Part19 第1方面涙路署捜査課/母と娘
夕食時を過ぎた頃の東京――
その銀座から品川へと一台のセダンが走っている。レンジエクステンダーEV仕様のエコカー、濃紺メタリックのボディの中には2人の親子が乗っている。助手席の子供の方は外出着の今井かなえ。運転席はロングパンツスタイルの女性用ビジネススーツ姿の今井槙子課長。普段なら気軽に談笑しながらのドライブだろうが、今はそれどころでは無いと言うのが実情だった。
運転席でハンドルを握りながら今井課長は電話回線越しに通話をしている。その口調が荒いことから事態が切迫しているのが伝わってくる。
「それで現場の朝君からは直接の連絡はまだなのね?」
〔はい、アイツ、潜入エリアの治安状況から携帯のたぐいは持っていません。そこまで深い所までの調査にはならないはずでしたから。ですが今回はグラウザーとも連絡が取れていません〕
今井と会話をしている相手は、涙路署の機動捜査係の捜査員の一人である宝田と言う男だった。階級は巡査部長で年齢は30過ぎ、朝の先輩に当たる人物だ。ちょうど当直で待機していたところだったのだ。
「グラウザーとも? 考えられる原因は?」
〔そりゃぁ、妨害でしょう。あのエリアには凄腕の犯罪性ハッカーがうようよしています。通信妨害、回線略取、パケット消去ミーム、ありとあらゆる方法で外界との連絡手段を制限している連中がいる。それがあるからこそ、東京アバディーンは日本史上最悪のスラムとまで言われてるんです。今、本庁でも情報機動隊をフル動員して事実調査を行ってますが、望遠映像で対岸から眺める程度が限界らしいです〕
「その望遠映像でグラウザーたちとベルトコーネがやりあってるのが見つかったんでしょう? あと2分で着くから詳細資料を用意しておいて」
〔了解です、関連しそうな部署への連絡はすでに済んでますからすぐに行動可能です〕
「呼び出し可能な人員にもコールしておいてね。それじゃ」
今井は必要なやり取りを終えると回線を切る。そして助手席にて当惑気味に様子を眺めてくる愛娘のかなえに声をかけた。
「ごめんね。かなえ。夕食の約束がこんなことになっちゃって。家に帰っている余裕が無いからこのまま署に行くわね」
仕事柄、娘との約束が反故になる事は珍しくない。だが、大抵はリカバリーが可能な程度で収まる。だが今回ばかりはそうも行かない。事実がどうなっているのか全く想定がつかないためだ。かなえも母のその焦りを察していた。そしてわりとあっけらかんとしてこう答えた。
「大丈夫だよ。お仕事終わるの待ってるから」
「待ってるって――、何時になるかわからないわよ?」
「いいよ。暇つぶしは慣れてるし、それにたまにはお母さんの仕事の様子とかも見てみたいし」
「こら、警察署は遊び場じゃないのよ?」
「わかってるよ。でも家に帰ってる暇もないんでしょ? 大丈夫、おとなしくしてるから」
物分りの良さをアピールしてくる娘に対してため息しか出ない。諦めるよりほかはない。
「仕方ないわね。本当は手の開いてる事務員さんに送ってもらおうと思ってたんだけど――、それじゃ休憩室があるからそこで待っていらっしゃい」
「ほんと?」
母の予想外の快諾にかなえも内心手を叩いて喜んでいる。だがその前提として予想外の事件が発生している事をかなえもちゃんと分かっていた。
「それじゃ署についたら他の人に案内させるからおとなしくしててね」
「うん!」
そんなやり取りをする間にセダンは品川駅東側にある涙路署の地下駐車場へと滑り込んでいった。ここから今井課長の長い夜が始まるのだ。
@ @ @
「それじゃお願いね」
「はい、おまかせください」
今井が声をかけたのは生活安全課の職員だった。今井が娘を連れているのに気づいた署員が気を利かせて話を通してくれたのだ。もとより生活安全課では迷子預かりも珍しくない。その手の対応に慣れた女子職員がかなえの相手を引き受けてくれたのだ。
「それじゃ言ってくるわね」
「うん、気をつけてね」
膝をかがめて目線を落として今井課長はかなえに声をかけた。そんな母に娘はねぎらいの声をかける。そして今井はかなえの頭を撫でると踵を返して歩きだしていた。向かう先は捜査課のある3階フロアだ。
そして今井がエレベーターへと向かおうとすると階段から複数の刑事たちが降りてくる。涙路署捜査課の捜査員たちである。今井を取り囲むように待ち受けると早速のやり取りを始める。
「課長! お待ちしてました。あれから動きがありました! 本庁筋で動きがあったようです」
「簡潔に話しなさい」
「す、すいません」
「必要な情報のみを伝えなさい。無駄は禁物です」
「はい」
慌てて話そうとする部下に対して、今井は凛とした強さで窘めている。それを受けて部下は落ち着きを取り戻して話し始めていた。
かなえは母のその後姿をじっと眺めていた。いつも穏やかで優しい母。怒るときも理路整然としていて母を怖いと思ったことは一度もなかった。
「あれが仕事の時のお母さん――」
だが今は違う。背筋を正し毅然として歩き、大の大人の男性を相手に怖いくらいの勢いで堂々と指示を出して会話をしている。ある種の怖さを感じずには居られなかった。だが――
「えぇ。そうよ。この警察署の捜査課で指示を出す役目をしているの。とても大切な役目なの」
――かなえの背中から声をかけてきたのは年齢20代後半くらいの私服婦警であった。名前は米倉麻沙美と言い階級は巡査。生活安全課で捜査員をしている女性警察官だ。そしてかなえを励まし、その恐れを取り除くかのように優しく語りかけたのだ。
「男の人にも、悪い人たちにも負けないように精一杯頑張ってるのよ」
警察と言う職場は基本的に男性社会である。その中で女性が一定以上の地位を得て指揮官として動くには男性にも負けないだけの〝強さ〟が求められる。今井にはそれがあった。米倉の言葉はその事を暗に匂わせているのだ。その言葉がかなえにも腑に落ちたのだろう。無言のまま頷くと視線で母を追っていた。そして母はエレベーターの中へと姿を消した。
そして米倉がかなえに右手を差し出していた。かなえは頷きながらその手を握り返すがその右手から伝わってくるものがある。
強い力――
温かい力――
包み込む力――
何者にも折られる事の無い〝護る〟力――
警察と言う社会の守り手だけが持ちうる包容力に満ちた力がそこには有った。それはかなえがいつも母の背中に感じていた物だった。
「さ、行きましょう」
米倉の言葉にかなえはうなづいていた。母は仕事へと向かった。それは誰も邪魔してはいけない大切な役目だ。ならば自分の役目はその仕事を〝待つ〟事だ。
「はい――」
かなえは米倉に手をひかれながら署内の休憩室へと向かった。
かなえにとっても長い夜の始まりであった。
















