そして青年は牙を剥いた(8)
これにて1章は閉幕。2章からは冒険していきます。頭のなかにあるデグラバオル帝国はユーラシア大陸とオーストラリア大陸を足して2で割ったような形をしています。海の外にほかの国もあるのですが、とりあえず大陸のなかの話をしていきたいと思います。
お読みいただいて本当に、本当にありがとうございました!
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リヒターにはもう杖は必要なかった。時刻は既に夕刻となり、オレンジ色の光が柔らかに広場を照らしている。
2本の脚で歩いている。先ほどまで青白く輝いていた手足は肌色になり、赤い左目は蒼になっていた。4年ぶりに歩くその足取りは、明らかに体の右側に負担のかかる偏ったものだった。
ニコの亡骸に歩み寄る。死に顔は苦痛と恐怖に歪んでいた。リヒターの両目からは自然と涙がこぼれた。太陽のような笑顔の子だったのに。最後はこんな顔で死んでいくのか。
「ニコ…ごめん…ニコ…」
掠れた声が口から漏れた。口の中がカラカラに乾いていた。血だまりに倒れるニコは、まるで秋の花のように四肢を投げ出していた。
リヒターは見開かれたままのニコの目を閉じると、亡骸を抱き上げた。
そのままゆっくり歩きだす。他にどうしていいかわからなかった。リヒターを避けるように、人ごみは開けた。リヒターが名乗り出たときとまったく同じ。
(とにかくいまは)
今は、ニコを家に帰したかった。
ニコの家にたどり着いたリヒターは、数秒間扉の前に立ち尽くした。
(いまここで、扉を叩いていいのだろうか)
ニコの家族に、この亡骸を見せていいのだろうか。体には大きな穴が開いている。顔は苦悶に満ちている。
それでも、伝えないわけにはいかない。ニコの帰りを待っている家族がいるのだから。ニコを庭先に横たえて、ドアをノックする。
リヒターの母親が出てくる。その目は落ち窪み、生気は枯れていた。
「娘を、連れ帰ってくれたのですね」
リヒターはニコをベッドに寝かせた。すこしだけニコの表情が緩んだ気がした。
ニコの母は、すべてを見ていた。市場に向かう途中、広場での人だかりに足を止めたとき、すでに事は始まっていた。成すすべなくすべてを見ていた。見ていることすらできなかった。
「貴方だけでも無事で……いえ……本当は、娘を、ニコを助けて欲しかった……」
肩を震わせ、唇をかみしめる母。しかしすぐにその発言を取り消した。
「…すみません、お門違いなのはわかっています」
「いいえ、僕も同じことを思っています」
とだけ答え、黙った。
机を挟んで向かい合う事数分間。ニコの母が口を開くと、リヒターの知らない事実が語られることとなった。
「私の母の名前は『アネラ』と言います。私によく話して聞かせてくれました。『私には婚約者がいた。でもね、リカ。ある日『騎士長になる』と言って家を出てから帰ってこなかったの』と。
私たちは、最後のシャンテ村の村人です。
あなたはきっと、50年前から、何かの間違いでここにいるのでしょう。ニコから聞いた話では、この村のことを何も知らなかった。それどころか、帝国のことも良く知らなかったようですね。
貴方もきっと聞いたことあるでしょうが、『魔法には近づいてはいけない』というお話。『神隠しにあってしまう』と。貴方が今ここにいるのは、きっとそういうことです。魔法に則ったことなのでしょう」
訥々と語り始めたニコの母、リカ。シャンテ村のたどった結末について、すべてをリヒターに話した。
「母は、そのあと私の父と結婚し、私を生んだ。そしてすぐに北の帝国…その時は『バオル帝国』という名前でした。帝国が和平条約を破って、他国を侵略し始めたのです」
リヒターは黙って聞いていた。左目がしっかりとリカを見ていることが不思議でならない。
「シャンテ村もすぐに帝国統治下に下りました。そして、兵士たちによる占領統治が始まると、今のようなことは頻発しました。父は兵役に取られ、私が幼いころに紙切れ1枚になって帰ってきました。
ここ数年は兵士の暴力も落ち着いていました。きっと大陸を治める中で、民を高圧的に扱う限界が見えてきたのだと思っていました。でも、末端には及んでいなかったようです」
リカはまたしても涙をこぼした。
「でも、そんなことは別にいいんです。私が…私が悔しいのは…」
言いよどむリカ。声が震えている。
「兵士達の命令で、いもしない裏切り者を告発させられたのです。告発者には賞金が与えられました。高税でギリギリの生活をしていた私たち村人は、自分の家族を守る為、密告を繰り返しました。密告された者は、事実に関わらず広場で処刑されました。同胞の命を犠牲にして、わずかばかりの財を得る。そんな生活が3年ほど続きました。もともと豊かな土地だったシャンテ村は、次々と帝国の入植者が住みつきました。その頃にはもう国の名前も『神聖デグラバオル帝国』になっていたように思います」
リヒターは疑問をそのまま口にした。
「『バオル帝国』というのは、僕の記憶ではさほど大国ではありませんでした。他国を屈服させるような武力は持っていなかったと思うのですが」
バオル帝国はオルシャータ帝国の3分の2程度の戦力しか保持しておらず、北海への漁業が産業の中心な落ち着いた国家だったはず。
「私が生まれるより前だと思うのですが、クーデターが起きたのです。国王を殺害し、『主卿』という位をつくって主権としたのです。内政省に勤めていたスレニアという男でした。当時25歳、いまは72歳になります」
新聞で見た名だ。それほどの高齢ならばパレードのような負担のかかりそうなことには参加しないだろう。妙なところで腑に落ちた。
「スレニアは不思議な力を持つ男だそうです。噂に聞くところによれば、魔術を儀式無しで行使できる技術を開発したとか。帝国の兵士、それも騎士長クラスになると皆その技で魔術を行使します。私もこの目で騎士長の転移を何度か見たことがありますが、本当にすぐにその場から消えるのです」
リヒターは驚愕した。リヒターの知っている魔術からかなりの進化をしたようだった。彼の知る魔術とは、円環の石を使い、何分も何十分もかけた儀式を行い、その結果ようやく行えるようなものばかりだった。
「本当に恐ろしいのは、その魔法には対価がいっさいかからないということです。私は詳しい魔法がわかりませんし、帝国も自分たちの力の秘密をおいそれと表には出さなかったので。でも、きっと無制限と言うわけではないと思うんですが、それでも国家レベルでの脅威でした。何千人もの術師がいるわけですから」
オルシャータ帝国の術師隊は全員合わせても300人程度だった。魔法の素養がある人間は非常に貴重で、国家は常にその素質を持つ者を探し回っていた。
「帝国はその技術で他国を圧倒したのです。大規模な魔術を次々と撃ち、大陸には大きな穴がたくさん空いています。隕石を落として威嚇や攻撃に使ったそうです。幸い、この村には昔平原でひとつ落とされたくらいで――リヒターくん?大丈夫?」
なるほど。そうだったのか。
4年前、エルソン先生のところで目が覚めてから忘れていた感情が一気に沸きあがった。感情とは水のようなもので、昂ぶると沸騰し水蒸気となり、その圧力は莫大なエネルギーになる。しかし常にその状態を維持することはできない。温度が下がればまた水になる。反対に、気分が下がれば凍る。溶けるのには時間がかかる。
「僕は、やるべきことを見つけました。今はまだ、なにもできないけれど」
リヒターは立ち上がった。ニコを見る。自分が50年後の世界に飛ばされたのは、理由はわからなくとも原因ははっきりしている。それは神聖デグラバオル帝国による隕石投下の魔術。それにリヒターは50年の時を奪われた。50年の間に手にするはずだった幸福も、自由も、笑顔も、何もかも。そしていま、帝国の兵士にニコを奪われた。50年後の世界で見つけた太陽のような子を。
「2度までも帝国に奪われて黙っていられるほど、僕は人間が出来ていない」
腕も足も目も欠けている不完全な人間。健全な精神は健全な肉体に宿るというのなら、リヒターにはもう健全な精神は宿らない。
「リカさん。僕はもう行かなきゃいけません」
静かな口調だが、リヒターの眉間には皺が寄り、形容しがたい表情を生んでいる。苦いものを食べたような、いまにも吐きそうな顔だった。
「そう」
リカはわかっていた。この憎しみに満ちた目をした人間を見たことがある。自分の夫が同じような目をしていた。まだ帰ってこない。
「デリアスト公国領に行ってみると良いと思います。あそこは帝国に魔術で抵抗していたと聞きました。貴方の役に立つことがあるかもしれません」
リヒターはこくりと頷いて、リカとニコの家を後にした。
それから数か月後、デグラバオル大陸にひとりの術師の噂が轟く。
「オルシャータ帝国ドネル隊を名乗る術師が、たったひとりで帝国東部守備隊を壊滅させた」と。
青年は、帝国に牙を剥いた。