第32話 終わる者始まる者/―涙―
「もう少し! もう少しだから!」
それがメリッサを励ますための嘘だということは誰の目にも明らかだった。ディアリオはメリッサの状態について語り始めていた。
「1つの頭脳に2つの人格、たとえアンドロイドの人工頭脳といえど容量ギリギリで無理矢理に稼働させていたのでしょう。それが自我融合までしていれば、頭脳システムバランスが崩れてゲシュタルト崩壊が起きている可能性もある。元々、いつ停止してもおかしくなかったのかもしれません」
「なんとかならないの!?」
「すまないフィール――、くそっ! プロテクトがかかっている!」
「え?!」
「プロテクトプログラム自体は雑ですが無理に解除しようとすれば部分的にデータ抹消をする仕掛けになっている。たとえ一部でも消されれば人格システムは維持できない! アンドロイドを使い捨てにしてでも証拠隠滅を優先させるつもりだ」
「そんな――」
「こんなの人間のやることじゃない!」
その言葉を吐き捨てたディアリオの顔には怒りが浮かんでいる。それはフィールが久しぶりに見る純粋な義憤による怒りであった。
「お願い! なんとかしてよ!」
切実な言葉がフィールからかけられる。ディアリオもその言葉に是非とも答えてやりたかった。
だが――
「すまない、私の力でも簡易的なメンテナンスアクセスでは時間がかかりすぎる。それでは間に合わない! それにこれ以上深いレベルへのアクセスを行えば崩壊する自我システムの余波を私自身が受ける可能性もある。適切な設備や機材が無いとどうにもならない」
当然の答だった。環境の整った研究施設ならいざしらず、この様な場所では出来ることにも限界がある。万策尽きている事を悟って、フィールはいつしか自分が涙を流していることを気がついた。
その涙は、メリッサの頬へと伝っていた。
「もういいよ」
メリッサはポツリと呟くようにフィールへと問いかける。そして、満足げに言葉を続けた。
「ありがとう。もう十分だよ」
「え? でも――」
「自分がもう先がないことくらい解ってる。それにあの連中があたしを見逃すはずがないもの」
メリッサがつぶやいた言葉に、ディアリオが問いかけた。
「あの連中とは誰です? ディンキーのマリオネットのことですか?」
「それは――」
ディアリオの問いにメリッサが答えようとしたその時だった。
――ジジッ!――
強い電磁火花が迸ったかと思うと、メリッサの身体の各部からは青白い炎が吹き上がり始めた。
それは地獄へと誘うかのような滅びの炎を思わせる勢いがあった。
フィールが驚きの声を上げ、ディアリオの言葉がそれに続く。
「え? なに?!」
「証拠隠滅か!」
フィールは慌てて立ち上がり離れるととっさに彼女の消火を考えた。
だが今ある装備品には消火具はなく消火活動は何も出来ない。なによりメリッサの体内に発火装置があるのなら単なる消火活動で消しきれるとは思えない。ふたりとも燃え上がるメリッサを成すすべなく見守るしか無かった。
「喋りすぎた――それに、回収時刻も過ぎちゃった。でも――これで――博士もアタシも――」
瞬く間に青白い炎はメリッサの全てを包み込んでいく。そして、着衣を焼きつくし人造皮膚を燃やし尽くすと、アンドロイドとしての内面を露わにさせていく。それでもメリッサの表情は穏やかだった。
「最後に会えたのが――あんたたちで――よか――た――」
全身を焼きつくす人工の炎に巻かれてメリッサは燃え尽きようとしていた。だが、その顔には笑顔が浮かんでいた。望まない役目を終わらせられることに安堵するかのように。
フィールもディアリオもその無残な光景を見守りつつも、内心、忸怩たる思いで歯噛みしていた。事件は終末を迎えたが、解決は何一つしていないのだ。
「この子も望まない役目から逃れようとしていたのか」
「そうだね。警察という役目に満足できているアタシたちと違ってね」
炎が消えたあとには焼け焦げと化したメリッサの遺骸が残されていた。その頭部は顔面のみが焼け残っていた。そして、フィールはメリッサの開かれたままの瞳に手を添えるとその目をそっと閉じていく。
「ゆっくり休んで。もう誰もあなたを戦わせようとはさせないから」
フィールは感じていた。自分たちがうかがい知れぬ場所で巨大な悪意が蠢いているのではないかと。
そして、人を、アンドロイドを、心を宿した存在を消耗品のように貪る悪意が間違いなく存在しているのだ。だが今はそれを憂いている時ではない。フィールはディアリオに問うた。
「彼女〝あの連中〟って言ってたわね」
「あぁ、確かに言っていた」
「誰のことなのか引っかかるわね」
「そうだな。だが、判断するには情報が少なすぎる。さらなる調査が必要だ」
「えぇ、彼女とカザロフ博士の仇も撃ってやらないと」
平穏な日々を守るために彼らは存在していた。だが、その平穏な日々を甘受する時は、まだまだはるか先のことだ。
そもそも、犯罪行為に手を染めるもの全てが自らの悪意で事件を起こすわけではない。望まぬ悪事に無理矢理に引きずり込まれる者も居る。人間に使役されるアンドロイドならなおさらのことだ。
「とりあえず、現場確保だ。事件の後始末をしないとな」
「了解、アタシはこのまま外に出て、まだ何か残されてないか確認するね」
「頼む。私はビルの基幹システムをチェックしながら兄さんたちのところへ戻ることにするよ」
「うん。解った。あとでまた落ちあいましょう」
フィールは表情を曇らせたまま兄の言葉に答えながら、歩き出すとビルの屋上へと向けて元来た方へと戻ろうとする。
ディアリオもまたフィールの行動を眺めつつ、彼もまたビルの階下へと足を向ける。
「それにしても、長い戦いになりそうだな」
「そうね、これからが〝始まり〟よね」
先は長い。だが、終わりはかならず来るだろう。
2人はまだ希望を捨てては居なかった。
@ @ @
そして、事件終結の報を耳にしたとある男たちがいた。
場所は銀座、その一等地にある高級クラブ。会員制であり看板すらないその店は限られた人間しか入ることはできない。客の機密を守るため店の名前すらないと言う徹底ぶりである。それゆえその店は表社会には知られることのない闇の著名人たちが行き交う場でもあったのである。
店の中は客同士のプライバシーを守るため一つあたりのテーブルセットが壁で区切られた構造となっている。そして、店の中央には舞台がありその舞台を囲むようにテーブルセットが並べられていたレイアウトとなっていた。
その一つ、大型の丸テーブルの周りに革張りの高級ソファーが複数並んでいる。その中の一つに腰を下ろしているのがステルスヤクザ緋色会の筆頭若頭・天龍陽二郎である。その隣に座らせているのは、腹心の部下である氷室の側近の中島女史だ。天龍の私的な用件に付き合ってくれた礼としてここに招いたのである。
普段なら天龍の両脇には麗しい女性が酌の一つでもしているのだろうが、今宵に限ってはそんな無粋な真似はしていない。相手が誰であろうと、天龍に対して礼儀を通し天龍のメンツを守ったのであればこれに報いるのが彼の主義であった。
そして、そのテーブルから見えているステージには、漆黒のグランドピアノが据えられており、そのピアノの鍵盤の上で踊らせているのは一人のピアニストである。
年の頃はまだ若い方で美しさと独特の鋭さが同居している。容姿は日本人とは言い難く明らかに欧州系の血が入っているのはわかる顔立ちであった。
今、奏でられている曲は、シューベルトのピアノ曲。彼の短い生涯の中で唯一と言っていい完成されたピアノソナタ十六番である。
そのピアニストが奏でる曲を中島女史は陶酔の表情で聞き入っていた。その傍らで満足げに微笑んでいるのは天龍である。四楽章にわたる長い演奏が終わった時、店内からさりげなく拍手が送られる。中島も当然のように賞賛の拍手を送っていたのである。
そのピアニストは立ち上がり観客に対して一通り会釈をするとその場を離れて天竜たちのところへと歩み寄ってきた。それもそのはずである今夜のこの演奏をオーダーしたのは天龍自身なのだから。
ピアニストの彼は無言で歩み寄り姿勢を正し一礼する。その彼に対して天龍は賛辞を送る。
「相変わらず見事だな。お前に接待役を命じて仕損じたことは一度もないからな、なぁ、コクラ」
コクラ、それが彼の名である。本名か芸名かは分からぬ。
「恐縮です」
彼の雇い主に対して再び一礼すると、その代わりに腰を下ろしている一人の女性に対して改めてお礼を述べた。
「コクラと申します。今宵は私の演奏を聴きいただき誠にありがとうございました。ご満足いただけましたでしょうか」
静かに微笑むコクラに対して、中島も笑みで返した。
「はい、お見事な演奏でした。まだ他にも素晴らしいレパートリーがあるとお見受け致します」
「ええ、ご要望とあればショパンでも、リストでも」
「リスト? 最難曲と言われるS139も?」
その問いかけにコクラは少し困ったふうに笑みを浮かべて返答する。
「改訂版でしたら、初版版は人間の演奏するものではありませんので」
「ですよね、私も初版をそらんじれるピアニストの方にはお会いしたことはありませんので」
「できればその初めての方になれればよろしいのですが」
「いいえ、素晴らしい演奏でした。また機会あればお聞かせください」
「はい」
中島女史の称賛の言葉にコクラは素直に礼を述べた。その時、彼らのところに現れた影がある。
「兄貴――」
「おぅ」
シンプルな問いかけに天龍は簡素に答える。現れたのは氷室である。そして彼の視線はコクラと中島の方へと向いたのである。
「二人ともご苦労だったな」
「氷室様、お疲れ様です」
氷室からの問いかけに労いの言葉で返したのは中島だ。
「氷室様、ご健勝そうで」
「相変わらずの見事な演奏だな」
「ありがとうございます」
コクラは氷室との関わり合いがあるのだろう。へりくだって声をかければ、帰ってきたのは労いの言葉である。
そして氷室はその視線を兄気分である天龍へと向ける。
「兄貴、事件の顛末が分かりました」
それはいわゆる有明1000mビル襲撃事件の終息の報せでもあった。
「で?」
天竜の事件の核心への問いかけは簡素である。
「マリオネット全機撃破されたそうです。唯一一体だけを残して」
「何?」
訝しげに問いかける天龍に氷室は明快に淡々と答えた。
「マリオネット・ディンキー配下の全マリオネットのうち最強の一体、ベルトコーネが全機能を停止して、そのまま警察に抑えられたそうです」
「〝死なず〟に気を失ったままでか?」
「いいえそこまでは――、ですがおそらくこのまま警視庁関連の研究機関へ運ばれると思われます」
「そうか完全破壊されたわけではないんだな」
「はい」
氷室からの報告に天龍は思案を巡らせる。
ダウンライトの薄暗がりの店内の中、天龍は不気味な笑みを浮かべる。
「そいつはいい」
「は?」
兄貴分の発した予想外の言葉に氷室も思わず問い返していた。
「馬鹿、分かんねえのか?」
「と、言いますと?」
「世界中であれだけ暴れまわっていた機体だ。これぐらいのことで止まるはずがねぇだろ? 小耳に挟んだ噂では、極めて特別な1体があのディンキーって爺さんの手元にはあったって言うぜ?」
「つまりそれがあのベルトコーネだと?」
「その可能性が一番高え」
兄気分である天龍のその言葉に氷室も思わずしたり顔である。
「なるほどなるほど、それでは相当に悲惨な血の雨が降るやもしれませんね」
「そういうこった。警戒と情報収集を怠るな。組織の隅々にまで監視の目を設けてやっこさんらしい動きは絶対に見逃すな。いいな?」
「はい、天龍の兄貴」
そして天龍はコクラと氷室を交えてこう告げた。
「仕事の一区切りだ、祝杯といこうじゃないか」
そして新たにボトルの封が切られてグラスにそそがれる。そして今宵ここでも一つの宴が始まったのである。