カトラリー
質素な部屋で女が一人、カトラリーを磨いていた。
どれもが二つ揃って並べられ、女はそれをずっと、磨いていた。
銀のカトラリーは使い込まれているのがわからない程綺麗な光沢を放って、女を映す。
一通り磨き終えた女は静かにカトラリーを戸棚へ戻し、次は皿を取り出して一枚一枚、また磨いていく。
ことりと彼女が皿を木のテーブルへ置く度に。
ぎしりと彼女が古びた床を鳴らす度に。
彼女は、ひとりであることを実感する。
二組のカトラリー。並ぶ皿の数々。反対側の空いた空間。
自分を必要とする者はいなくなった。自分は残された者だとも薄々気が付いていた。
おはようと笑い掛けてくれるその顔が、ありがとうと伝えてくれるその声が、おやすみなさいと、扉の向こうに消えていく姿が。
もうずっとないことも、気が付いていた。
それでも自分の仕事はカトラリーを磨き、食器を磨き、部屋を綺麗に維持することだけ。
いなくなってしまった彼らの事情を考えるのも、消えてしまった温もりを追ってしまうのも、本来はしてはいけない。
だから彼女は磨き続け、いつか帰ってくる二人を出迎える為に、部屋を維持する。
けれどそうして、そうやって過ごして、どれ程時間が経っただろうか。
最近は身体の動きが重いし、関節が軋むし、寒さが良く染みる。
せめて、一目だけでもお二人を見れたのなら、それで充分なのだけれど。
彼女はそんなことを思って日々を過ごす。
ある日のことだ。
いつも通りカトラリーを磨いていた彼女の元を、一人の人間が訪れた。
その人間は彼女を見つけたことをとても喜んで、彼女を自分の国へ連れ出そうとした。
けれども彼女が頑なに持ち場を離れないもんだから、人間はついに諦めて、彼女が少しでも良くなるようにと手入れを施してくれた。
「これでもう少し動けるだろう」
人間が用意してくれた薬は確かに良く効いた。重かった身体の動きも、痛んだ関節も、少し楽になった。
「お前、またそうやって身体を酷使して……」
白髪の男はたまに、彼女の元を訪れるようになる。
「近々戦争が始まるんだってよ」
「俺はもうこんな年だから、関係ねえけど」
そんな日常会話を携えて、男は彼女へ薬を渡し続ける生活が暫く続いた。
しかし。
「もう、ここには来れないかもしれん」
と、男は悲しいニュースを告げにやって来た。
外は雪が積もり、老骨の身体には確かに少々辛い道中であろう。
彼女はそんな男へ文句を言うこともなく、カトラリーを磨き続ける。
相変わらずだと笑った男の姿を見たのは、その日が最後だった。
それでも、彼女の日々は変わらない。
カトラリーを磨き、食器を磨き、部屋を綺麗にする。
だけれど最近、磨いても磨いても綺麗になっている気がしないのだ。
いつも通りやっているはずなのに、と疑問に思う彼女だったが、どうすることも出来ないのでまた同じように磨く。
さて、そんな彼女の元へ、また訪問者が現れた。
今度は少年で、何処と無くもう訪れることのないあの男に、似ている気がした。
「君がそうか。ほら、今度は僕が代わりに手入れをしてあげる」
彼女の擦りきれた手を取って、少年は男と同じように彼女へ薬を塗る。
「僕では……治してあげられないけど」
彼女のぼろぼろの身体を、少年は悲しそうな眼で見つめた。
彼女は何故少年がそんな眼をするのかが理解できない。だから、少しだけ動きの良くなった身体で、少年が渡してくれた布で、またカトラリーを磨くのだ。
「君はいつからここにいるの?」
「ここから、移動した方がいいよ」
「ねえ」
少年が気を遣って彼女をここから連れ出そうと目論み、どれだけ外の世界が素晴らしいか諭しても、ここにいては死んでしまうだけだと告げても、彼女はカトラリーを磨く手を休めない。
「こっち、使いなよ」
いつしか、青年は諦めた。
やはり彼女がしたいようにさせてあげるのが一番だろうと。
青年がまた、彼女に新しい布を与える。
この青年が布を渡してくれると、カトラリーがいつもより綺麗になる気がする。彼女はそれを喜び、またカトラリーを磨き始めた。
「もう、ここには来れないや」
ある日のこと。
赤い紙を握り締めた青年が、彼女に別れを告げに来た。
「君も本当は……」
部屋の掃除をしていた彼女を見下ろして、青年は言い淀む。この言葉を言ったところで、彼女には伝わらないだろうから。
「じゃあ、ね」
寂しいとも、悲しいとも、切ないとも、言えぬような顔で、少年は玄関の扉を閉めた。
そして言葉通り、青年がここへやって来ることは、なかった。
再び誰も訪れることがなくなって、彼女はまた静かにカトラリーを磨く日々が戻ってくるのだと思っていた。
しかし空が騒がしくなったり、外の街がやけに明るくなったりと、変化が絶えない日が多くなった。
それでも変わらず彼女はカトラリーを磨き、食器を磨き、部屋を綺麗にするだけなのだが。
「お?こんな所に扉があるぜ!」
そんな彼女の日常が壊される日は、唐突にやって来た。
鎧に身を包んだ異国の人間。
扉を開け入るなり彼女を見つけると、思いっきり蹴飛ばした。
「んだよ、邪魔だな」
扉の近くにいたから、邪魔だったから。それだけで、彼女は蹴飛ばされ、踏みつけられ、足蹴にされる。
「こんな洞窟に扉があっからなんかあんのかと思ってたが、なんもねえな」
彼女をもう一度蹴った男が、つまらんとでも言いたげに辺りを見回す。
この部屋には何もない。あるのは彼女と、磨いたカトラリーと、食器。
「金目のモンはねえしな、こうでもしとくか」
がしゃんっ、と。
皿が地面に撒き散らかされたのと、テーブルがひっくり返されたのと、どちらが早かっただろう。
テーブルの上に並べられた食器が気に入らなかった男は、なんとなくそれらを地面に捨てた。
彼女は、やめてと叫びたい。出て行ってと、もうしないでと、やめろと、叫びたい。
でも、踏み潰された喉からは音なんか出なくて、引きちぎれた身体では這っても這っても男には辿り着けなくて、男を止める手段を何一つ持たなかった。
「うし、こんなモンか」
男は部屋を荒らし尽くして満足したのか、出ていった。何故か、扉だけは丁寧に閉めて。
最後に、芋虫のように這う、彼女を踏みつけて。
「…………っ、」
彼女の嗚咽は、誰にも聞こえない。誰にも届かない。
崩れた身体で床を這って、大切な食器を、カトラリーを、集める。
「っ、……、…………!」
落ちている布で磨こうとする。
だけど手が、言うことを聞かない。
手が、動かない。
それなら、と彼女は散らばってしまった食器を集めることにした。
少し、部屋が汚れてしまっただけだ。だから、お掃除をしなければ。
随分動きの鈍くなってしまった身体で、けれどもその一心で、彼女は散らばった破片の上を這って、集めて、這って、集める。
そして全ての食器の破片を集めた彼女は、動く部位でカトラリーを並べる。
「…………」
綺麗に並ばない。これでは、怒られてしまうだろうか。
並べ直そうと、彼女は動こうとした。
けれどもう、身体は、動かない。
「………………」
だから彼女は最後の力を振り絞って、集めた破片の上、並べたカトラリーの上に、倒れる。
もしこの後、さっきみたいな異国の略奪者が来ても、このカトラリー達を守れるように。
主さまたちの思い出の品々を、残せるように。
こんな姿では怒られてしまうかもしれないけれど、これがわたしに出来る、精一杯の仕事だ。
彼女は、目を閉じた。
最後まで彼女の視界に映っていたのは、ずっとずっと磨いてきた、とても美しい銀のカトラリーだった。