幕間 知る人々/ステルスヤクザ
そして……騒乱の舞台が幕を開けるその舞台袖で、数多の人々がそれぞれの視点とそれぞれの立場で、小さなサイドストーリーを演じ始めていたのである。
ここで有明の海沿いの街から視点を離して、小さなサイドストーリーのひとつひとつに目を向けてみよう。
まずはここ川崎の新市街化区――
■川崎周辺、再開発新市街区のとある高層ビルの一角にて――
そこにはひとつの総合商社が入ってきた。あるいはファンド企業といってもいいだろう。一見するとまともな企業に見えないこともない。事実、多くの一般社員を抱えていたのは確かだからである。
だが、その会社の一部部署と上層部とそれ以外の部署とでは、相互交流に大きな壁があった。それは暗黙の了解としてその会社に籍を置くものであれば誰もが知っていることだ。
会社の名前は「ブルーム・トレーディング・コーポレーション」
代表はまっとうな人物が名前を出しているが、実質的にはある一人の総務部長がその会社の全権を掌握していたのである。
その人の名は氷室淳美――
〝カミソリ〟の異名を持つ人物である。
氷室は今とある部屋にいた。
―特別応接室―
社内のごく限られた人間でしか入ることを許されない禁断の間であった。そして今、その中に氷室の他に席を設けているのが一人いた。
緋色会筆頭若頭・天龍陽二郎である。
特別応接室の中、革張りの高級ソファーに身を委ねている人物がいる。オールバックヘアの実年男性、天龍である。
ソファーの上で葉巻を燻らせており、テーブルを挟んでもうひとつのソファーに腰を下ろしているのが氷室である。
ふたりはひとつの応接デスクを間に挟んでビジネストークの真っ最中であった。
天龍が低く重い声で呟いている。
「それでその技術企業を落とすにはあとどれくらいかかる?」
天龍の問いに氷室は感情湿度ゼロの涼しい顔で淡々かつ明朗に答える。
「まぁ、せいぜい2週間もたんでしょう。株は既に45%買い占めました。関連企業に依頼して買い増しで切り抜けようとしているようですが起業家一族の人望があまりにもなくそっぽを向かれているようです」
氷室の語る言葉に天龍は口元に冷たい笑みを浮かべて言い放った。
「ふっ、だろうな、今のご時世、利益が出るというだけでは信頼関係は築けん。金で何とかしようと他人様を顎でこき使ってきたバチが当たったのさ」
そして天龍は吸い終えた葉巻を分厚いガラス製の灰皿にてもみ消しつつ氷室に指示を与えた。
「生ぬるい、一週間でやれ。三次団体の下っ端でも動かしてやっこさん達を徹底的に痛めつけろ。死人さえでなければ手荒な手段は使って構わん。それと追い込みがてら、そのそっぽを向いた連中には飴玉しゃぶらせろ。こっちの思惑通りに動いている間は大切にしてやれ」
「承知しました。ではそのように」
「あぁ」
ふたりがそんな会話をしているときだ。応接デスクの上に置いてあるフラットタイプのインターホンが鳴る。受話スイッチを操作すれば3Dホログラムで一人の青年女性の上半身が浮かび上がる。長髪のワンレンの美形女性だ。
〔氷室部長、お話が〕
「話せ」
〔こちらでは――、そちらにお伺いしてよろしいでしょうか?〕
「分かった。来い。粗相のないようにな」
〔はい、承知しました〕
そして3Dホログラムの女性は軽く会釈して通信を切る。そして10秒と置かぬうちにその特別室の扉を開ける。
「失礼致します」
そう告げながら入室してきたのは黒髪長髪のワンレンの美女だった。乳白色のスカートビジネススーツを端正に着こなし、その肉体的容姿も目に鮮やかであった。そして入室するなり氷室と天龍に交互に会釈する。その姿に氷室は天龍に対してその女性を案内した。
「俺の秘書です。中島と言います」
「中島裕美です。ご承知おきを」
名前を案内されて丁寧に頭を下げる。その姿と所作に天龍は告げる。
「いい秘書だな。しつけが行き届いている」
「えぇ、私の秘蔵っ子です。もしよろしければ接待もさせますが?」
そう告げながら天龍は静かに微笑んだ。だが天龍は苦笑いで言う。
「そうしてぇところだが止めておこう。美月が俺の女遊びに最近うるさくてな」
そのつぶやきに中島が問う。
「お知り合いですか?」
その声にじっと睨むようにして天龍は告げる。
「馬鹿、俺の娘だ」
「し、失礼いたしました」
「いい気にするな。娘とは別戸籍だ。表向き、俺は独身で通ってるからな」
「承知しました。決して口外いたしません」
「あぁ、そうしてくれ。それより本題に入れ」
「はい――」
天龍に求められて中島は説明を始めた。
「有明の1000mビルにて動きがありました」
有明の1000mビル――そこで起きたことと言えば1つしか無い。氷室がさらに言う。
「話せ」
「はい、先程正午ちょうど、有明の1000mビルにて爆発があったそうです。ディンキー・アンカーソン一派と思われますが表向きには宣言文などは公表されておりません」
「ディンキー一派と判断した理由は?」
「はい、氷室様。サミットの警備要員に紛れ込ませた〝草〟からの情報です。内部情報なので確実かと」
中島の声に天龍はさらに告げる。
「それで被害状況は?」
「ビルシステムが全域ダウン。外部との連絡は完全に失われました。さらに最上層の第4ブロックは侵入ルートが全て遮断され、孤立しているそうです。来賓の海外VIPの安否は確認中ですが、半数以上が内部にて脱出不能に陥ってると思われます」
「そうか」
中島の説明に天龍がつぶやく。思案げな彼に中島はさらに説明した。
「それと物理メッセージです。香港18Kの俳氏からコレが送られました」
そして中島はスーツの懐から純白の封書を差し出す。横開きで、赤蝋にて丁寧に封がしてある。表向きは記名は無いが、天龍にはその封書には見覚えがあった。それを受け取り手慣れた手付きで開封しながら中身を見る。そこには漢文にてある文が記されていたのだ。
――一個瘋狂的老人埋在地下室裡、一個娃娃被供奉――
送られた手紙の中の一文。それを目の当たりにした時に天龍の目の色が変わった。
「氷室、ちいっと小間使い行ってきてくれ」
「はい? どちらまで?」
「近衛って凄腕だ。機動隊の総元締め、〝狼の近衛〟って言えば覚えてるだろう?」
狼の近衛――、その言葉を耳にした時に氷室の顔に笑みが浮かぶ。それも壮烈と形容できるような冷酷そのものの笑みであった。
「承知しました。直ちに向かいます」
「頼んだぜ」
そう告げながら、あの漢文の手紙を渡す。
「向こうに着くまでに読みこなせ。要件が書いてある」
「御意」
そう答えながら氷室が立ち上がる。それからわずかに遅れて天龍も立ち上がった。そして立ち上がりながら中島女史の手を握った。
「あっ?」
思わず声を上げる中島に天龍は言う。
「お前も来い。秘書代わりに付き合え」
そして天龍の視線は氷室へと向いた。
「借りるぞ。今から堀坂のジジィの所に顔出ししないとならんのでな。独り身では格好がつかん」
「堀坂周五郎御老ですか。もう齢90を超すとお聞きしましたが?」
堀坂周五郎――90歳を超す日本任侠界の古老であり、昭和の時代のあらっぽいヤクザ世界を知る生き字引的存在であった。
「まだ矍鑠としている。この間も真剣で二人ほどぶった斬ったそうだ」
「それは恐ろしい。あの仕込杖を抜かれたのですね。くれぐれもお気をつけください。あぁ、それと――」
氷室の問いかけに天龍が振り返った。
「できれば無事にお返しください。私の大切な部下なので」
その一言に中島女史が複雑な表情を浮かべる。それに対して天龍が苦笑しつつ答えた。
「心配すんな。ちゃんと連れて帰る」
その言葉に満足気に氷室が笑みを浮かべる。天龍が氷室との間の約定を保護にしたことは一度もないからだ。そして自らの部下をねぎらうように穏やかに声をかけた。
「裕美」
名を呼ばれて振り返る。
「はい」
「粗相のないようにな」
「はい、承知しております。それでは天龍様――」
「あぁ」
そして天龍が歩く先のドアを中島女史が開き、そこから出ていく天龍のあとを中島がついて行く。その姿を見送ると同時に氷室は何処かへとインターホンで通話する。
「笹井、いるか?」
〔はい〕
インターフォンの向こう側からは男性の野太い声がする。
「10秒で私の所に来い。出かける」
〔承知しました〕
そして通話が終わってから10秒もかからぬ内に特別応接室の扉が開く。その向こうから姿を表したのは背丈190はあろうかという巨漢である。三つ揃えのスーツを着ているが、その顔には複数の向こう傷が痕を残していた。
「お待たせいたしました。お車の準備も出来ております」
「ご苦労」
そして扉を抜けるとそのままエレベーターへと向かう。その途上、配下である笹井と言う男に話しかけた。
「有明に行く。警察に情報提供をする。お前も来い」
「はい」
それだけ言葉をかわすと二人の姿はエレベーターへと消えていった。
















