Part30 死闘・錯綜戦列/エージェント・コクラの場合――
■戦場の入り口にて。エージェント・コクラの場合――
緋色会若頭筆頭・天龍、その子飼いのエージェント、
通り名は『コクラ』
彼は直属の上司である氷室のもとから離れて東京アバディーンの夜の帳の中へと足を踏み出していた。
メインストリートを抜けて貧民街を駆け抜ける。人目を避けて裏路地の人気のない所へと移動し、見通しの良い場所を探す。彼が目をつけたのはまだ使用されている倉庫兼作業所となっている所ですでに日中の業務を終えて灯りが落ちていた。建物の高さは5階建て程度、建物の向こう側はすでに事件と喧騒が起きているあの地だ。荒れ地に面した市街地の最果てである。
建物を背後から回り込み物色すれば、隣接する建物の外階段から登って目的のビルの屋上へとアプローチできる。足音も立てずに近づき、瞬間、両膝をかがめると一気に飛び上がり、途中、3階のステップに僅かにつま先を引っ掛けると再び跳躍する。そして瞬く間に屋上へとたどり着いてしまう。それは明らかに何らかの強化処置が施されていることの現れであった。
無論、足音はもとより、靴底が擦れる音すらたたない。ほぼ無音で気配を消し去る見事な身のこなしはコクラのエージェントとしてのスキルの高さを物語るものであった。そして身をかがめてビルの屋上を端まで移動して、その先を確かめれば、長く伸びるトラック向けの物流倉庫の建物がある。ベルトコーネを追い詰める戦闘の時にアラブ系の男たちが潜伏し、攻撃の機会を練っていたあの場所である。
「これか――」
その言葉を呟きつつ自らの視界に映る光景を整理すれば、物流倉庫ビルを背後として、その前方に広がる場所は、東京アバディーン、南側扇状市街区の東南の外れの辺りであり、ハイヘイズの子らが寝起きしていた廃ビルの周囲は古い倉庫ビルや打ち捨てられた建物が並び、その先は未開発の荒れ地が広がる最果ての地であった。
その状況下でハイヘイズの根城の廃ビルの辺りを中心として、廃ビル正面付近の広い路上にベルトコーネの体躯が転がっており、そこから少し北に移動した付近にアラブのレジスタンスたちが持ち込んだクレーン車とフォークリフトとが横転している。
その道路をメインエリアとして道路の両サイドの廃ビルや倉庫ビルの敷地や、空き地や荒れ地などに、おぼろげなシルエットとしてステルス仕様の戦闘要員がそこかしこに身を潜めている気配を感じる。コクラは両耳にかかる髪をかきあげ耳を露出させると、その聴力の感度を増幅させた。
【 AuditorySensitivity 】
【 >Amplifier 】
【 MultiplesRate×〔11.5〕】
一気に受信感度を上げると聴覚中枢を痛める恐れがある。状況を判断しながら慎重に倍率を上げてゆき、必要な情報が得られるレベルにまで感度増幅倍率を上昇させ、適切な感度にセットする。そしてさらに聴覚から得られるであろう膨大な音声データを、左右の聴覚の位相差から発信元方向を計算して処理していく。こうすることでただ単に声を聞くというだけでなく、どこで何が行われているかを突き止めることが可能となるのだ。
【 SoundDirection 】
【 Parallax 】
【 3D‐Position Mapping 】
【 】
【 ―Calculation Start― 】
強化された聴覚をフルに駆使して自らの前方の戦場に散らばっている声をかき集めていく。それはコクラが最も得意とする情報収集スキルであった。そしてそこにはピアニストとしての音感と感性がフルに生かされていた。
音に対する絶対的感覚。
それがこの男のピアニストとしての才能と、闇社会のエージェントとしての実力を確かなものにしているのだ。
そして、コクラは集まってくる情報の一つ一つを吟味する。
――焦るな――
誰かが自分自身に言い聞かせている。若い男の声で聞こえてくるのは、あの騒動の中心地だ。重要な行動をする際に自らに冷静である事を努めて言い聞かせているようだ。その声のするほうに視線を向ければ、全身を覆うプロテクターに身を包んだ一人の人物の姿がある。白と青、そして日本警察の桜のエンブレム。彼が警察の手のものである事は明白だった。
さらに声を集めれば強い警告としての叫びが聞こえてくる。
――グラウザー!! 上だぁ!!!――
警告としての何よりも強い叫び、命令口調ではなく、互いを信頼して居るがゆえの強い語りかけであることが伝わってくる。だがその後に聞こえてきたのは金属物を踏み潰すような鈍い打撃音だ。
「なんだ?」
思わずつぶやきつつその後に聞こえてくるものに集中すれば次に聞こえてきたのは老人のしわがれた声だ。ダメージを受けているのか息も荒かった。
――モレンコフ、〝アレ〟を使え――
言葉のニュアンスからして日本人ではない。ましてやロシア系となればこの場に居合わせているのは彼らしか居ない。
「ロシアン・マフィアの実戦部隊か」
推測するにベルトコーネが現れたこの場にロシアン・マフィアの部隊と、日本警察が鉢合ていると言うことだ。しかも深刻な対立関係にはないようで、協力しあっている気配すらある。
マフィアと日本警察の特別利害関係――
理解しがたいが、そう言う危険行為に及ばざるをえないほどに、自体が切迫しているとも考えられた。そう判断しつつも極めて微かに聞こえてくるのは金属的なマニピュレータが作動する音だ。義肢や義手というよりは、作業用の機械のそれに近く、使用形態としてはパワードスーツの様な強化服などの装備が考えられるだろう。
「ロシアン・マフィアがそんな物を使うとは考えられない。第三者か――」
ロシアン・マフィアに日本警察、それらに反目する第三者など想像しにくいものがある。戸惑っていれば、存外にその正体はすぐに露見する。
――クモ型? まさか義体外装機?!――
義体外装――、サイボーグがその身体機能を拡張するさいに用いるパワードスーツの様な物であり、外装機体の内部に入り込みつつ、頭脳部を制御系と直結させることで、身体機能を大幅に広げることを可能とするものだ。だがそんなもの、一般社会で医療用にしかサイボーグが認められていないこの国では、そうそう存在するものではない。よほどの規模の犯罪組織か、政府系の特殊組織が関与していると考えるべきだろう。
そしてその答えとなる言葉を、あの日本警察の名物アンドロイド警官が教えてくれたのである。
――そういや居やがったぜ! 非人間型のサイボーグ人体拡張装置を好んで使うイカれ野郎が隊長やってる連中を! なぁ! 情報戦特化小隊さんよぉ!――
声の主はセンチュリー、コクラも彼の存在を嫌と言うほど知っている。そのあまりの目立ちっぷりに苦笑せざるを得ない。
「バレバレですよ。アナタらしいですが」
だがセンチュリーの言葉から得られた事実にコクラも戦慄せざるを得ない。
「情報戦特化小隊――、あの無法者たちか。たしかに天龍さんたちが警戒するわけだ。あの連中ならこの街に何が起きても不思議ではないか。死人が出ても気にするような連中でもない」
苛立ちと不安を抱えながら状況を考察する。そしてさらにセンチュリーのつぶやきが聞こえてくる。
――これでいい。これならばあのウラジスノフとか言うじいさんをあいつらに任せれる――
ウラジスノフ――、ウラジスノフ・ポロフスキー、ロシアン・マフィアのゼムリ・ブラトヤの女首魁の右腕として広く知られる人物であった。言葉の内容からウラジスノフを誰かが補助しなければならない状況にある事が読める。そして、それだけの危機的状況が進んでいるのだ。
前後の言葉と声を照らし合わせて判断すれば、アンドロイド警官とロシアン・マフィアが協力して事態の解決を図ろうとして居るところに、警察内部の無法者集団である情報戦特化小隊が妨害を試みてきた――、そう考えるべきだろう。
「その妨害の目的こそが、ベルトコーネの暴走と言うわけか、」
一つの結論を得た時、さらに別な方から声がしてくる。方向としてはコクラの背後と言って良い。
――デュウとペデラは下で待ってた。パンプとタンとグウィントとダエアはもう街の方へ行ったよ――
それは若々しい少女の声だった。張りがあり元気で、性格の明るさが口調の端々ににじみ出ている。だがその言葉の中に出ていた人物たちの名前が問題であった。
「誰だ? 聞きなれない名だな。それに――」
コクラはほんの僅か思案すると答えを出した。
「名前は全て〝ウェールズ語〟――数字に火に風と水と大地、意味が似かよりすぎている。一つの集団の中のコードネームか?」
一つの疑問を処理するが、さらに聞こえてきた言葉にコクラは思わず耳を疑わざるを得なかった。それはまた別な方角から聞こえた一人の少女と思わしき声だったのだ。
――あなたたちがベルトコーネと称している個体を我々で回収させていただきます――
「なんだと?」
――あなた、何を言ってるのですか? アレは所詮は暴走することしかしらない狂える拳魔! 制御する事も抑止することもできはしない!――
少女が対話している相手の正体を、そのあまりに特徴ある口調からすぐに思い起こせる。その人物の名はクラウン。闇社会の中でもトップクラスの謎に満ちた不審人物だ。
「一体何を考えている? 正気かこいつら?」
そしてなにより、あのベルトコーネ争奪に乗り出そうとしているのだ、とてもではないが正気の沙汰とは到底思えなかった。重要度から言えば、黒い盤古よりも、特攻装警よりも、こちらのほうが重要だった。
――私たちは〝プロセス〟――、人間が次なる進化へと至るための〝道程〟と成る者――
それが突如として現れた、新たなる勢力の名であった。
「プロセス――? 聞いたことが無い」
そしてコクラは決断した。まずは最初の報告をするべきだろう。体内に装備する通信装置機能を起動させて上司である氷室の下へと通信を接続する。無論、暗号化強度は最高レベルである。
コクラは回線接続の処理を待って氷室へと呼びかける。
〔氷室様、最初の成果を掴みました。ご報告いたします〕
〔話せ〕
〔はい――、現在状況ですが――〕
回線の向こうで氷室がコクラの報告に耳を傾けている。氷室からさらなる指示が下るのはその直後である。
















