どこにでもいそうで、誰よりも狂った男。
「どうして、彼女を殺そうとした?」
刑事という職業に誇りを感じながら働いている稲田にとっても、この言葉を吐く時はいつも暗澹とした気分になる。
刑事ドラマならさておき、実際の取調室に窓はない。電気スタンドもない。今ここにあるのは、殺風景な部屋に似つかわしい簡素な机と劣化したパイプ椅子。あとは持参したノートパソコンと被疑者に関する資料。
そして、その被疑者は稲田の目の前で、まるでこの部屋に元々存在していたかのように俯いて座っている。
「答える気がないのか?」
ちらりと、稲田は手元の資料に目をやる。
――被疑者名・佐藤大輔。22歳。大学生。容疑は、殺人未遂。
「あ、いえ、違いますよ! ちょっとなんて言葉にすればいいか分からなくて……」
渋谷のハチ公前で急にインタビューを求められたかのような口調で、佐藤は答えた。
稲田は重い溜息をつきながら、少し錆びついたパイプ椅子に座り直す。キィ、と寂しげな音が鳴る。空気は冷たい。
――佐藤くんはあまり目立たなかったですけど、こんなことするような人には思ってなかったです。だって普通だったし。
だって“普通”だったし。稲田の頭の中では、佐藤が所属していたゼミの女子学生から聞いた言葉が反芻していた。
「……分からないことはないだろう。人間の行動には全て理由がある。嫌いだったから虐めた。好きだったから告白した。思いがあって人は動くように作られているんだ。答える気があるなら言語化しろ」
「そんなこと言われてもなあ。分からないものは分からないんですよー」
難しい数学の問題が書かれた黒板の前に立たされてしまったかのような口調で、佐藤は答えた。
その様子を、稲田は探るような目つきで見つめる。
大学で聞き込みを行って分かった事実として、被害者の女性と佐藤は恋愛関係にあった。
女性の事情聴取は、自室でナイフによって胸を切り付けられた被害当日の興奮冷めやらぬまま、彼女の入院する病室で行われた。
――前日に、大輔とは別れ話をしていたの。その時は“普通”な様子だったのに、まさかあたしを殺そうとするなんて!
痴情のもつれ。
刑事である稲田にとっては、嫌でも聞き慣れてしまった言葉だ。
それでも、その言葉だけでは片づけられない何かが、佐藤にはあった。刑事生活20年の勘なんて大それたものではないが、言葉の裏にある彼の異質性に気付けないなら、自分が刑事でいる意味がない。
佐藤が軽い調子で口を開く。
「そうだなあ。強いて言えば、その時はそれがベストだって思ったんですよね」
「……ベスト?」
誰にとってのベストだ、それは。
稲田の胸中が聞こえたのかどうかは分からないが、佐藤は続ける。
「ええ。僕にとって、そして彼女にとってもね。なんでだろうなあ」
「……なんにせよ、君は人一人を殺そうとした。その理由が分からないうちに、この取り調べを終えるわけにはいかないね」
「そうですよね、お仕事ですもんね。刑事って大変だなあ……」
言った途端、佐藤の顔がパッと明るくなる。まるで大切な捜しものが見つかったかのように。
「そうだ! あの日の前日、彼女とは喫茶店で話をしていたんです。お恥ずかしながら別れ話……俗にいう修羅場ってやつですね。その時のことを思い出せば、稲田さんなら理由が分かるかもしれません」
◇
「大輔、私と別れてほしいの」
「え、なんで?」
随分と素っ頓狂な声が出たな、と佐藤は自分を俯瞰していた。
時刻は夜9時を廻っており、駅近くの喫茶店にはもう自分たちを含めて数組の姿しかない。そのため周りに気を使う必要はなく、声のトーンは自然と大きくなる。
「あなたは見た目で言えばあたしのタイプだったし、人当たりも良い。勉強はそれなりだったけど、それを引け目に感じたりしない。そんなあなたに惹かれて告白したのはあたしだったけど、もう我慢の限界。あなたといる時間は退屈なの」
「そうだったの? この前一緒に行った水族館だって、楽しかったって言ってたじゃん」
「そういうことじゃないの。あたしはね、ずっとこのままの生活が続くと思うと怖くて寒気がするの。大輔、あなたは公務員になるのよね?」
「うん。市役所で働くよ」
「安定しているからって理由だけで公務員を目指してるあなたを見て、あたしはこのままじゃいけないなって思ったの。夢もないし、野心もない。そんな自分で満足しているあなたを見てると吐き気がするわ」
「随分な言われようだなあ」
佐藤は苦笑した。それでも、どこかで他人が言われているような感覚は抜けない。
目の前では注文したブラックコーヒーの表面が、時間が止まったように凪いでいた。
「それじゃあ、君はこれからどうするの?」
「あたしは海外に留学する。もっと広い世界を見て、あたしの知らないあたしを知ってみたい。日本なんて小さな国じゃなくて、外の世界で自分がどれぐらい通用するのかやってみたいの」
「へー、それはすごい」
それはすごい――“普通”だね。愛すべきほど、普通だね。
佐藤は自分の中に感情が落ちていくのを感じていた。その感情は曖昧な形のままだったが、ゆっくりと佐藤の中を巡り、黒く染め上げていく。その色は佐藤にとって、まるで生まれたままの姿であるかのように心地の良いものだった。
――こんなにも普通なのに、勿体ないな。
「……じゃあね大輔、もう会うこともないわ」
去っていく彼女の姿を見送りながら、佐藤はおもむろにコーヒーに口をつける。喉を締め付ける苦さを感じながら、それを体に染み渡らせるようにゆっくりと飲み干した。
◇
「……君は本当に、彼女を愛していたのかい?」
場所が場所なら恥ずかしくなる台詞だと感じながら、稲田は訊ねた。
佐藤は少し不意を突かれたかのように固まった。が、すぐにいつもの調子に戻る。
「そんなの当たり前じゃないですか! “普通”と同じぐらい、僕は彼女を愛していました」
「普通と同じぐらい?」
今度は稲田が虚を突かれ、思わず聞き返してしまう。
「ええ。良くないですか? “普通”。自分の中に確固たる芯がないと、何かと比較しなきゃ形作れない普通なんてものは生まれません。それは自分が自分である証拠なんです。だから僕は普通が好きだなあ……。いや、そうか。彼女が“普通”だから、僕は彼女を愛していたのかもしれません」
自分の言葉を噛み締めるように、佐藤は小さく頷いた。
「……稲田さんは、ご結婚されてますか?」
「プライベートの質問には答えない」
「まあまあ、そこをなんとか!」
今度は友人に宿題を見せてもらいたいような口調だ。
「……してるよ。8歳と5歳の娘もいる」
「いいですねー、可愛い盛りだ。これぞ日本の幸せな家族って感じですね! いいなあ、“普通”だなあ」
佐藤の言葉に、稲田は苦笑せざるをえない。
それでも、その一つ一つの言葉を聞くたびに、靄がかかっていた佐藤という人間の本質が、くっきりと輪郭を持って現れてくる。
稲田は佐藤の真意を確かめるべく、言葉を紡ぐ。
「……日本の人口は約1億3000万人。そのほとんどが殺人未遂なんてものとは無縁に生きて死んでいくんだ。君のやったことは、普通とはかけ離れているんじゃないのかい?」
少し間を置いて、佐藤は口を開く。その間は、自分の中にある感情を咀嚼して味わっているようだった。
「それは人間同士の場合だけですよ、稲田さん。人は自分の生活のためだったら、動物も植物も殺して生きているんです」
そんなの、僕にとっての普通じゃないなあ――と佐藤は笑った。
その言葉を聞いて、稲田の中で欠けていたピースがパズルのようにピタリとはまった。
彼の行動には共感なんてできるはずもない。それでも――
「少し、君のことが分かった気がするよ」
稲田は席を立ちながら、はっきりとした口調で佐藤に語り掛ける。これまでの笑顔が佐藤の顔から消える。
「さっき君は、自分の中に確固たる芯がないと普通なんてものは生まれないと言ったね」
「ええ」
「その通りだと思うよ。君はとても純粋で、誰よりも確かな芯がある。そういう意味で言えば、確かに君は普通なんだろう」
だからこそ――佐藤にはそれ以外の尺度がない。自分の中にある物差しが全てで、単位の違う他人を測ることができない。
「佐藤くん。――君は彼女を殺せば、彼女が喜ぶと思ったんだね」
「……ああ、そうか。そうですね。だって彼女は『普通が嫌だ』って言ってたんです。彼氏に殺されるなんて、彼女にとって最高に“普通”じゃないでしょう?」
何が間違っているのか分からないというように、佐藤は稲田の顔を真っ直ぐ見つめていた。
◇
稲田が取り調べ室を出ると、スマートフォンに一通のメールが届いていた。稲田の妻から――いや、正確には元妻からだった。
『さきほど離婚届を出してきました。子どもたちとの面会日は追って連絡します。』
業務連絡のような簡潔な文章に、気分が悪くなる。投げ捨てるようにスマートフォンをポケットに入れ、窓の外に目を移す。赤い夕暮れ。そろそろ夜になる。
――これぞ日本の幸せな家族って感じですね! いいなあ、“普通”だなあ。
佐藤の言葉を思い出す。彼に、自分はどう見えていたのか。
そして、そもそも自分に佐藤はどう見えていただろうか。
彼はどんな格好をしていた? どんな髪型で、どんな髪色で、どんな目の色をしていた?
10人に聞けば10人が佐藤を違う人間のように表現するのではないかと、稲田はぼんやりと考える。
「普通、ねえ」
稲田の呟きは、夕日が地平線へ溶けていくように、形にならないまま消えていった。