そして青年は牙を剥いた(5)
どこだろう
ここは
ぼくは
しんだのか?
重力の感覚がない。体の感覚もない。手足があり、心臓が動き血が巡っているという感覚が一切ない。瞼を閉じているらしいことはわかったが、あまりに暗く、眩しいおかげでその瞼を持ち上げる勇気が出ない。
リヒターは自分という存在がひどく曖昧なものになっていることに気付いたが、それに気づかない。呼吸はしていない。出来ない。しかし、絶えず酸素が肺に出入りしている。
(ぼく)
記憶を呼び出す機能がイカれてしまったのか、5歳の頃に夕食で食べたシチューに入っていた鹿肉がやたら固かったことを思い出している。10秒が経過した。しかし、25年が経った。
ふと目を開いた。眼前には黒だか紫だかわからないマーブル模様のなにかが迫っていた。それは無限の彼方に広がっているようにも見える。どこを見ても同じ景色。黄色や赤の幾何学模様がスパークしている。フラクタルの世界。いや、むしろこれは曼荼羅の再現。水に浮かべた油。腐った牛乳。大雨の次の日の川。
(しぬのか)
まだ生きていることが辛うじてわかった。確証を与えてくれるのは、右の眼球が眼窩に擦れるわずかな感覚だけだった。しかし、いまリヒターの「感覚」はそれ以外に何も拾わない。
うるさすぎるほどの静寂は、リヒターの鼓膜を今にも破壊せんとしている。
それで十分だった。
リヒターは目覚めた。服が汗で肌に貼り付いていた。木製の天井が目に映った。左側が明るい。窓辺に寝かされているようだ。
「おはよう。具合はどうかな」
体中が痛む。リヒターがなんとか首を持ち上げて声のした右方を見やると、そこに30歳くらいの髭のたくましい大柄な男が座っていた。
「あちこちが…くっ…痛いです…」
「ははは、まぁそうだろう。しばらく寝ていなさい」
医者であろう大男は、白衣に身を包み机に向かい、なにやら書類を読み込んでいた。
その様子をリヒターはしばらくながめていた。
「ん?眠れないか?なら少し俺と話をしよう」
大男は机から離れ、窓際のリヒターの元へ歩いてきた。歩く姿は熊のようだった。彼はベッドの脇に置かれていた椅子に座り、リヒターの目を見ながら穏やかに話し出した。
「君は、いったい誰だね?」
思考が混濁している。僕はいったい誰だ。記憶の本が床にばらまかれたように、記憶の呼び出しがうまく行かない。しかし、数秒でそれらはすぐに本棚に戻るように整理されていった。
「僕は、リヒター。リヒター・アスベルクといいます」
大男は手元の書類になにやら書きこんだ。恐らく診察カルテのようなものだろう。
「そうか。私の事は『エルソン』と呼んでくれ」
エルソンは巨体に対して物腰が非常に穏やかだった。リヒターは「医者」というものを初めて見たが、安心感を与える雰囲気と言えた。
「リヒターくん。君のことを調べようと思ったのだが、どう頑張っても見つからないんだ。『リヒター・アスベルク』という人間は…その、つまり、言いにくいことだが、本名かい?」
何を言っているのか。僕はここにいる。多少の困惑を感じながら、リヒターは返事をした。
「まずここはどこですか?」
「ここかい?ここはトルア村だが…」
トルア村。聞いたことがない。読み書きは教わったし、周辺地図もよく目にした。しかし、シャンテの村の周りにはそんな名前の村はなかったはずだ。自分の記憶はヘロダスティア平原で途絶えている。平原にもっとも近い村はそれこそシャンテ村だった。
「すみません、僕の聞いたことのない村ですね…」
「そうか。じゃあ次の質問だ。君は白霊の森で倒れているのを発見された。それが昨日の朝の事だ。通りかかった警護班が見つけてここまで運んできてくれたんだ。いったい何があった?」
質問の意味がわからない。白霊の森?そんなはずはない。リヒターがいたのはヘロダスティア平原のはずだ。まとまっていた自分の記憶が途端に自信の持てない物に変わっていく。脳内に浮かぶ疑問符。ありのままをとりあえず話してみた。
「僕はヘロダスティア平原を歩いていました。ドネル騎士長たちと、30人くらいで帝都を目指していたんです。すると隕石が降ってきました。結構近くに落ちたと思うので平原に跡が残ってると思います。その衝撃に巻き込まれました」
何一つ嘘は言っていない。言っていないはずだが、エルソンの顔には疑うような表情がありありと浮かんでいる。
「君。『騎士長』というのはなんだい?」
「え…?騎士長は騎士長ですが…」
先ほどからどうにも会話がかみ合わない。村の名前。リヒターの発見された場所。そして今度は騎士長。オルシャータ帝国の民であれば誰しもが憧れ、敬う騎士長の位。ドネル騎士長も尊敬に足る立派な人物だった。だが目の前のエルソンという男は『騎士長とは何か』と言う。リヒターは自分の立ち位置がますますわからなくなっていった。
「……」
「……」
「世界」という単語は、使う者の認識によってその意味合いを変える。大陸中を巡り歩く商人からすれば、「世界」は大陸そのものを指すだろう。村の周囲から出たことがないリヒターにとって「世界」とは、村の周囲程度の認識しかない。自分の認識が狭いだけなのか。足りていないのは知識だけではないということなのか。
「まぁいいか…。君には記憶の混濁があるのかもしれないし。君は身分を確認できるものを何も持っていなかったし、本当は治療費なんかも請求したいところだけど、そういう込み入った話はまた今度で。私は他の患者のところに見回りに行くから、身体を休めていなさい」
エルソンは穏やかに言った。立ち上がったエルソンに、リヒターは咄嗟にお願いを投げつけた。
「あ、その、なにか告知の紙とか頂けませんか?兵士募集とか、人を探しているーとか」
「え?あー、そうだな。新聞でよいかな。あとで助手に届けさせるよ」
ありがとうございます、とリヒターは礼を言った。部屋を後にするエルソンの背中が見えなくなってから、リヒターは息をついた。
左手を見る。
正確には、左腕があったところを見た。
左腕は消失している。鎖骨が半分程度の長さしかない。上半身には包帯が巻かれている。毛布が掛けられている足元を見ると、右足は脚の輪郭がある。しかし、左足は膝から下が無くなっていた。
「どうなってるんだろう…」
冷や汗が止まらない。いや、脂汗か。何もしていないのにこの緊張感。己の体が消失するというのは、ここまでの重圧を己に課すものなのか。
頭の中が真っ白になる。隻腕、隻脚。これで生きていける自信がない。こんな状態で出来る仕事など思いつかない。途方もない頭脳があるなどすれば別だろうが、リヒターにはそんなものはなかった。
しばらくして、若い女性が病室に入ってきた。ノックともに入室した彼女は「マリサ」と名乗った。「どうぞ」とだけ言い残し、新聞と呼ばれる紙をリヒターに手渡して立ち去った。
「これが、『新聞』…」
腿の上に載せ、右手一本で広げてみる。書いてある情報に目を通す。幸いなことに、字は読めた。
『我が神聖デグラバオル帝国、大陸制覇まであと一国』
『スレニア主卿閣下 パレード不参加』
『白霊の森第3次調査団派遣へ』
聞いたことがない国の名前だ。「主卿」というのも聞いたことがない。スレニアとは誰だ。わからないことばかりだが、はっきりわかったことがある。
996年。リヒターが目を覚ましたとき、世界は50年の時を経ていた。
お読みいただいてありがとうございます。
もう2話で1章が終わると思います。