第32話 終わる者始まる者/退路にて
メリッサは足を止めた。そして、通路の外からの光で逆光となっているシルエットに目を凝らせば、その小柄なシルエットはさらに語りかけてきた。
「退路は絶ちました。逃げ場はありません」
そう告げるシルエットは右手に何かを持ったまま歩き出してくる。その頭部から2対の翼を広げたシルエットの主の名を『フィール』と言う。
「屋上へと退避して簡易飛行装備にて滑空して距離を稼ぐ。古典的な方法ですね」
フィールはその右手に一振りのナイフ――ダイヤモンドブレードを手にしていた。フィールのナイフは単なる刃物ではない。フィールが使いこなすことでライフル弾に比肩するとも劣らない威力を発揮しうるのだ。
「飛行装備は体内に装備ですか? ビル周囲には日本警察のヘリが警戒任務を続行中です。すぐに補足されてしまいますよ」
フィールはメリッサとの間合いを確かめながら一歩一歩、着実にその距離を詰めて行く。
片やメリッサは、ネット越しの視界によって眼前の彼女の戦闘の有り様を克明に目にしていた。眼前の女性形アンドロイドがどれほどの戦闘能力を有しているかを。そして彼女が手にしているナイフの威力も、その両手に備わったワイヤー装備の厄介さも、嫌というほどに見知っているのだ。
事ここに至って、現在状況とフィールの存在とメリッサ自身との相性は最悪だった。
「仕事熱心ね。もう事件の首謀者は居ないのよ。少しくらい休んだら?」
「それはできません。私は自分の任務に誇りを持っているので」
冷やかし気味に問いかければ、フィールが返してきた言葉はすこしばかりメリッサの心を踏みつけにしていた。
「真面目過ぎよ。だから日本人って嫌いなの」
「別に犯罪者に好かれるために任務に付いているわけではありませんよ」
フィールの言葉に苛立ちを感じたのか、メリッサはつい舌打ちしてしまう。そんなメリッサにフィールは更に言葉をかけた。
「ちょっとしたインスピレーションが湧いたので、兄さんたちとは別行動をとっていました。アナタと鉢合わせしたのは予想外でしたが」
メリッサはフィールの挙動を警戒しつつ、フィールからは死角になる位置でその両手に球電体を作り上げていく。対するフィールもまた攻撃の手の内をすべて見せたわけではなかった。
挑発するようにメリッサが言う。
「随分と勘がいいのね」
「伊達に警察として経験は積んでいないの」
「そう――、それでちょっと悪いんだけど、そこから退いてくれない?」
「お断りします。アナタが不審人物ではないと確信が得られないので」
「それくらい良いじゃない」
「出来ません」
メリッサの求めをフィールは明確に拒絶する。
右手のナイフを印象づけつつ、頭部のシェルから一振りのナイフをそっと背面へと滑り落としていく。それと同時に頭部の3対の放電フィンの電圧を急速に上昇させMHD駆動用のコンデンサーを120%まで充電させて行く。
「融通きかせなさいよ」
皮肉りつつメリッサはその両足に力を込めて行く。
「警察が真面目でなかったら――」
フィールはその視界にメリッサを捉える。そして、内蔵された全てのセンサーの索敵対象をメリッサへと向ける。
「誰がこの街を守るのよ!!」
フィールの裂帛の叫びがこだまする。その叫びも、その凛々しい立ち振舞も。メリッサには嫌悪するものとしか感じられなかった。何故そうなのだろう? その理由をメリッサは自覚することも出来ぬまま内心を覚えた苛立ちをメリッサは叫びに変えた。
「そんなの知ったことじゃないわよ!!」
メリッサの叫びを耳にしつつ、フィールは全身の電磁バーニヤのプラズマ流と頭部の飛行用放電フィンの電磁波を、全開にさせて一気に飛び出していった。狭い通路を弾丸のように飛び出しつつ。左腕を背面越しにして、その左手の中から何かを手放して後方へと置き去りにしていく。
対するメリッサもまた両足に込めた力を一気に開放させた。人間離れした跳躍力と速力とでかけ出すと、跳ねまわるビリヤード玉の如く狭い作業用通路の中を飛び回りながらフィール目掛けて駆け抜けようとする。
2人がその狭くとも細長い通路の中で、その進路を交差させて通り抜ける前で数秒とかからない。
一切の小細工を拒否するかのような純粋なまでに真っ直ぐなフィールの軌道と、禍々しいまでの計算高さで裏打ちされたかのような屈曲したメリッサの軌道、この二つは瞬く間に交差したのだ。
フィールがメリッサに肉薄するその直前だった。
メリッサはその両手の平の中に隠し持っていた2つの球電体を一気に開放する。メリッサの背後とフィールの鼻先とで、すさまじいばかりの白色の光を通路内の空間に撒き散らしていく。通路を埋め尽くした光はフィールの視界を一瞬にして奪ったが、それでいてメリッサ自身には何の問題もなかった。
脱出のための進行ルートを安々と見つけ出し、すり抜けるようにフィールの隣を通り過ぎていく。
瞬時にして繰り出されるナイフからも逃げおおせるとメリッサはその顔に笑みを浮かべつつ、振り返らずに走り去ろうとしている。
「悪いわね」
低い声で強い侮辱のニュアンスを込めながらメリッサはつぶやく。だが、フィール自身もその顔には確信めいた強い笑みを浮かべていたのだ。
「私は言いましたよ?」
低くもよく通る声でフィールはメリッサに対して告げようとする。それと同時にフィールは左手の指先を動かす。それは後方へと放置したはずのワイヤーの塊をたくみに操作する。
「アナタに退路は無いって!」
そして、フィールが置き去りにしたはずの灰色の糸くずの如き塊は一瞬にして開放される。それはまるで海原を泳ぐ魚たちを一網打尽にする漁網のように通路いっぱいに広がったのだ。
「えっ?!」
何が起こったのかわからなかった。彼女の視界の眼前に広がったものが何よりも細い単分子ワイヤーだったことも災いした。まるで生きているかのように単分子ワイヤーは広がると、メリッサを包み込むかのように取り押さえる。
そして、フィールは速やかにワイヤーを引き込み回収して、メリッサを完全に取り押さえてしまう。フィールが仕掛けたそのトラップは、まさに瞬間的にその目的を果たしたのだ。
「くっ!!」
ワイヤーにがんじがらめにされながらメリッサはその体をよじっていた。床へと倒れこんでいても、なんとか脱出しようとも全力でもがき続けていた。
フィールは立ち止まり振り返り、メリッサの下へと戻ってくる。そして、強い視線でメリッサを見下ろすとこう告げたのだ。
「不法侵入です。現行犯で拘束します」
一切の抵抗を封じるが如く、フィールはその右手に握っていたナイフをメリッサの喉元へと突きつける。そして、再度言い聞かせるようにメリッサへと声をかける。
「姓名を名乗りなさい。何者ですか?」
「誰が答えるか!」
素直に恭順する意思はメリッサには無い。その敵対的な態度を諌めるかのようにフィールはあえてメリッサの首筋にほんの僅かにナイフで傷をつけた。リアルヒューマノイドとして精巧に作られているのだろう。その首筋に薄っすらと赤い体液が滲んでいる。
「答えなくとも構いません。あなたが生身の人間ではないことは様々な情報や状況から明確です。あなたを破壊して完全無力化して連行するだけです」
本気の敵意だった。大人しく投降する意思を見せなければ、他のマリオネットたち同様に破壊するつもりなのだ。
「くっ!」
メリッサは歯ぎしりして呻くと、拘束されたままフィールの顔を見上げて睨みつけていた。
完敗だった。もはや為す術はない。
「……メリッサ」
「それが氏名ですか。所属は?」
フィールがさらに問うてくる。だが、メリッサはそれ以上は答える気にはどうしてもならなかった。
「答えなさい」
フィールの問いにメリッサは沈黙する。ナイフに力を加えて再度警告するが、それでもメリッサはそれ以上は何も答えなかった。
視線すら合わせなくなったメリッサをフィールは持て余しつつあった。
この不審人物をどうするか? 思案にくれようとしていたその時、メリッサが現れた方向から、また新たな影が現れてきたのだ。
「誰!?」
右手でメリッサに警告しつつ、左手のナイフをいつでも投げられるようにしてフィールは問いかけた。その問いに返ってきたのは聞き慣れたあの声だ。
「私だ。フィール」
「ディ兄い?」
「ナイスタイミングだな、フィール」
フィールに穏やかに問いかけつつ足早にかけてくる。それはグラウザーとのやり取りを終えて現れたディアリオだった。
「なんだ、脅かさないでよ~」
新たな敵と錯誤していたフィールは安堵の声を漏らす。思わず気が緩んだのか、素の彼女に戻ったような口調で語りかけていた。
ディアリオはそんなフィールの声を耳にしつつも、フィールの手によって押さえられたメリッサの方へと関心を向けていた。ディアリオはフィールに告げる。
「よく拘束できたな」
素直な気持ちでの賞賛の意図が込められた言葉だ。
「楽勝よ。これくらい」
そうあっさり言い切るとフィールは視線を眼下のメリッサに落とす。
「逃げることに意識が向いていて散漫になってる犯人ほど楽なものは無いわ」
語り口は穏やかだったが、その言葉の意図は明らかにメリッサを強く侮辱する意図を持っていた。当然に、その言葉を耳にしてメリッサは強く歯噛みしつつフィールへと恨みがましい視線を向けている。
だが、どんなに視線や態度で敵意を露わに発散していても、それはフィールには届かない。単分子ワイヤーによる完全な拘束とダイヤモンドブレードによる物理的な警告行為。その2つを前にしてメリッサは身動ぐことすらできなくなっていたのだ。
――ギリッ――
歯ぎしりするような音が響くが、それを意に介さず、冷ややかに冷静な視線でディアリオが彼女を見下ろしている。ディアリオもまた警告を込めて電磁警棒を抜き放つと最大出力で帯電させながら、それをメリッサの眼前へと突き付けつつ彼女に語り始めたのだ。
「あなたという存在について調べさせていただきました」
メリッサは知っていた。この電脳特化のアンドロイドはガルディノを打ち破り、特攻装警たちの戦闘をその持てる電脳機能をフルに駆使して完璧にバックアップしている。そのディアリオが語る『調べる』と言う言葉のその重さは威圧感よりも不安と恐怖をもってメリッサに襲いかかってきていた。
メリッサは、視線をそらそうとするが、そのあまりに威圧感ある気配に気圧されて視線を外すことができなくなっていたのだ。
ディアリオは無言のままのメリッサを無視しつつ語り続ける。
「これからあなたとディンキー・アンカーソンについて調べさせて頂いたことについて少々尋問させていただきます。しかしながら、あなたには黙秘する権利がある。答えたくない事は答えなくとも結構です」
当然とも言える宣言を耳にしてメリッサはディアリオを凝視しつつ沈黙するより他はなかった。ディアリオはその沈黙を、尋問を肯定した証拠とみなしてさらに問いかけていく。
「そもそも、マリオネット・ディンキーは今から3年ほど前に死亡しています。遺体が判明したわけではないが、様々な二次情報や情況証拠から生存していないのは明らかです。その死んだはずのディンキー・アンカーソンを存在させている技術として考えられるのが、旧ロシアの軍部内で研究されていたと言う【ネクロイドテクノロジー】と呼ばれる死者蘇生技術システムです」
ネクロイド――その言葉が告げられた時、メリッサの顔色が瞬間的に変わったのをフィールは見逃さなかった。
「あなた、なにか知っているようね」
フィールの問いかけにもメリッサは答えない。