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三つの色の恋愛譚  作者: 深水千世
第三部 琥珀色の明日
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第10話 無伴奏が教えてくれたもの

 文音がバイオリンを持ってきたのは、凛々子さんの葬式から一週間ほど経った頃だった。俺の部屋のテーブルに置かれたバイオリンは、紛れもなく凛々子さんの愛器だった。彼女は俺の顔をじっと見て、こう言った。


「ひいばあちゃんのバイオリン、澪が持ってて欲しいの」


「どうして?」


 正直、嬉しいよりも尻込みしてしまう。そのバイオリンの価値を俺は知っていたし、俺には自分の楽器がある。だが、文音はにっこり微笑んでいた。


「お父さんもお母さんも、そのほうがいいって。バイオリンを弾けるのは澪だけだし、それにひいばあちゃんも喜ぶって」


「だって、もらえないよ」


 だが、文音は頑なだった。


「ううん。これはひいばあちゃんのためでもあるから。だって、この楽器と澪を大事にしてたもの」


 そう言われると、ぐっと言葉に詰まる。部屋の隅に置かれた自分のバイオリンケースを見やって、俺はふと思いついた。


「わかった。引き受けるよ。だけど、条件があるんだ」


「なぁに?」


 きょとんとする文音に、俺はニッと笑う。


「俺のバイオリンと交換しよう」


「えぇ? じゃあ澪のバイオリンは誰が弾くの?」


「文音が弾いて」


 彼女は「えぇ!」と素っ頓狂な声を上げた。すぐに首をぶんぶん横に振る。


「私、バイオリンなんて弾けないよ?」


「だから、俺が教えてやるよ」


「......澪が?」


「うん。俺、ずっと思ってたんだ。文音はどうして凛々子さんみたいにバイオリン弾かないのかなって」


「だって......」


 文音が黒い瞳で床を見た。


「ひいばあちゃんには敵わないもん」


「そんなの、やってみなきゃわからないよ。凛々子さんを越えるかもしれない。それに、俺はバイオリンを弾く文音が見たいな」


「......本当?」


「うん。それとも、俺が先生じゃ嫌?」


 文音の顔がパッと赤くなる。


「......ううん! 嬉しい!」


「じゃあ、決まり」


 俺は笑みを浮かべて、自分のケースを彼女に差し出した。俺、ずっと思ってたんだ。文音がバイオリンを弾いたらいいのにって。凛々子さんによく似た音色が出せるとしたら、きっと俺ではなく文音だろうって。


 俺はそっと凛々子さんのバイオリンを取り出した。彼女よりももっと長生きなイタリア生まれ。ふと、文音がわくわくした顔で俺にすがる。


「ねぇ、澪。何か弾いて」


「......あぁ。そうだな」


 俺はふっと笑って、肩当てを持って来た。文音の何かねだる顔は、大地君そっくりだ。調弦してから、俺はそっと弓を構えた。バッハの『無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ』が、俺と文音を包んだ。この曲を弾く凛々子さんに憧れて、俺は弓を握ったんだ。

 和音を携え流れるのは慕情だ。トリルが繋ぐ物憂い旋律に、俺は祈る。どうか彼女がいつまでも共にありますように。俺の中でいつまでも、澪つくしとして生き続けていられますように。切に願うよ。だから凛々子さん。

貴方のいない移りゆく時を、俺は懸命に生きていくよ。だって、また時が流れれば、新しい流れが生まれる。そうやって、凛々子さんも生きて来たんだから。


 ビブラートをかけた最後の和音が消えたとき、俺は文音を見やった。彼女は小さく拍手し、眩しそうに俺を見ていた。


「澪、なんだか穏やかになったね」


 俺は思わず息を呑んだ。その笑みが、本当に綺麗だったから。今までのあどけなさが影を潜め、俺の胸を締め付けた。


「文音......お前、なんか変わったな」


 そう呟いた俺は、思わず声を上げそうになった。彼女が、ふっと右の眉を吊り上げたんだ。そう、まるで凛々子さんのように。


「多分、恋してるからね」


 彼女の口調は紛れもなく、あの人に瓜二つ。


「......文音」


「なぁに?」


「凛々子さんに似てるって言われる?」


 すると、彼女はきょとんとした後、笑みを浮かべた。


「今更気づいたの?」


 俺に歩み寄った彼女が、目を細めた。その顔はいつもの無邪気なものではなく、紛れもなく女の顔だった。


「ひいばあちゃんには敵わないと思ってたけど、負けないんだからね。だって、私は澪が大好きだから」


 頭が真っ白になった。言葉を失う俺に、文音がキスをした。


「......どうして俺なの?」


 いつもの問答のつもりじゃない。ただただ、口をついて出た。文音がそんな感情を隠してたなんて、思いも寄らなかった。彼女は笑う。


「わかんない。だって、好きって思う心は一言で表せるほど単純じゃないでしょ? でも、気持ちには勝てないから」


 なんだ、ここにいたんだ。バイオリンを置いて、そっと文音を抱き寄せた。もし、文音の答えがあのスフィンクスの答えと違っていても、構わなかったかもしれない。だって、俺を穏やかになったと言ったあの顔を見たとき、もう心を奪われていた気がしたから。あの答えがなくても、きっと俺の胸はいずれ文音のために踊っていただろうから。

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