第31話 ビヨンド・ザ・ヒーロー/道化は導く
「アトラス?」
ディアリオはそのシグナルを感知した。
否、それまで感知していたはずのアトラスからの確認信号が途絶したの気づいた。
第4ブロック階層の管理センターを出てビルの構造データから第5ブロック階層への道を探していた時だった。
〔アトラス兄さん! どうしました! 兄さん!〕
ディアリオはネット回線越しに必死に叫んだ。なにかとてつもないトラブルが起きている。基本的な確認信号すら途絶えるとはタダ事ではない。繰り返し存在証明の確認プロトコルを送信するがネットの向こう側からは応答は一切ない。慌てて、回線接続先をセンチュリーに切り替える。
〔センチュリー兄さん! 何がありました?! 応答してください!!〕
返答がない。最低限の物理プロトコル信号はつながっているが、音声応答やセンサー信号のフィードバックは完全に途絶していた。
ディアリオの心理を恐怖が押し包む。なによりも最悪な状況が起きていることを覚悟せざるを得ない。
「まさか――」
ディアリオのその脳裏に第4ブロックでベルトコーネとやりあい敗北した時のことが自然に浮かんできた。その時と同じ――、否、それ以上の事態が起きている可能性があった。
「そうだ、もう一人!」
ディアリオはエリオットに回線を繋ぐ。回線は途絶しておらず、回線の向こう側からはその安否を保証出来るだけの信号が確実に帰ってきていた。
〔エリオット! 応答してください! 何がありました! エリオット!〕
〔――――――〕
返答が無い。こんなことは通常ならありえない。特攻装警の中で最も強いメンタルを有しているはずのエリオット、それが言葉を発することすらできない状況などありえるのだろうか?
「なにが、何があったんだ!?」
ネットワークシステム越しに状況を確認したいところだが、未だ建設途中の第5ブロック階層へと入り込み初めたためか、ビルシステムの無線通信設備と繋がりにくくなっている。ビルの監視カメラにアクセスすることは困難だった。
「くそっ!!」
悪態をつきながら先を急ごうとディアリオは足取りを早めた。
細い円形通路からメンテナンス用階段を通じて第5階層ブロックへと入り込む。そして、広い直線通路へと出てくる。そこは第5ブロックのフロア基底部分であり、グラウザーたちがディンキー一派と一戦を繰り広げている場所の足元の真下であった。
ディアリオは、フロアの中央近くの場所から外周方向へと伸びる通路をひた走った。
「急がねば」
焦りを抑えつつもディアリオは先を急いだ。だが、通路のその先に見えてきたのは一つの見慣れぬ人影である。不意にディアリオの足取りが止まる。そして、その視線は己が向かう先の方向を凝視する。そこにディアリオはこの場にはありえない物の存在を目の当たりにしていた。
「な――?」
それは形容しがたいものであった。
赤い衣、黄色いブーツ、紫の手袋に、金色の角付き帽子、角の数は2つで角の先には柔らかい房状の球体がついていた。襟元には派手なオレンジ色のリボンが付けられており、顔面には白いプラスティック製の道化のマスクが装着されていた。マスクは純白であり、ディアリオに対して斜めに背中を向けているためその顔全てを伺うことは難しい。
だが、ディアリオはその者の名を識っている。
「ピエロ?」
そうだ、まごうことなきピエロだ。ジェスターともいう。アルルカンとも呼ばれる。
それは道化者と呼ばれ、かつては古典的な権力者のもとで滑稽に人を笑わせ、その愚かしさから優越感を与え、時には痛烈な皮肉をまき散らすことを許されていた。だが、時代の流れとともにその存在は不要とされなくなり、今ではサーカスの幕下においてのみ存在するだけである。それが今、ディアリオの目の前に存在していた。
窓のない閉鎖通路のまっただ中で、スポットライトのように非常灯の光を浴びながら、それは気を失ったままの一人の少女を両腕で横抱きにしていた。
そのピエロはディアリオに対して背中を向けていたが、不意にその身を反転させると小首を傾げながらディアリオをじっと見つめ返してくる。そして、少女を抱いたまま器用に右手の人差指を立てると、その指を振りながらクスクスと笑いつつディアリオに告げた。
「違いますよ。悲しみを背負っただけのピエロじゃぁ、ありません」
無表情に白かった道化のマスクの色が変わる。虹のように色が帯状となり波打っている。その表情を容易には見せなかったが、その虹色がカーテンが左右に開かれたかのように割れていき、その向こうからライトブルーの輝きを帯びながら満面の笑みを模した顔が浮かび上がってきた。
「わたしはクラウン」
それは偽りの笑みだ、造られた笑みだ。その笑みの向こう側に何が隠されているのかは皆目見当がつかなかった。クラウンと名乗るそれはディアリオの方へと数歩進み出てくる。
「ちょっとした野暮用でこの子を迎えに来た所でしてね。こっそり姿を消すつもりだったのですが、あなたにバッタリと鉢合わせしてしまいました」
クラウンは再び笑い始めた。顔をゆっくりと上下に揺らしながら不気味に耳障りな音程で間延びした歪んだ笑い声をその閉塞した通路の中に響かせ始めたのだ。
「あなたに会わずに逃げることも出来たのですが、ちょっとあなたに興味がわきましてねぇ。ご挨拶をしなければと思いまして」
クラウンは歩き続けた。意図的に床の上でコツコツと足音を鳴らしている。そして、その規則正しい音は、クラウン自身が放つ得体のしれない気配と相まって、近寄りがたい不気味さを醸し出している。ディアリオから見てしっかりとその姿を捉えられるはずの位置まで進み出てくると不意にその不気味な笑い声を止めて前かがみに頭を下げ始めた。
「お初にお目にかかります。わたくし、クラウンと申します。以後、お見知り置きを――」
挨拶し終えると体を前傾させたまま顔だけを上げる。洗練されたムダのない動きでだ。
一方で、その視線はあきらかにディアリオを見ていた。
「ねぇ? 日本警察のアンドロイドのおまわりさん! ウフ、ウフ、ウフフフフフ――」
わざとらしい作られた口調で囁きながらクラウンはまた小首を傾げつつ笑い始めた。けっして広くないこの通路の中ではその声はひときわ耳障りであり、ディアリオにいらだちと混乱を与えてくる。
「貴様、何が言いたい? それよりここで何をしていた!」
ディアリオはとっさに腰から愛用銃のクーナンを抜き放っていた。無論、行動の自由の少ない閉ざされた通路の中ならば外すということはありえない。それを見越して両手で銃を構え銃口をクラウンに向ける。十分すぎるほどの威嚇を行いつつディアリオは未知なる相手への探りを入れる。
「正当なる理由なくこの場にいるのであれば、不法侵入でその身柄を拘束する事になるぞ」
銀色に鈍く輝くその銃口を突きつけられても、正体不明のその道化者はいささかも怯むことがなかった。そればかりかクスクスと薄気味悪い笑い声を上げつつ皮肉混じりに話しかけてくる。
「おお、怖い怖い! 私の方は丸腰なのに、何も武器は持ってないのに、あなたは私を撃とうとおっしゃるのか。もう少し落ち着かれても良いんじゃないですか? アハハハ!」
「ふざけるな!」
「ふざけてませんよぉ、私はいつでも真面目ですから。だってあなた――」
クラウンはまたも前傾に頭を前へと出してくると偽りの笑顔の視線を向けながら諭すように問いかけてくる。
「ふざけるのが、道化者のそもそものお仕事じゃないですか?! アハハハヒハ!」
そして、クラウンは右手の人差し指を立てて左右に振る。
「お仕事するなら楽しくやらなくては! ね!」
クラウンがディアリオを嘲るかのように問いかけている。そこに誠意や真面目さは無くその本心は一切が伺い知れなかった。だが、ディアリオは自らの視界の中、そのクラウンが抱きかかえている物が、ただの人間の少女ではないことをすぐに理解していた。
ディアリオはクラウンからの問いかけを一切無視して、照準をクラウンの眉間に狙いを定めた。
「その容疑者をこちらに渡してもらおうか」
「あら、そう来ますか」
「無論だ。マリオネット・ディンキー配下の一人、個体名『ローラ』、そのまま逃亡幇助を見逃すわけには行かない」
その少女には見覚えがあった。フィールが交戦していたあのマリオネットの一体だ。
ディアリオは威嚇効果を込めて、あえて手動で撃鉄を起こした。
「大人しくこちらへ渡せばそれでよし、引き渡さなければ攻撃を加える」
ディアリオの言葉にクラウンは体を起こしていかにも愉快げに声を弾ませながら答える。
「嫌ですよ♪」
「逃亡幇助で身柄を拘束するぞ」
「無理ですよ~」
「無理じゃない!」
「分からない人ですねぇ」
「わからないのは貴様だ!」
ディアリオが叫ぶ。そして両手でクーナンマグナムを狙い定めると一切の迷いなくその引き金を引いた。撃鉄が雷管を叩き炸薬が発火して弾丸は攻撃対象めがけて飛び出して行く。
かたや、クラウンは自らの顔面めがけて飛来してくる鉛弾を目の当たりにしつつも一切の身動ぎすらしなかった。
「だから言ったじゃないですかぁ~♪」
そう語るクラウンの仮面の色は純白だった。目もなく、口もなく、一切の笑みすら無い。限りなく無に近い白がそこにある。それはピエロめいた服装をしただけの一切の虚無だった。
「無駄だって」
その言葉と同時に、弾丸はクラウンに当たらなかった。クラウンが放った言葉が不可思議な力を纏った言霊のように思えるほど不思議な光景をディアリオは目の当たりにしていた。
弾丸は目に見えない壁に遮られたかのように、空中で一切の衝撃を発すること無く、空間上の一点で静止していた。火薬の炸裂によって与えられた一切の物理運動を放棄して空中の一点で静止する弾丸はまるで魔法かマジックのようだった。
ディアリオの脳裏を驚きと疑問とが襲い一切の言葉を奪い去っていく。持ち前の強靭な理性で理解して処理しようとするが、プラスティック張りの床の上で軽い音を立てて弾けるその弾丸があらゆる説明を拒否している。
――キィィン――
それは異様な光景だった。弾丸が静止して床に落ちる際に、どこからか吹き抜けてきた一陣の風がそこに物理的な障壁が存在しないことを証明していた。なによりもクラウンは身じろぎすらしていないのだから。
「な――、何が起こった?」
漸くに絞り出した言葉をあざ笑ったのはクラウンだった。純白の仮面の上、真っ赤な色の唇が浮かび、その唇の両端が厭味ったらしく持ち上がっていく。
「ほぉおら、無駄だった!」
唇が開く。顔全体に広がるほどの勢いで、そしてそこから溢れでたのは狂気だった。
「無駄だ! 無駄無駄! 無駄ー! あ~~~~っ! はははあは!! ハヒィーーーーィ!! 無駄ー! この国も、この世界も、秩序も、治安も、それを守ろうとする正義も権力もみぃ---ンな、無駄だよぉーーーん! ア~~~~ッアハハアハハーーッ!!!」
その閉塞通路の中、灯りが消え漆黒の暗闇が訪れる。その暗闇の中で壊れた笑い袋のようにゲラゲラと笑い続けるクラウンを前にしてディアリオは呆然と立ちすくむしか無かった。そして、その狂気の総仕上げとばかりにクラウンの身体は空中へと静かに持ち上がっていく。
そのクラウンはなおもローラを抱いたまま、ディアリオへと更に語り続ける。侮辱と憐憫と哀れみと歪んだ愉快と交えながら止まらぬ狂気のまま、その正体不明の道化師はディアリオへと暴走する言葉を洪水のように送りつけるのだ。
「無駄な努力を続けてらっしゃる日本のブリキのおまわりさんたち! ワタクシから心より敬意を表します! あまりに愚かしく滑稽のなので心より笑わせていただきます! あーっ、おっかしー! 必死にお金をかけて装備を作って武器を作って命を費やして、それでこの有り様! これから果たして何人の命が奪われるんでしょうねぇええ??
それになにより、あなた達は知らなさすぎます! この世界の裏側に潜むとても! とても! とてもとてもとても! 醜く歪みきった欲望と言う名の巨大なシステムの存在に! そしてこの世界はただそれに貪られるだけの餌場だということに! そんな物を後生大事に守ってたってな~んにもできません! あなたも! ワタシも! この娘も! あのディンキーとか言う妄想老人も! み~んな無駄! せいぜい頑張ってくださーーーい! キャハハハアハハハハハハハハハハ!!!」
耳障り極まりない残響を残しながら、クラウンのシルエットは闇の中へと霧散していく。それはクラウンだけではない。彼がその両腕に抱いたローラというの名のマリオネットすら異空間へと引き込まれるかのように霧散していくのだ。
為す術はなかった。ディアリオは何も出来ずにその光景を漠然と眺めるしか無い。言葉をなくし、戦意をなくし、呆然と佇むディアリオはギリギリの心理状態の奥底からたった一言だけ絞り出した。
「お前は――誰だ?!」
空間の中、浮かんでいるのは、色とりどりに色彩とメイクを変えていく、あのマスクだけだ。顔面いっぱいの唇が消え、代わりに浮かんできたのはサーカスの幕の下で滑稽に振る舞うあの悲しきピエロだ。目を縁どり、唇を大げさに表し、鼻は丸く縁取られている。そして、右目の縁取りの下に一滴の涙が光り輝いていた。
「おや? まだアナタの〝意思〟は折れませんか? さすがは日本警察の誇る最強の〝頭脳〟だ」
その語り口に嘲りはなかった。冷静にディアリオを評価する誠意が滲んでいる。ディアリオは沈黙こそしたが一切狼狽えること無くクラウンの仮面の方へと歩み出そうとする。その行動を評してクラウンがさらなる言葉を吐いたのだ。
「アナタのその強い意思と真っ直ぐなポリシーを評して答えてさし上げましょう。私はクラウン、正義も悪も垣根なくそれぞれの心の中の正義の為に戦う者を、ただ見守る為だけに姿を現すちっぽけなちっぽけなジェスター」
それは穏やかで静かな声だった。そして、素直に心に響く、真人間が放つ言葉だった。クラウンの言葉の変化に改めて驚くディアリオにクラウンは穏やかに語りかけてきた。
「さ、お行きなさい。この上であなたの兄弟が待っています。古の民族の名を騙る狂気の残骸に精一杯抗うために戦っています。ですが、時間的な余裕はありません。4人のうち3人が矢尽き刀折れ、最後の1人が今なお戦おうとしている」
クラウンの言葉にディアリオは戦慄した。その言葉が本当なら先ほどの通信状況と符合する。
「最後の1人だと?」
「えぇ、そうです。そして、それはあなたの新しい弟さんです。その彼がアナタの助けを待っています。この戦場にて倒れた衛士たちに報いるためにもあなたは立ち止まってはなりません。あなたが銃口を向けるべき相手は他にいます」
灯りが戻っていく。非常灯が一つ一つ灯りだしディアリオの視界は戻って行く。そして、空中に浮かんでいたそのマスクは明るさにかき消されるかのように虚空の中へと完全に消えた。何処からとも無く聞こえてきたのはクラウンの声である。
「ワタシはクラウン。またどこかでお会いするでしょう。敵か味方かは保証できませんが。では、それまで――、ごきげんよう――」
そして、完全に明るさと視界が元通りになる。あとに残されたのは呆然と佇むディアリオただ一人である。一瞬辺りを見回したディアリオだが。そこには何の残骸も証拠も残されては居なかった。理論や理屈で何が起こったのかを思案しようとする自分がいたが、ディアリオはそれを無駄だと判断して頭のなかから追い払った。
「行こう――」
意識を集中させ疑念と不安と迷いを追い払うとディアリオは駆け出していく。向かう先は第5ブロック内へと続くこの通路の行き着く場所である。
















