当に大丈夫なんだよね?ご両親とか知ってるんだよね?」
「大丈夫だって、その辺は。もし仮にこのまま死んだとしても病室で死ぬよりはずっといいしね。言ったでしょ?今日は病気の私はいないんだよ」
彼女は笑顔でそう言った。
「そっか」
妙に説得力のある彼女の言葉に、僕は何も言い返すことができなかった。そうこうしている
うちに電車がやってきた。いつも何となく眺める東海道線が、今日は何だか僕たちを楽園に
でも連れて行ってくれる、そんな夢の電車のように見えた。ただの電車だけれど、それは遊
園地に走るアトラクションと同等の役割を担っていた。
一人分空いた席を彼女に勧めた。
「ありがとう」
彼女はそう言ってちょこりと座った。僕は彼女の前に立ち、いつもと違う視点から見る彼女
の美しさに惚れ惚れとしていた。全方位から彼女を眺めてみたいという衝動にさえ駆られ
た。
「何みてるの?」
「あ、いや、別に」
目線を逸らして照れる僕を見て彼女はくすくすと笑い、それにつられて僕の口元も少し緩
んだ。そこに、六十過ぎぐらいの派手な化粧に何とも言えない蛍光色の服に身を包んだ女性
がやってきて言った。
「若いくせに席も譲らないなんて、今時の若い子っていうのは本当にダメね。ああ足が痛い」
「あっごめんなさい」
彼女はとっさに席を立った。
「いやでも彼女は」
僕がそう言いかけた瞬間彼女は僕の手を引いて隣の車両へ小走りで移動した。
「いいの。私、元気な女の子に見えたんだね。別に立ってたって平気」
僕は彼女の物事の捉え方が好きだった。どんなに汚いことや酷いことを言われようと、彼
女の世界が汚れることはないのだと思った。きっとあの丈夫そうな寸胴のおばさんよりも
ずっと彼女の方が辛いだろう。寿命だって彼女の方が短いかもしれない。人は目に見たまま
を信じてしまう。それがまやかしである可能性を疑う人は少ない。中身を、その本質をしっ
かりと見抜ける人はそうそういないのだ。偽善者ほどタチの悪いものはない。現実を見ずに
綺麗事を並べて薄気味悪い笑みを浮かべている人は大抵悪人であるが皆に好かれ、一方し
っかりと現実を見て、それが皆に嫌われる惨事を招こうとも事の正論を述べる人は実は善
人であることが多いが、いつもひとりぼっち。これも単なる僕の見解に過ぎないが、人は人
の目に映るものごとの器しか見ない。その器の中身は見ようと努力する者にしか見えない
のである。確かにそんな表面的な世界を生きていた方が楽かもしれない。そもそもその中身
すら虚構である可能性も誰も否定はできないのだから。
「ねえ、何考えてるの?」
彼女の顔がぼんやりと僕の視界に入ってきた。彼女の輪郭がはっきりする頃には、彼女の顔は、お互いの鼻息を感じられるほどすぐそばにあった。
「あ、いや。何でもないよ」
彼女は何かもの言いたげな表情で僕を見つめた。僕を凝視するその大きな瞳は、光をも飲み
込むブラックホールのような吸収力を持ち合わせ、それはその美しさで獲物を呼び寄せる
肉食植物のような、そんな恐ろしい一面も匂わせていた。彼女はその大きな瞳を窓の外に向
け、ただひたすらに窓の外を眺めた。僕はそんな彼女をただひたすらに眺めた。時間はあっ
という間に過ぎ、僕たちは藤沢駅に着いた。
「もう着いたの?海はすぐそこ?」
彼女は小さくスキップをしながら僕に聞いた。
「いや、電車を乗り換えて十分くらいで到着だよ」
僕がそう言うと、彼女はどの電車に乗り換えるのか分からないにも関わらず、僕の前を歩い
て電車を探した。
「そんなに急がなくても海は逃げないよ」
僕がそう言うと、彼女は立ち止まって僕を待った。
「分かってるけど、でも早く会いたいの」
「誰に会いたいの?」
「海によ。早くしないと見る前に私の心臓止まっちゃうかもよ」
「え」
深刻な顔つきで言葉を失う僕の顔を見て彼女は小さく笑った。
「冗談よ」
僕は彼女の元へ小走りで向かった。今後数十年生きる人間にとっての一分間と、余命がそ
う長くはないことを知っている人間にとっての一分間は全く異なるのであろう。いや、同じ
であるけれどきっと時間の感じ方、価値観が異なるのだろう。彼女の余命はそう長くはない
のか、彼女の病気は完治するのか僕は結局のところ知らなかった。
小田急電鉄江ノ島線に乗り、十分もしないうちに片瀬江ノ島駅についた。竜宮城を模した
駅舎は、彼女と僕の冒険の門出の手助けをしてくれた。いかにも、僕たちが物語の主人公の
ような、そんな気分にさせてくれたのだった。
「昔話か何かの世界に来た気分。すごい。海だ」
彼女はそう言って彼女の大きな瞳を輝かせた。小さな橋の横には、大きな海が広がっていた。
小さな橋を渡りきった右側には大きな橋があり、その橋は江ノ島にかかっていた。
「あの橋を渡ってあの島に行くのね。海の真ん中を歩いて行くのね。海に行けるだけでも十
分嬉しかったのに、海の真ん中を歩けるなんて素敵」
「そうだよ。海の真ん中を歩けるかどうかは分からないけどね」
僕がそう言うと彼女は自信満々に言った。
「海なんて全部繋がっているんだから真ん中だと思ったところが真ん中なのよ」
またも彼女の言葉は妙な説得力を持っていた。僕たちは大きな橋を渡って島に向かった。その島は、緑の木々に覆われており、もこもこと生い茂る木の中からひょっこりと灯台が
顔を覗かせていた。
「あの塔って登れるのかしら」
彼女はそのひょっこりと突き出た灯台を眺めて言った。
「ああ。登れると思う。登りたい?」
「考える」
「分かった。でもその前にお腹空かない?」
「ああ。そういえば空いたかも。でもそんなにたくさんは食べられないかな」
「そっか。じゃあ適当に歩いて美味しそうなものがあったら食べよう」
「うん」
彼女の真っ白な肌を照りつける太陽を、僕は少しだけ憎らしいと思った。
約四百メートルの橋を渡ると、イカやトウモロコシを焼いているお店、それらを食べる
人々、ソフトクリームを食べる人々、写真を撮る人々、様々な楽しみ方をしている人々で島
は活気に溢れていた。僕はこのような観光地が正直苦手だった。人々の会話はテレビかラジ
オか何かしらの媒体を通して聞く音声のように遠く感じられた。それでも、彼女の声だけは
しっかりと聞こえて来た。
「なんだか本当に遠いところへ旅行に来たみたい」
島に入ってすぐに弁天仲見世通りが見えてきた。緩やかな坂道を挟み、飲食店や土産物店
が軒を連ねていた。人と物とが今にも坂を転がり落ちてきそうなほどありとあらゆるもの
がその通りには詰め込まれており、それは何か物質主義の一面を体現しているようにも見
受けられた。しばらく坂を登ると、タコが丸々一匹押し花のように押しつぶされたせんべい
が売られていた。彼女は美味しそうにそのタコのせんべいを頬張る人を横目に、彼女が長年
抱いているという疑問を僕に投げかけた。
「なぜ、タコをぺちゃんこにしても笑って見ていられるのに、それが犬や猫やまして人間な
ら、とっても恐ろしい残虐行為になるのかなと思うんだけど。みんなこの世に生を受けた生
き物であることに変わりはないのに、なぜその命に差が生まれるのかなって」
「多分その生き物を食べ物と認識した瞬間それはもうある種動物でもなんでもなく単なる
獲物でしかないのかもね。もし杏ちゃんが小さい頃から犬を食べてきたなら犬を丸焼きに
することになんの抵抗もないかもしれない。物の見え方なんて個々人やその時の状況次第
でまるで違うものだから。例えば、杏ちゃんは草木が生い茂る森の中を歩いていたとしよう。
その時道を阻む草木は単なる障害物に過ぎない。でも、そこに熊か何かどう猛な獣が現れた
時、身を隠してくれる草木はとっても重要な防衛具になるみたいに」
「なるほどね。それは面白いご意見です先生」
そんな会話をしながらゆっくり歩いていると、ほのかな甘い香りに僕たちは包まれた。
「ねえ、女夫まんじゅうだって。食べてみようよ」
「う、うん。買ってくるから待ってて」彼女を道の脇に残し、僕は茶色と白の饅頭を一つずつ買って彼女にどちらがいいかを聞
いた。
「両方」
彼女はとっさにそう答えた。戸惑う僕を見て彼女は笑って言った。
「両方半分こしよ。半分食べたら交換しようよ。そうしたら両方食べられるじゃない?」
僕たちは甘い饅頭を片手にまたゆっくりと坂を登り始めた。僕はほのかな甘さを感じるこ
とができた。彼女が何かを食べる姿を初めて見た僕はなんともいえない感動を覚えた。僕は
饅頭を半分残すことに必死だった。綺麗に半分残すにはどの辺りまで食べたら良いのだろ
うか。そもそも最初から半分に手で割った方が良かったのだろうか。色々必死に考えながら
歩いている横で、彼女は黙々と食べていた。
通りを抜けると江島神社が見えてきた。彼女は鮮やかな朱色の鳥居の前で立ち止まった。
「この神社に来る人は色々な願い事をしに来るんだろうね。合格祈願だったり恋愛成就だ
ったり。色々な人の欲望が渦巻く場所でもあるのよね。でも、どんなに神様に祈れど、別に
もうこの先の運命は私たちがこの世に生を受けた時点で、全て決まっていると思う。あたか
も自分で判断して、選択をして未来を切り開いているように錯覚してしまうけれど、もう全
て決まり切っていると思うの」
「じゃあ、祈っても意味がないということ?」
「意味があるかないかは一概には言えないわ。祈ったから願いがかなうとか、祈らなかった
から願いが叶わないとか、そういうことでもないから。でも、祈ったことでその人の気持ち
が前向きになったり、自信に繋がったり、精神面で何かしら良い効果があるかもしれない。
この中でこの神社の神様のことを知っている人はそんなに多くないと思う。神社には神様
がいてただ願い事をする。それだけ」
彼女は外の世界をあまり知らないはずだったが、時折見せる彼女の表情は、全知全能の神
を想起させ、全てを悟ったかのようなそんな目をして遠くを眺めるのであった。饅頭半分条
約のことはいつの間にか忘れられ、僕たちの手から饅頭は消えていた。島の上には展望台が
あり皆上を目指した。
「天邪鬼。みんなが上に歩いて行くとき、私は下におりたくなるな」
彼女はクスクスと笑いながら言った。
「じゃあ、登らずに下る?」
「うん。登ってしまったらそれで終わりだもん。いつだって想像に任せておいた方がうんと
美しい」
僕たちはしばらく海を眺めた後駅に向かった。
駅でぐったりと僕にもたれかかる彼女は、非常に愛おしく、このまま時間が止まればいい
のにと思った。彼女のか弱さは彼女に儚い尊さを与えていた。
「病院に連絡しよう」
そう言って僕は彼女の携帯電話を取った。病院と彼女の両親からの着信履歴で画面は覆われており、僕はとんでもないことをしてしまったのだと頭の中は真っ白になった。
「大丈夫だから、賢人くん」
「外出許可なんて出ていないんだね。君のご両親や先生はとても心配しているだろうから
とりあえず電話をしよう」
「だめよ。賢人くんと一緒にいることがバレたら、もう会わせてもらえないかもしれない。
東京駅でタクシーに乗せてくれる?一人で出かけたことにするから」
僕は携帯電話を彼女のバッグに戻した。帰りの電車で、僕らは一言も話すことなくただ電車
に身を委ね揺られていた。丸の内南口を出てタクシー乗り場に向かった。開けた駅前を囲む
ようにそびえ立つビル群は、なぜだか僕たちを嘲笑っているかのように見えた。
「賢人くん、本当にごめんなさい。また連絡するから」
「やっぱり僕も行くよ」
「病院でお別れするのはデートっぽくないから、ここで。まあでも待ち合わせは病院だった
けど」
「分かった。本当に気をつけて」
僕はタクシーの運転手に行き先を告げ、彼女をタクシーに乗せた。
「賢人くん、ありがとう」
彼女を乗せたタクシーは、彼女をどこか遠くに連れて行ってしまいそうで、ただ呆然と立ち
尽くす僕を不安にさせた。僕の視界から消えた彼女は、もう二度と僕の生きる世界には戻っ
てこないような、そんな気がした。
***
木々が裸になり、イルミネーションが街を彩る寒く冷たい季節になった。彼女とはかれこ
れ二ヶ月くらい連絡を取っていなかった。暖かさが映えるこの季節、僕はまるで冷たかった。
何もかも冷たかった。彼女と出会ったことはなかったかのようにさえ感じられるくらい彼
女との距離は離れていた。自分から連絡を取ったり、彼女に会いに行ったりしようという気
分にはなぜだかなれなかった。あの幸せな思い出のまま終わらせておくのが最善のように
思われたからかもしれない。また彼女と会うと、とんでもない罪を犯してしまいそうで怖か
った。その恐怖心が僕を止めていたのだろうと思う。それに、思い出そうとすればするほど
彼女との記憶は遠ざかって行った。昨晩見た夢を思い出そうと知ればするほどその記憶が
薄れていくように。
しかし、人生で初めて喪失感というものを味わった気もした。何に対しても独占欲や執着
がなかった僕に失うものなんてなかったはずだが、彼女が僕の世界から消えるというのは、
僕の世界を不完全にしてしまうような気がしたのだ。ジグゾーパズルのピースがはまりか
けた瞬間、そのピースが消えて無くなってしまったような、何とも言えない喪失感に襲われ
た。母に会いに行こうかとも思ったが、まだあのスーツの男のことが忘れられず、母との気まずい沈黙を思い出すと行く気にはなれなかった。
そのまま時は流れ年が明けた。誰と年明けを祝うわけでもなかったが、初詣だけは毎年欠
かさなかった。0時過ぎに家を出て神社に向かう途中、携帯が鳴った。母の病院か彼女から
しかかかってきたことがないのでこの電話もそのどちらかであろうと思われた。携帯電話
を取り出して見ると、それは彼女からの電話だった。僕は逸る気持ちを落ち着かせ落ち着い
たトーンで電話に出た。
「はい。もしもし」
「賢人くん?杏です。ご無沙汰しちゃってごめんなさい。あけましておめでとう」
「おめでとう。杏ちゃん、体調大丈夫なの?」
「う、うん。江ノ島に行った日ね、やっぱり先生と両親にうんと叱られちゃって、連絡した
かったけれどできなかったの。外出禁止で携帯電話も取り上げられちゃったから」
「そうだったんだ。何より元気そうでよかった」
「うん。元気なの。退院したんだ、私」
「それはよかったね。おめでとう」
「ありがとう。今、外にいるの?」
「う、うん。初詣」
「そっか、寒いでしょ」
「まあね。杏ちゃんは家にいるの?」
「うん。家」
「そうなんだ」
僕らの間にはぎこちない沈黙が流れた。僕のテンションは不思議とそんなに上がらなか
った。
「ねえ、賢人くん。退院祝いということでどこかに美味しいものを食べに行かない?」
「あ、ああ。いいよ」
「明日、空いてる?」
「うん」
「じゃあ、明日。桜木町駅に十二時ね」
「わかった」
「楽しみにしてるね。また明日」
そう言って彼女は電話を切った。神社には、甘酒を飲みながら今年の抱負を語る人々やみ
かんを片手に走り回る子供達、深刻そうな顔つきで何かを祈る人々がおり、たくさんの人々
の想いが渦巻いていた。僕は、鳥居の先に進むことができなかった。神様に全てを見透かさ
れているような気がした。何も悪いことはしていないけれど、それでも僕の邪な気持ちは僕
を引き止めた。鳥居の外から一礼して家に帰った。家に帰るとき、あの三階の書斎を見る習
慣がいつの間にかついていた。普段通り真っ暗だった。
翌朝、僕は書斎で目覚めた。最近はこの部屋こそが僕の居場所と化し、安心できる場所であった。この書斎は、人間に必要なものは居場所であるのだと教えてくれた。いくら外で辛
いことがあっても、帰るべき場所があり、安心できる場所があればどうにかやっていけるの
だろう。特段辛いことがない僕にも、何となく分かるような気がした。
翌日、僕が駅に着くと、黒色のワンピースを着た彼女が立っていた。フレアスカートに強
調された細い足は、やはり周りを歩く肉付きの良い女性と比べると、その貧弱さは明らかだ
った。彼女は僕に気づき、手を振った。僕はそのとき初めて彼女の存在に気づいたふりをし
て手を振り返した。改札を出て、彼女の顔を見ると、あの真っ赤な唇はピンク色を纏い、細
胞を透かせるほど真っ白で透明な頰もうっすらとピンク色を纏っていた。美の崩壊とはま
さにこのことなのかもしれない、と心の中で思ったが、化粧という仮面を取れば、すなわち
真の彼女の素顔は、病室で見るいつもの彼女と変わらないから問題は何もないと言い聞か
せた。
「来てくれてありがとう。お腹すいてる?」
「うん。杏ちゃんは?」
「私も空いてる。何か食べたいものある?」
「僕は何でも食べられるよ。杏ちゃんの食べたいものを食べよう」
「じゃあ適当に散策して美味しそうなところに行こう」
「そうだね」
改札を出ると、高いビルやショッピングモールが立ち並び、東京とは違った新鮮な空気が
漂っていた。中でも手を繋いで仲睦まじそうに歩くカップルが目立ち、人気のデートスポッ
トなのだということを悟った。僕たちは高いビルに向かうことにした。そのビルに続く動く
歩道からは、海や遊園地が見えた。各々が幸せそうな表情を浮かべ、休日を満喫していた。
僕はどうも部外者のような気がしてならなかった。せっかく美しい女性と美しい街を歩
いていても、その場所にのめり込みその一員と化すことはどうしてもできなかったのだ。僕
の周りを歩く人間とは一線を画した存在であるような、幽霊や宇宙人といった存在である
ようなそんな気がしてならなかった。僕が特別優れているとか劣っているとかそういうこ
とではなく、ただ、この世に、この世界に存在している気がしなかったのだ。地に足をつけ
て歩いているのではなく、ふわふわと浮いているような感覚がいつも僕にまとわりついて
いた。
「綺麗ね。とっても」
と彼女が言った。とても落ち着いついた口調で、独り言のように言った。僕はただ黙って一
緒に景色を眺めた。
動く歩道と高いビルは直結していた。
「この建物のどこかで食べよう。何があるのかな」
彼女はそう言うと、僕に返事の隙を与えることなくレストラン案内の一覧を見つけ走って
行った。
その後、僕たちはイタリアンレストランで食事をして、色々なお店を見てまわった。正直、その間の記憶はぼんやりとしていて、詳細に書けることはあまりない。何となく、やんわり
と時が流れ、気がついたら待ち合わせをした駅にいた。冬のひんやりと冷たい空気は容赦な
く僕の身体をすり抜けて行った。麗らかだった空はどんよりとしているようだった。
「今日はありがとう。何線で帰るの?」
彼女は淡々としていた。
「あ、ああ。京浜東北線で横浜まで行くよ」
「そっか。私もう少しだけここにいるね」
「え、あ、うん。分かった。気をつけて帰ってね」
「ありがとう。また」
これをいわゆるデートと評するなら間違えなく最悪だったかもしれない。ただそれは僕
にはもうどうでも良いことのように思われた。
***
家に近づくと、また三階の書斎に灯りがついていた。無心で家の鍵を開け階段を駆け上が
った。ドアは五センチほど開いていて、そこから漏れ出す薄暗い光はなんだか不気味な雰囲
気をつくりだしていた。恐る恐る中を覗いてみると、貫禄のある大柄な男が部屋中を物色し
ていた。強盗というよりは、あたかも住人のように部屋に馴染んでいた。僕に気づいたのか
一瞬手を止めこちらを見たがまたすぐに何かを探しはじめた。僕は声をかけた。
「あの、すみません。どちら様ですか」
「君のお母さんの知り合いだよ。ちょっと忘れ物をしたみたいでね。申し訳ないけれど一人
にしてくれるかな」
「いいですけど、何を探しているのかと母とどういう関係なのか教えてください。母の見舞
にも行かれるんですか」
「ああ、まあ旧友というところかな、お母さんに直接聞いてみるといいよ。「神崎って誰?」
って」
「探し物は何ですか」
「化石。まあいいやここにはなさそうだから。これで失礼するよ、賢人くん」
彼は僕の名前をごく自然に口にした。まるで親戚のおじさんが親しみを込めて彼の甥っ子
を呼ぶように。そしてそのまま階段を降り、黒いクラウンに乗り込んで去っていった。古び
た時計の秒針の音がいつものように聞こえてきたが、少しテンポが早いような、そんな気が
した。
この家で働く使用人達は、まるでその男が見えていないかのように各々の仕事を淡々とこ
なしていた。ただ目の前の、彼女たちがやるべきことだけを淡々と。同じ屋根の下に暮らし
てはいるが彼女たちのことを何も知らない。会話も決まりきった、事務的な会話だけだ。改
めて客観的に見てみるととても異質な関係性だった。彼女たちに生きがいや人生の楽しみはあるのだろうか。毎日毎日同じことを繰り返し、我が家でもない他人の家に住み、無表情
でせかせかと働く。彼女たちは何のために働いているのだろうか。急に皆がロボットのよう
に思えてきた。僕が彼女たちを空気のように扱うから彼女たちは空気になりきっているの
か、それともただ空気のように見えるのか。あの男のことも、使用人のことも僕の頭の中に
張り付いて離れようとしなかった。
翌朝、僕は病院に行くことにした。僅かに開いた扉から病室の中を覗くと、母は眠ってい
た。眠っている母を見て安心する自分と早く用事を済ませたいと気を逸らせる自分がいた。
横開きの扉を僕一人が通れるギリギリのところまで開き、中に入った。扉を閉めたその音で
母は目覚めた。ゆっくりと起き上がりこちらを見た母の目は、僕ではない何かを見ているよ
うで、僕は思ったより簡単に口を開くことができた。
「神崎って誰?」
僕はこの質問が母を動揺させるであろうとなんとなく予感していたが、母は表情を一切変
えることなく答えた。
「あなたの父親よ」
「ああ、そう。それは・・・」
聞きたいことはたくさんあったはずだがどれも言葉にならなかった。長年心の片隅に父
親についての疑問はあったけれど、もう死んだか、生きていたとしても会うことはないので
あろうと思っていたので、僕の世界には存在しないも同然だった。あの書斎はあの男のもの
なのであろうか。そんなことはない。それだけは確かな予感として不思議と確信が持てた。
あの男が放つ独特の雰囲気はあの書斎にはまるで合わない。母とあの男の言うことが本当
ならば、彼等は旧友であり僕の両親ということになる。母と呼ぶこの女性が実の母親ではな
い可能性を除いて。
人は自分探しをしたがる。自分とは何者なのかを探し求めて旅に出るものもいれば人生
とは自分探しの旅であるというものもいる。自分が何者なのか、誰が父親で誰が母親なのか
ということは、特に自分のルーツであるから知りたいものなのだろう。養子縁組に出された
子供が実の両親に会いに行くという話がよくあるように。僕にとってほとんど他人のよう
な両親は僕が死ねば涙を流すのだろうか。僕が行方不明になれば探そうとするのだろうか。
色々なことを考えたが、結局言葉を発することなく部屋を出た。
神崎という男が僕の父親だと聞いたときから、あの日書斎で見たあの男の顔が脳裏に焼き
付いて離れなかった。
病院から家まで、遠回りをすると公園がある。普段は遠回りなんて非効率的なことはしな
いが、家に帰る気にもなれなかったのでその公園に行くことにした。公園のベンチに座り、
ただ時が経つのを待った。無邪気に遊ぶ子供達と公園の隅でぺちゃくちゃと話に花を咲か
せる姦しい母親たち。彼女たちは、子供が亡くなれば涙を流すだろうし、子供がいなくなろ
うものなら死に物狂いで探すだろう。
十七時を知らせるチャイムが鳴り響くと同時に、子供たちは各々の母親の元へ走った。満遍の笑みを浮かべて。当たり前のように走った。彼等もまた母親がいなくなれば涙を流すだ
ろう。この公園に来たことは何度かあったが本を読まずに過ごしたのは初めてだった。公園
で遊ぶ子供や母親に目を向けたのは初めてだった。
重い腰を上げ家に向かった。家に近づくにつれ、人々のざわめきがはっきりと聞こえてき
た。何か事件でもあったのであろうか。そういえばさっきパトカーのサイレンを聞いた気が
した。今下っている坂の角を曲がると僕の家がある。使用人が事件でも起こしたのだろうか
というあり得ない考えが頭をよぎった。
ああなんてことだ。角を曲がると僕の家の周りには野次馬が集まり、黄色いテープで家の
周りは囲まれていた。庭の一部はブルーシートで覆われていた。無感情に見える使用人も感
情的になり人を殺めることがあるのだろうか。神崎が何かやらかしたのであろうか。気づい
たら僕は再び公園の方へ向かっていた。警察が怖かった訳でもなんでもないが、人々の注目
を集めるのは御免だった。
ただあてもなくふらふらと歩き回っていると駅が見えてきた。駅の前にはSL が展示され
ていたのですぐに新橋駅なのだとわかった。人混みは苦手だから滅多にいかない。ただ僕の
胸のざわめきは静かなところにいるとよりいっそううるさく感じられたので、ざわざわと
した、ギラギラとした、そんな場所が必要だった。飲み屋が犇めき合う細い路地の中に鳥森
神社という神社があった。若いサラリーマンがお祈りしていこうぜと鳥居をくぐると、側を
通りかかった老人は、「今時の若者は鳥居を潜る前にお辞儀をすることもできないのか」と
怒っていた。その老人がふらふらと小さな焼き鳥屋に入っていったので僕もなんとなくそ
れにつづこうかと思ったが、店に近づくにつれて僕の足は重くなり、店に入ることはできな
かった。山手線に乗って新宿に行くことにした。
しばらく歌舞伎町を放浪し、インターネットカフェに入った。あれだけ人が集まっていた
のだからもうニュースになっているかもしれないと思い、ニュース番組をつけた。つけた瞬
間僕の家が映っていた。ニュースの見出しは「庭に埋まった人骨」。
ああ、化石。化石という言葉だけが僕の頭を巡回した。化石、化石、化石、化石。神崎が
探していたのはおそらく今日見つかった人骨だ。誰なのだろうか。
目を覚ますと朝だった。昨晩のざわめきは嘘のように消え去り、妙な静けさとやけに明る
い朝日の光が街を包んでいた。僕は朝日の光に促されるようにふらふらと歩いた。前を見て
も後ろを振り返っても左を見ても右を見ても飲み屋と風俗店。どちらも僕には一生縁がな
いと思っていたが、生まれて初めて酒を飲むことにした。目に入った居酒屋に入ると、人は
まばらで、酔いつぶれて寝ている人間が数人いた。席に着くと、若くて髪の明るい店員がや
ってきた。
「お飲み物はお決まりでしょうか」
「ビールをください」
頭で考えるより前に、今まで口にしたこともない「ビール」という単語が先走った。普段
外食もほとんどしない僕の目の前に置かれたビールは何か異世界の飲み物のようで、その点では僕と同士であるようにも感じられた。よく冷えたグラスに注がれた黄色い液体の上
にはフワフワとした泡がこんもりと乗っていたが、しばらく眺めているとその泡はしぼん
でほとんどなくなってしまった。その冷たいグラスを利き手とは逆の左手で持ち上げて飲
んだ。味はしなかった。ただただその冷たさが僕の体をクールダウンして行く感覚だけが伝
わってきた。やってきたお通しには箸をつけることなくビールだけを六杯飲んで店を出た。
外に出て周りを見渡すと全てがぐるぐるまわって見えた。というよりぐるぐるとまわっ
ていた。しばらくぐるぐるとまわった世界に身体を委ねていると、電話がかかってきた。
「白崎さん、お母さんの病態が。急いで病院にいらしてください」
ぐるぐるとまわった世界の中を走るのはそう容易ではなかったが、どうにか病院に辿り
着いた。どうやって辿り着いたのかは分からないが、気がついたら母の病室の前にいた。病
室の扉を開けると同時に僕のキャンパスは真っ青に染まった。
母の魂は体から抜け、そこには抜け殻となった、冷たくなった、血の気を失った、母の体
が横たわっていた。ああ、さっきまで生きていた、人間であったものが、その心臓が止まっ
た瞬間にその人間としての資格を失い、ただの物体と化す。死にゆく瞬間は見逃したものの
僕はかなり興奮していた。僕が母に近づこうと歩き出した瞬間、僕の横を紺色の何かが追い
越していった。神崎だった。
「ああ。やっと、やっと」
そう言って杉崎は母の亡骸のうえに崩れ落ちた。あの堂々としたいかにも政治家らしい
風格を失い、この世の終わりのような顔をして崩れ落ちた。
「賢人くん、こっちにきなさい」
僕は言われるがまま彼に近づいた。
「酒を飲んだのか。もうそんな歳か。もう何もかも手遅れだな。君のお母さんと君には本当
に申し訳ないことをした。もう地獄行きの切符を手にした私は二度と君たちには会えない
だろう。無責任だとは思うがもうどうにもできない。人生に遅すぎることはないというけれ
ど、君のお母さんがこの世の中にいない以上もうどうしようもできないじゃないか」
「あなたは一体何なんですか。僕のち」
「父親」という言葉が最後まで出てこなかったが、言いかけた最初の「ち」は彼を歓喜させ
たようだった。
「君の父親だと彼女は言ったのかな。ああ、最後の最後にいいことを聞けた」
彼はそう言い残して部屋を出た。
何かが爆発した。僕は彼女の病室に駆け込んだ。初めて見た光景と同じ光景だった。一瞬
さらりと見えた黒髪は僕を呼び寄せているようで、気がつくと僕は彼女の細い手首を掴ん
でいた。
「行こう」
僕がそう言うと、彼女は微笑み頷いた。僕達は走った。ただひたすらに走った。彼女はもう
病院にはいないものだと思って期待はしていなかったが、やはり病状は芳しくなく再入院したらしかった。
***
どこだかは分からない海についた。壮大な海は僕らを呼んでいた。真っ青な海には夕日の
道ができていて、それはまるで僕らのためだけに用意されたようであった。彼女の目に映る
夕日は彼女の瞳の中で燃え盛り、彼女はその夕日に吸い込まれるかのように海に向って走
り出した。
「賢人くんもはやく!」
彼女はそう言うと、どんどん海の奥深くへ進んでいった。
「そんなに濡れたら風邪引くよ」
僕はそんなつまらないことを言いながら彼女のもとへ向かった。
「風邪引くも何も、こんな病気してたら風邪なんてピースオブケイクだよ」
彼女はいつにも増して輝いていた。僕は彼女の手を引いて浅瀬に戻った。僕らは体育座りを
してその夕日が沈むのを眺めた。
「ここは夜になってどこかでまた朝が始まる。どこかが暗いとどこかは明るい。闇があるか
ら光はあって、悪者がいるからヒーローがいる。上手くできてるよね。この世界は本当に」
そんなことを言いながら夕日を眺める彼女の瞳に宿った炎は、きっと僕の瞳には宿らない。
彼女は続けた。
「みんな平等っていうけれど、実際は私みたいに病気になる人もいれば、健康な人もいて、
貧乏な家に生まれる人も入れば裕福な家に生まれる人もいる。やっぱり平等なんてことは
ないって思っていたけど、多分、私が病気ならパラレルワールドにいる私はとびきり元気っ
て考えると平等なんだって思える。バカみたいな話しだけど、こんなによくできた世界に不
平等が存在するって考える方がおかしい」
「パラレルワールド、か。そこにいる僕はきっと明るくて光の中を生きている人間なんだろ
うね」
僕は微笑して答えた。
「でも光の中を生きる人に光は見えないけどね。だから闇の中を生きる方が良いかも。昼間
は見えない星が夜には見えるように」
彼女はそういうと身体を後ろに倒し仰向けになった。僕も彼女の横に並んだ。
海の声が心地よく、僕らはそのまま眠りに落ちた。
目を開けるととあたりは暗かった。人はいない。彼女のケータイは光り続けていた。横た
わった僕らの下半身は海に捧げられていた。彼女もゆっくりと目を覚ました。彼女の大きな
瞳はブラックホールのように僕を吸い込まんとしていた。僕はゆっくりと彼女の唇に唇を
重ねた。冷たく冷えた彼女の唇は、さっき僕の中で爆発したなにかを冷ました。海に侵され
た彼女は濡れていて、僕は海に重なった。彼女と海と僕は融合し、溶け合った。「いいよ」
彼女はしばらくしてそう言った。彼女は僕の両手をそっと掴み、彼女の首に当てた。ブラッ
クホールはだんだその力を失い、僕を閉じ込めた末に閉ざされた。僕と彼女は海にのまれ、
海はだんだんと紫色に染まった。そして僕らは海の一部になった。
ああ、生きている。生きている。
***
額に冷たい何かが感じられ、波の音が鮮明に聞こえてきた。ゆっくりと目を開けると、日
が暮れた後の薄暗い空の下には漆黒の海が広がっていた。ふと横を見ると彼女が眠ってい
た。しばらく彼女を見つめていたが、雨がだんだん強くなってきたせいか、彼女はハッと目
を覚ました。僕たちはゆっくりと体を起こし立ち上がった。あたりには何もない。ただ薄暗
い空と、真っ黒な海と砂浜が広がっていた。
僕らは果てしなく続く砂浜を歩き続けた。時間の感覚はなく、五分歩いたのか、はてまた
二日間歩いたのかその違いさえ分からなかった。ずっと変わらぬ景色の中に、黒い何かが見
えてきた。彼女は目覚めてから初めて言葉を発した。
「何かいる」
近づいてみると、黒い何かは鴉だった。
「かわいそうに、この子右目が潰れているわ」
彼女はそう言いながら鴉に近づきその右目をじっくりと見ていた。見えないはずの右目は
なぜか僕の方を向いていたが、僕は近づけなかった。とてつもない恐怖心が僕を襲い、その
鴉の近くにいる彼女でさえ恐ろしく感じられた。僕は再び歩き始め、しばらくして彼女が追
いかけてきた。
「あの鴉、大丈夫かしら」
彼女は後ろを振り返りながら言った。
「大丈夫もなにも、もうあの鴉は死んでるんだ」
僕は落ち着いたトーンでそう言い、立ち止まった。彼女は沈黙の後に何かを言いかけようと
したが、それは遠くからやってくる二人の影によって妨げられた。
「誰かくる」
彼女はそう言うと僕の方をじっと見つめた。彼女の瞳にはもう何のパワーも残っていなか
った。遠くを眺めると、満面の笑みを浮かべた母が神崎と一緒に歩いてくる。あの不気味な
微笑みではなく幸せそうに笑っている。神崎もまた、そんな母を見つめながら笑っている。
二人は手を繋ぎながら見つめ合っている。恋愛映画によくあるような光景だがとてつもな
く異様な光景でもあった。
「賢人くんのお母さんじゃない?」
彼女は言った。「うん。母さんだ。でも母さんは・・・」
僕の声を遮るように母さんが大きな声で僕を呼んだ。
「賢ちゃーん」
どんな感情がもたらしたのかは分からないが、涙が溢れ出てきた。母が息子を呼ぶ、ただ
それだけのことなのに。あの日公園で見た、母親に子供達が駆け寄る光景、それがまさに、
僕自身に起きていた。それだけのことなのに。僕は手を振って僕の名前を呼ぶ母に駆け寄っ
ていく、そんな当たり前のことができなかった。ただ溢れ出る涙をどうにかこらえようと無
意味な抵抗をして、涙でぼやけた二人の影が段々と近づいてくるのをただ見つめていた。
彼女は僕の手を握った。初めて人間の温かみを知ったような気がした。容赦なくその影は
僕たちに近づいてきて、やがてその影の中からぼんやりと顔の輪郭や表情が浮き上がって
きた。今まで気づかなかった母の顔のしわや瞳の色、唇の色、色々な情報が一気に僕の中に
飛び込んできた。
母は僕を抱き寄せた。
「どうせわたし達はあの世界で家族になることなんて、幸せになることなんてできなかっ
たのよ」
僕は母の腰にそっと手を回した。どのくらいの時間が経過したのかは定かではないが、そ
の世界はゆっくりと暗闇に包まれ、目を開けると僕は病院のベッドにいた。
***
そして僕は二十八歳になった。二十八歳になって僕に起きた出来事をつらつらと書いてい
る。全てを言葉にすることは不可能だけれど、書いている。大恋愛をしたわけでも、誰かの
ことを死ぬほど愛したわけでも、なにか感動的な物語をかけるわけでもないけれど書いて
いる。かつて夏目漱石がそうしたように、僕も僕自身に起きた出来事を書いてみている。猫
は登場しないけれど。
僕はあの日の、あの海での出来事の前後の記憶があまりない。聞くところによると脳に酸
素が行き渡らなくなり、脳がダメージを受けて記憶障害になったらしかった。僕の記憶の中
では彼女を殺めたのは紛れもなく僕自身であるが、発見された彼女の遺体にはそんな形跡
はなかった。ただ溺れて窒息死をしたということになっていた。その記憶はものすごく確か
なものではないから、他人にそう言われれば、あれは夢だったのだろう、僕の頭の中でだけ
起きた出来事なのだろう、そう思うことはさほど難しくはなかった。ただ、確かな感覚とし
て強く残っているのは、あの「生きている」という感覚だけだ。あの経験をしてから、僕の
世界はまるで別の世界のようになった。見るもの全てに色があり、それらはありとあらゆる
感情を僕にもたらした。友人と呼べる存在もできた。彼女だけは作ることがまだできない。
彼女への想いは複雑で、どんな女の子と話していても僕の頭の中はまだ彼女でいっぱいに
なってしまうから。僕の中では彼女を殺したのは僕だけれど、周囲の人間はあれは自殺であると思っているし、彼女の死因も溺死であった。彼女はよく看護師や医者に、「どうせ死ぬ
なら好きな人と好きな場所で好きな時に死にたい。こんな病院のベッドで一人で死ぬのだ
けはごめんだ」というようなことをよく言っていたそうで、だからみんな彼女の計画で僕と
入水心中をしたのだと思い込んでいた。引っ込み思案で目立たない、地味な男の子が、とて
も綺麗な女の子に誘われておかしくなってしまったのだと。だからみんな僕を被害者だと
思ったようだった。
僕のお母さんも神崎も死んだし、庭から出てきた遺体は結局誰によって殺され埋められた
のか分からなかった。それは僕がまだ赤ん坊の頃に埋められた遺体だったので当然僕に容
疑はかからなかったし、重要参考人である母と神崎はもう居なかったので、未解決事件とし
て葬られた。
家の中で家の一部としてせかせかと働いていた使用人たちは皆解雇し、それぞれがちゃ
んと元の世界に戻っていった。お祭りで捕まえられた金魚が池に戻っていくように。戻った
世界は彼女たちがもともといた世界とは限らないけれど、でも僕は正しいことをしたよう
な気がした。家も売って、国分寺にそれ相応のアパートを借りた。
それから、就職活動をしてサラリーマンになった。本は昔ほど読まなくなった。平日は朝
から晩まで働き、金曜日は毎週のように会社の人との飲み会がある。大抵新宿だけれど、あ
の日見た新宿の景色とは大きく違って見える。無縁だと思っていたもう一つのもの、いわゆ
る風俗店にもたまに行った。自分から行くことはしないけれど、付き合いで行った。そこで
皆生きるために必死なことを痛感した。僕はあのまま何もせずに、社会と関わりを持たずに
生きていたらどうなっていただろう。僕の人生は、時間の経過とともに死に向かってまっす
ぐと進んで行くだろうけれど、そこに深みというものはなかっただろうと思う。彼女の死に
よって僕自身が生を受け、彼女が存在しないことによって僕が存在する。だから僕は二人分
の人生を歩んでいる。だから僕にとっての今の大きな課題は、誰かを愛することができるの
だろうか、愛するという実感を得られるのだろうか、ということだ。同年代の周りのものか
らの結婚式のインビテーションを受け取るたびに、僕は不安に駆られる。この先ずっと孤独
なまま生きて、一人で死んでいくのだろうか。孤独をこよなく愛していた僕には考えられな
い不安だった。
それでも僕には孤独がお似合いのような気もした。僕に幸せになる権利もなければ、誰か
を幸せにする権利すらないのだろうとさえ思えた。結局僕は、母の死を望み、母の死を喜び、
好きな女の子を殺した。全て僕自身の身勝手な欲望のために。そんな男が法の裁きも受けず、
普通の男性としてごく普通の生活を送っている。僕の周りの人間は僕のそんな秘密を知ら
ない。地獄というものがあるのだとすれば、僕は確実に地獄行きの人間だ。天国にいたって
どうせ罪悪感に苛まれるだけだからそれはそれでいいけれど、問題は今だった。残された人
生をどう生きるか。とりあえず僕は彼女に手紙を書くことにした。手紙は彼女のもとに届き
はしないだろうけど、それでも書きたかったから。「拝啓佐々木杏様
そちらの世界はいかがですか。そちらの世界だときっと貴方は健康で、自由気ままに走り
回ることができるのでしょうか。そうだといいなと思います。僕の生きる世界は、というよ
り僕が存在する世界は、僕が生まれてからずっと変わりませんが、貴方と別れてからは、僕
にはこの世界がまるで別物のように感じられます。見るもの全てに色があり、聞くもの全て
に音を感じ、食べるものには味を感じることができます。これはすべて貴方のおかげですか
ら、まずはそのことについてお礼をさせてください。ありがとう。世界はその感じ方によっ
て変わるもので、いつか貴方が木の色について質問をした時のように、見る人それぞれにそ
れぞれの世界があるのだということをとても強く感じます。同じ人間であっても時間の経
過とともに、また、その時の感情や経験によって様々な形に感じられるのだからとても面白
いと、そう実感できました。しかしながら、良いことばかりではなく、悪いこともあります。
僕は孤独に対する不安というものを抱いたことはなかったけれど、最近それを強く感じる
ようになりました。僕はあまり幸せだと感じたことがありません。人生で一度、貴方と海で
過ごしたあの時間は、僕にとって唯一幸せな時間でしたが、僕のその幸せは悲劇の上に成り
立っているように感じます。だって僕が貴方を殺したのですから。僕が今一番会いたいと思
う貴方を、唯一僕の孤独を吹き飛ばすことができる、僕が初めて恋をした貴方を殺したので
すから。いいや、それともそれは僕達二人にとって必要なことだったのでしょうか。貴方は
僕に殺して欲しかったということで間違いないのでしょうか。あの時は完全に流れに身を
任せていましたが、貴方もそれを求めていたのでしょうか。そうだとすれば僕の心は少し軽
くなるのかもしれません。この感情を罪悪感と呼ぶべきか何と呼ぶべきか、言葉が見つかり
ませんが、何やら重苦しい鉛のようなものが僕の心に蔓延り剥がれてくれないのです。この
ままサラリーマンとして誰を愛すでも誰に愛されるでもなく孤独の中で一人寂しく死んで
いくのが僕のこれから歩む道だとすれば、僕は今この手で僕の命を終わらせて貴方の元へ
行きたいと、そう願うばかりですが、それも正しいことなのか分からず立ち往生しているの
です。こんな悩みを貴方に打ち明けたところでただただ迷惑でしょうが、この手紙を貴方に
読んでもらえるとは思っていないのでご容赦を。ただ僕の様々な想いが身体の中から溢れ
出してしまいそうなので、貴方への手紙という形でつらつらと書き出しているわけです。僕
はこの先どのように生きたら良いのでしょうか
敬具
。
白崎賢人」
書いた手紙は出さなければ意味がない。ポストに投函しても事務的に処理された手紙は
僕の元に戻ってくるだろうから、僕はあの海に手紙を流すことにした。あの海が僕と彼女の
別れの場であって、僕らの世界をつなぐ場所だから。僕は冷蔵庫にあった五百ミリリットル
のコカコーラのペットボトルを飲み干すと、それを綺麗に洗ってドライヤーで乾かした。手紙を巻いて輪ゴムで止めようとしたが、輪ゴムではなくなにか紐で結んだ方が良いような
気がしたので、適当な文庫本のスピンを切り取ってそれで手紙を巻いた。僕はスピンは使わ
ないのだ。それから家を出てあの海に向かった。何も考えることなく気がついたら浜辺に辿
り着いていた。
この海だけは、あの時と全く同じように見えた。タイムスリップしたかのように、また同
じ場所に寝っ転がって隣を見ると彼女がいるのではないかとさえ思えた。海には犬の散歩
をする中年の男性、浜辺をあるくカップルがいただけで人は多くなかったので、手紙を海に
託すには最適の時間だった。僕はコカコーラのペットボトルをジャケットのポケットから
取り出し、それを思いっきり、力の限り遠くに投げた。環境汚染と言われればそれまでだが、
その分環境に良いことをしてチャラにしようと思った。
気分も少し晴れ、お酒を欲した僕は新橋に向かった。新橋の細い路地を適当に歩いている
と焼き鳥の香ばしい匂いを漂わせる小さな焼き鳥屋さんが目についた。それはあの日、僕の
家から人骨が見つかった日に、入ることができなかった焼き鳥屋だった。
そこの暖簾をくぐると、頭に白いタオルを巻いた中年の男とその父親くらいの年齢の男
がカウンターの奥にいて、中年の方が「いらっしゃい、空いてるとこにどうぞ」と言ったの
で、僕はカウンターの一番奥に座った。カウンターには七つの椅子が並び、あとは小さなテ
ーブルが二つあった。上から、「テンチョウネギマジャナクテウズラダヨ」と言いながら外
国人訛りの若い女性が降りてきたことで、どうやら二階にも席があることが伺えた。
「チュウモンハ」
と若い女性店員が僕に言ったので、僕は生ビールと漬物とモモ三本を頼んだら、焼き鳥はセ
ットでしか出せないと言われたのでオススメのセットを頼んだ。
生ビールはすぐにやってきた。そのビールを飲みながら僕はカウンターの中にいる二人
を観察した。中年の男はよく話したが、もう一人は全く話さなかった。彼と他の会話から、
どうやら二人は親子で、喧嘩中なのだということが伺えた。父親の方は、棺桶から起き上が
って出てきたような、しわくちゃで血色も悪く、無表情でただ焼き鳥を焼き、注文の入った
お酒をせかせかと作っていた。それはもう機械化された動きで、何十年も同じことをしてき
たので頭で何かを考えるでもなくただ機会のようにその身体を動かしていた。焼き鳥を焼
きながら飲み物を作るので焼き鳥が焦げないのかと心配になったが、絶妙なタイミングで
焼き鳥を網から取って皿に移した。息子の方はというと、その横で客と会話をしながらその
他のつまみを作っていた。
息子が漬物と焼き鳥やうずら、オクラが乗った皿を僕に手渡した。多分話しかけずにはい
られない性分なのだろう。彼は僕に話しかけてきた。
「お兄さん一人なの?」
「はい。残念ながら週末一緒に過ごす人もいないもので」
「あらそう。よくこんなフル汚い店選んだね。うちのお客さんはだいたい昔からの常連だか
ら嬉しいよ」「フル汚いみせ」と言った時、父親が少しムッとした表情をしていたので僕はこう返した。
「いやいや。普段行くチェーンの居酒屋なんかはどこにいってもおなじような感じでつま
らないんですよ。だからこの店のように歴史や人の温かみみたいなものを感じられる店は
好きです」
「兄ちゃん、嬉しいことを言ってくれるね。ああそう、そういえば今日あんちゃん来るんじ
ゃないかな。土曜日よく来るから」
「あんちゃん」
僕は唖然としてその名前を繰り返した。「あんちゃん」という言葉を最後に口にしたのはも
う数年前のことだからとても不思議な感覚に陥った。
「うちの常連なんだけどね。多分お兄さんと同じくらいの年なんじゃないかな。結婚したい
って喚いてるけど、うちなんかにきてちゃみつからないよって毎回言ってんの。お兄さん、
どうかな。ははは」
僕は無意識に胡瓜の漬物を口に運んだが、味は感じられなかった。これもまた久しぶりの
感覚であった。人生生きていると信じられないようなことが起こるもので、生き別れた双子
が偶然恋に落ちるとか、リストラにあってなけなしの金で宝くじを買ったら見事当選する
とか、それらは起こるべくしてもうあらかじめ決まったこととして起こったのか、それとも、
自らの行動や選択の後に起きたことなのか、それは定かではないものの、予想だにしなかっ
た事が起きるもので、だから人は希望を持つことができるのだろうと思う。これからやって
くるかもしれない女性が彼女の生き写しのようであったらどうしようと、僕は妙な期待を
胸にゆっくりと机に置かれたものたちを口に運んだ。
軽く飲んで帰るつもりがそうはいかなくなった。注がれたビールを眺めながら母が死ん
だあの日のビールを思い出していた。あの日まるで異世界のもののように感じられたこの
飲み物は、水のように当たり前の飲み物と化していること、この飲み物に多くの人々が魅了
されているということ、そんなことを考えた。ビールの味が美味しいから飲むのか、果てま
た「ビール=仕事終わり」というような、良い記憶と結びついた飲み物だから皆こぞって仕
事終わりに飲むのか。そんなことを考えながらぼんやりとしていた。
「兄ちゃん兄ちゃん、ちょっと横にずれてくれるかな。あんちゃんがきたよ」
息子の声でハッとした僕は椅子を横にずらした。横に来たあんという名の女性が僕の顔を
見て「どうも」といった具合に微笑み軽く会釈をした。その女性は彼女と同じ目をしていた。
思わずその目に、その瞳に見入ってしまった。するとその女性の横からひょっこりと男が顔
を出して同じように会釈した。
「せっま」と男が言うと、その女性は「ごめんね」と言った。なぜ彼女が謝らねばならない
のか。腑に落ちずにイライラしたのでビールを飲み干して焼酎を頼んだ。そのあとの会話も
腹癒せの悪いものだった。
「ってかさ、マジでヤバいんだけど。多分この四月で昇進するのに明日のプレゼン上手くい
かなかったら俺もう会社辞めるわ」と男が言った。
「どうせ辞める勇気なんてないくせに」と僕は心の中で思った。
「それでもやめられないでしょ?会社のエースだし。辞めるなんて言っても誰もやめさせ
てくれないでしょきっと」
「まあね。でもまあ、いずれは起業する気だからさ。とりあえず呑みなよ。今日はとことん。
ビール二つと適当に焼き鳥ください」
「はいよ。あんちゃん。今日は珍しいね、一人じゃないの」
息子は一度も男と顔を合わせずにその女性に話し掛けた。
「いつも一人ぼっちなわけじゃないのよ失礼ね」
「そりゃ失礼」
と息子がビールを出しながら言った。
「ってかさ、あんちゃんこんなところ来るんだね。イメージと違うわ」
男がそう言ったので僕は父親の方を見た。やはりムッとした顔をしていた。
「そうかな。こういうところの方が落ち着くのよ私。蓮くんは高級レストランばっかり行っ
てるから分からないかもしれないけど」
気付くと僕のグラスは空になっていた。
「すみません。同じのをもう一杯」
「呑むねえ、兄ちゃん」
息子は少し嬉しそうに言った。
「まあたまにはいいよね。こういうフル汚いところも。俺古い文学とか好きだし」
「え?蓮くん本読むの。ビジネス系とか自己啓発本ばかりかと思ってた」
その女性は少し興奮気味に聞いた。
「まあそりゃね。カフカの『誰のために鐘は鳴る』とかいいよね」
その女性は少しうつ向いて微笑した。僕は出された焼酎を受け取り妙な苛立ちを納めるた
めに少しずつそれを呑んだ。それから彼らの会話はずっとそんなような調子で、僕はムカつ
くたびに酒を呑んだ。彼らも結構なペースで呑んでいた。
「次、何にする?強いの飲む?」
男はいかにも下心満載という感じでその女性に聞いた。彼の手はその女性の腰を触ってい
た。
「いや。今日はもういいかな。ありがとう」
「そっか。じゃあ行こっか。タクシー呼ぶから一緒に帰ろう。すみません。お会計で」
「まだ電車間に合うし一人で帰れるから大丈夫」
その女性はそう言って伝票を手に取った。
「あんちゃんはこう見えて酒に強いから大丈夫。休んでいけばいいさ」
と息子が言った。
「いやいや、僕ら、分かりますよね、おじさん。店員がいちいち口出さないでください。お釣りはいらないんで。じゃあまた」
男はその女性の腕を掴んだ。
「私終電で帰る。それまで少し時間があるからここで休んでからいくね。今日はありがとう」
「いやいやいや。今日全部奢ったの誰だと思ってんの。早く行くぞ」
酩酊の末、無理やり立たされたその女性の腕を、僕は掴んだ。
「カフカじゃなくてヘミングウェイ。『誰のために鐘がなる』じゃなくて『誰がために鐘が
なる』なんですけど」
ずっと無口だった父親が声を荒らげて笑った。その女性も笑った。
「は。意味わかんないんだけど。あんた誰」
男は顔を赤くして言った。その女性は財布から三万円を取り出して男のポケットに突っ込
んだ。
「別に奢ってほしいなんて言ってない。帰ってくれる?」
その女性がそういうと男は店から逃げるように走り去って出て行った。
「恥ずかしいところ見られちゃった。今度こそいい人見つけたと思ったのに」
「あの男はダメだ。最初に入ってきた時から気に入らなかった」
と息子が言った。
「完璧なツッコミをありがとう」
その女性は僕にお礼を言った。
「いやいや。首を突っ込んですみませんでした」
と僕は目を合わすことなく答えた。
「本、よく読むの?」
その女性は僕の目を見て聞いた。
「昔はよく読んだけど、働き始めてからはあまり読まなくなったかな。現実世界のことを考
えるので精一杯になったから」
「てことは、昔はあまり考えずにすんだんだ。私の人生はもう常にトゲトゲの山道だから現
実逃避するために本読んだり旅に出たり。まあ最近はそのトゲトゲもさほどトゲトゲしな
くなったけど。意味不明だね。」
「いや。僕の人生もまあもしかしたらそんなものかもしれないけれど。僕がそのトゲトゲの
痛さを感じなかったんだ」
「なるほどねえ。まあお母さんが昔の昔に死んで、最近病気だったお父さんも死んで、やっ
と自由になった感じ。自由になったらなったで何していいかわからなくなって」
「「自由の刑」って確かサルトルが言ったんだ」
「自由すぎてもそれはそれで苦しいってねえ。まあでも旅はいいよ。ああこんな世界もある
んだ、とか、ああこんな生き方してるひともいるんだ、とか。自分の世界を広げると色々な
悩み事や問題が小さくなっていくの。もともと小さすぎるのは消えるしね」
「旅、か。僕は日本どころか関東圏を出たことはないと思う」「嘘。来週空いてる?台湾あたりにでも行こうよ」
「え。本気で言ってるの。僕仕事あるんだけど」
「うーん、何のために仕事してるの」
「他にやることないからなんとなく」
「お金は持ってる?」
「まあ持ってるけど」
「じゃあ辞めなよ。他にやることできたしお金もいらないんだから。私も辞めたの。先月。
お父さんの看病しなくてよくなったしお金もってるし」
「わかった」
***
月曜日、僕は退職届を出した。会社は別に僕がいなくなったとしても僕の代わりなんてい
くらでもいるという風だった。大きな会社で割と人の出入りは頻繁にあったからみんな慣
れっこだった。僕でなければならない居場所を見つけ出すのはとても難しいことなのだと
つくづく思った。僕には息子というポジションはもうないから、自分で探し出して作らない
限りは、僕はあまり意味のない存在なのだと思った。生きる意味は自分で見出すものなのだ
と、生きる意味を探すことがまず最初の人生の意味なのだと思った。意味がないというのも
気楽で良いものだとも思った。
流石にすぐに辞めることはできなかったが、退職届を出してから二週間後、僕は会社に行
く必要がなくなった。それからパスポートを受け取りに行ったりなんだりして、僕は羽田空
港で彼女と会った。出会ってからまだ三十分ほどしか話していない女性と、僕は海外旅行に
行く。帰りの航空券は彼女に買うなと言われたから買ってない。帰りたくなればその時に帰
ればいいというのが彼女の言い分だった。
「おはよ。パスポートと航空券、それからお金、持った?」
「うん」
「完璧だね。とっととチェックインしちゃおう」
彼女に言われるがまま、僕は荷物を預け、手荷物検査を受け、そしてボディチェックを済ま
せた。僕の真っ新なパスポートには出国のスタンプが押された。
「まだ出発まで二時間くらいあるからラウンジで呑もう」
僕らはラウンジでひたすらビールを飲んだ。客のほとんどは如何にも出張という感じのサ
ラリーマンらしき人がほとんどだった。結構ほろ酔い気分で飛行機に乗って、あっという間
に台湾に着いた。
日本とは違う独特の空気感が漂っていた。彼女がよく泊まるのだというホテルに向った。
彼女は一部屋しか予約していなかったから僕らは同じ部屋だったが、何の気まずさもなく
僕らは部屋に入った。「夜市行こうよ。おなかすかない?」
「うん」
僕には夜市というところがどんなところなのか想像もつかなかったけれど、お腹は空い
ていたので彼女に賛成した。ホテルからタクシーに乗って十分くらいで夜市に着いた。なん
ともエネルギッシュな空間で、人は食べることに必死だった。必死に作り必死に食べる。食
の原点を見た気がした。テーブルマナーなんてものはなく、ただ人々は食べるという行為に
没頭する。実に様々なものが売られていた。大きなフライドチキンや鼻をつく臭豆腐、様々
な食べ物が売られていた。以前の僕では楽しめなかったであろう。僕たちは色々なものを買
ってビールを片手に食べ歩いた。
「ねえ、こんなところまで連れ出しておいてなんだけど、あなた名前は?」
「ああ、白崎賢人。君はあんちゃんだよね。焼き鳥屋さんでそう呼ばれてた」
「賢人くん。ああ、そう。道山杏です。まさか本当に仕事辞めちゃうなんて。びっくりした」
「妙に説得力あったからね、君。人生は何が起こるか分らない。だから人は希望を持てるん
だ。希望がなければみんな迷っちゃうから」
「賢人くんも求めてたの?希望」
「うーん、どうだろう。僕はいっそ迷ったまま、苦しんだままでいいと思ってたかな。幸せ
になれるなんて思ってないから。どんな幸せな環境があったとしても僕は闇にいないと逆
にもっと苦しむことになるんだ。意味不明だろうけど」
「なるほどね。私も夜が好き」
「僕も夜が好きだ」
「そろそろ帰ろっか。私まあまあ呑んだし疲れちゃった」
「そうだね」
僕たちはタクシーをつかまえてホテルに戻った。部屋につくと彼女はベッドに横たわっ
た。僕はそのまま深い眠りについた。
翌朝、僕は彼女に起こされた。
「ねえ、そろそろ起きてよ。朝ごはん食べに行こう。その前にシャワーしてきなよ」
「ああ、ごめんごめん。もう朝か。シャワー浴びてくるよ」
僕はシャワーを浴びながら夢の中で彼女とキスをしたことを思いだした。現実であったと
言われればそんな気もした。
シャワーから上がるともう待ちくたびれたという感じで彼女が待っていた。僕は急いで
靴を履いた。朝食はビュッフェスタイルで、食べたことのない食べ物がたくさんあった。朝
食を食べながら僕らはどこに行くか話し合った。僕はお寺に行きたいと言って、彼女も賛同
したので僕らは龍山寺に行くことにした。
お寺は多くの人で溢れかえっていた。皆お経を懸命に唱え、そのお経は歌のようであった
ので、お寺中の人々が合唱をしているようだった。なんとも言えない重く深い空気が漂って
いた。日本のお寺とは大きく違っていた。皆必死にその信仰心と共に何かを祈っている。もう何十年も通っているように見受けられる老婆の顔は、祈りの際に顔にグッと力を入れる
せいか、顔のシワはより一層深く刻まれているようだった。日本人の観光客はその様子を撮
影している。僕らは一言も話すこと無く、ただその空間に身を委ねていた。この神聖な空間、
異次元のような雰囲気が僕を包み込み、僕はここに来られただけでも台湾に来て良かった
と、そう思った。世界にはまだまだ僕の知らない世界があって、僕はまるで井の中の蛙とで
もいうような、まるで無知でナイーブな存在であったということを強く痛感した。
ふと彼女を見ると、彼女は線香の煙の行先をただただ見つめていた。彼女の瞳もまた、全
てを見透かしたようなそんな瞳をしていた。僕は盲目に等しいのだと、そう思わせた。
「そろそろいこっか。適当に繁華街をブラブラしよう」
と大きく深呼吸をして彼女が言った。
「そうだね。行こう」
僕はその後、ただひたすらに彼女の後を着いて行った。昼食を取り買い物をした。彼女は
お茶や翡翠に興味があるらしかった。「これは長寿のお茶だ」といわれものすごく高価なお
茶を即決で買ってていたし、幸運を呼び込むと言われた翡翠もまた即決で買っていた。
「君はなんか、これを飲むと長生きするとか、これを持っていると幸せになれるとか、そう
いう類のことは信じない人かと思っていたよ」
僕がそう言うと彼女はくすりと笑って答えた。
「まだ私のこと全然知らないくせに。でも、信じてないよ。ただ欲しかったから、というか
ただ買いたかったから買っただけ。いつ死ぬかなんてすでに決まってるだろうし、幸せにな
りたいとなんて思ってないし」
「幸せになりたいと思わないの?」
「あなたも思ってないんでしょ。幸せになったらなったで、その幸せを失うことへの恐怖と
闘うことになるわけだから。失うものもなければ失いたくないものもない。そういうのがい
い。誰かに幸せにしてもらいたいとか、誰かを幸せにしたいとか、そういうのも全くないわ
け」
「なるほどね。じゃあ生きる意味って考えたことある?何のために生まれて、何のために
生きるのか」
「ないよ。ただそういうのがないと、時間が過ぎるのがものすごく遅い。でもこの世界を知
りたいとは思う。何故だか分からないけれど、自分が生きているこの世界のことを、知りた
い。だから色々なところにフラフラと行くんだと思う。なかなか良い人生でしょ。失うもの
も、大切なものも、何にもなくて、いつ死んでも良くて、自由気ままに生きる」
「とてもいいね。とてもいい。僕にも何もないな。失いたくないものなんて。でももし仮に、
君のことを好きになって、君がその、失いたくないものになったらどうしよう。君が僕の生
きる意味になったら、どうしよう」
「そうなったらそうなったで、その時の自分がどうするのか決めるからいいのよ。流れに身
を任せていれば。人の考え方なんて、人の感じ方なんて、人の想いなんて、簡単に変わっちゃうんだから。ただその時その時に正しいと思うことをしていればいいのよ。深く考えても
答えなんて見つかりっこない。決めるのは無意識の自分。頭で考えて決めたって、本当の自
分との乖離に耐えきれなくなるだけ」
「きみはなんでも知っているんだね」
「これが正解かなんて分からないけどね。小籠包を食べに行こう」
「いいよ」
僕たちはとても高いビルの中にあるレストランに入った。恐らく一時間は待った。待って
いる間、僕は桜木町でのデートを思い出した。思い出すと言っても、思い出せることはほと
んどなかったけれど。今のこの状況を見て、彼女はなんと言うだろうかと考えた。皆目検討
もつかなかったけれど。席に着くと彼女が適当に頼んでいた料理が次々とやってきた。「ち
ょっと頼みすぎじゃないか」と僕が言うと彼女は、「あなたが何を食べたいか分からなかっ
たからとりあえず色々と頼んだ」と言った。僕たちはただひたすらに食べた。まるで一週間
何も食べていなかったかのように、育ち盛りの子豚のようにたくさん食べた。彼女は笑って
いた。僕も笑った。
この世界の見え方、感じ方、考え方、捉え方、そして人生。それらは人との出逢いによっ
て大きく変わる。僕は生きようと、そう、思った。