そして青年は牙を剥いた(6)
リヒター・アスベルクは聡明とは言い難い。
勉強はあまり得意ではない。
どちらかといえば体を動かす方が得意だ。人より本を読んではいたが、晴れている日はイノシシやシカを追いまわすのも好きだった。手足が無くなる大けがだったが、それでもどういうわけか3日ほどで動けるようになってしまった。
「暇だなぁ」
50年の時を経ているというのに、加齢の感覚は無い。鏡で見た顔も自分が良く知る16歳のリヒターそのものだった。手足さえあれば今すぐにでも駆け出したいほどに元気がある。それでも、もう。
「僕はいま足手まといでしかないんだよな」
目が覚めて7日が過ぎた。もう病室にいることにも罪悪感を覚え飽きてきたところだった。エルソンが用意してくれた松葉杖を突きながら、病院内をうろついていた。
「やあリヒター、おはよう」
「おはよう、べルばあちゃん」
「おはようリヒター」
「あ、ドーレスじいちゃんもおはよう」
入院仲間の顔なじみも出来てしまった。こうして院内を歩いていると、リヒターと同じように脳が健康で体にダメージを負った人間がたくさんいる。ベルもドーレスも同じ病にかかっており、心臓がいつ止まるかわからない。
「リヒター、さっきエルソン先生が探していたわよ」
「うん。たぶん院長室にいると思うから、顔を出しておいで」
「わかった。ありがとう」
ベルとドーレスは夫婦だ。年齢は2人とも70歳と聞いた。そして先月、2人ともほぼ同時に同じ病気で入院しているという。熟れた果実が木から落ちるように、前兆はあってもいつ止まるかわからない心臓。そういう病気だった。病名はまだない。このトルア村では老人を中心に流行の兆しがあった。
院長室は1階の奥にある。病院自体それほど大きいわけではない。2階建てで、1階に大部屋の病室と診察室や待合室。2階は個室の病室が並んでおり、最大で50人程度が入院できる。医師はエルソン1人だが、時折流れの医者が長期間滞在し路銀を稼いだりしている。悪徳医師が来ることもあるが、そのたびにエルソンが叩きのめしているため診療はかなり評判がいい。
「エルソン先生、リヒターです。入ります」
部屋にはいるときはこうしろと教わった通り、ノックをしてから名乗って返事を待った。
「どうぞ」
「失礼します」
初めて院長室に呼ばれたのは3日前だったが、いきなりドアを開けて入って行ったので大層驚かせてしまっていた。何せリヒターにとって「病院」に入るのも初めての事であり、また「ノックが必要な場所」というのも初めての経験だった。
「やあ。わざわざすまないね。ベルさんに聞いたのかな。それともドーレスさん?」
「ふたりから聞きました。何か用ですか?」
エルソンは書類に目を通しながらリヒターを待っていた。患者のカルテ、薬剤のリスト、新聞、主卿省からの通達など、日々紙で届くものは多い。
「僕はこの院長だけど、こういう事務仕事もマリサと分け合いながらやっていてね」
書類をとんとんと机で揃え、苦笑を浮かべながらエルソンが言った。
「ここは病院だから、健康になった人は皆、帰るところに帰ってしまうんだよ。あたりまえだけれど」
リヒターは頷いた。至極当たり前の事実。
「だから、人を雇おうにも雇えないんだ。トルア村の人口的にも、皆に役割が振られていて、むしろ足りないくらいだね」
「そうなんですね」
としかリヒターは言えなかった。窓の外には村の姿が見えたが、人の姿はまばらだった。老人よりも子供が多いことや、農業が盛んなこと。週に一度の市場の日は非常に活気にあふれるという事。病院から出ずに得られる情報はその程度だった。
「君、帰るところはあるのかい?」
エルソンの問い。リヒターにもだいぶ話が読めてきた。
「ありません。外の状況もわからないですけど、きっともう家もないでしょう」
自然と微笑んでしまう。エルソンという男の優しさを感じたからだ。2人も人間がいれば病院の運営は間に合うはずだった。大仰に重ねられた書類も、ちらりと見えたぶんには過去の新聞も混ざっているようだった。『我が神聖デグラバオル帝国、大陸制覇まであと一国』という見出しが見えた。あれは、リヒターが目を覚ましたときにマリサに持ってきてもらった新聞だ。つまり、7日前のものだ。
「そうかい。ところで今、僕は助手を探していてね。君、やってみないかい?」
断る理由なんてない。
「僕に出来る事ならなんでも、喜んでやります」
はっきりとそう答えた。エルソンの背後の窓からは朝日が差し込んでいる。今日は秋晴れの良い天気になりそうだった。
お読みいただきありがとうございました。
突然寒くないり、フローリングに胡坐で執筆するのが非常に苦しくなってきました。
床暖房などというハイカラな代物は我が家に存在するわけもなく、ただただ耐え忍ぶのもそろそろ不条理なので絨毯の購入を検討しています。
ふわっふわでかわいいやつがいいなぁ。
ではまた。