5:午後7時:新宿駅付近高層ホテル最上階高級中華レストラン『菜天鳳』
新宿駅から3分ほど離れたところに20階建ての高層ホテルがある。私鉄系の経営の高級ホテルであり、その最上階層は上流階級御用達の高級店が並んでいる。その中の中華レストランの1つが『菜天鳳』である。
【正統なる本格中華料理】というのが売りであり、本土の中国や香港や台湾などから腕に自信のある本職の中華料理人を集めてきて客に提供することを売りとしている高級中華料理店である。
その店舗内は入ってすぐは一般客向けのフロアだが、入り口からすぐに枝分かれして人目につかないフロアの奥の方へ設けられた部屋が数室ある。
特別な客向けの〝特別個室〟である。
その特別個室の中の一つをほぼ毎日のように頻繁に利用する常連客がいる。店員の誰もがその本名を知らず予約は必ず偽名で行われる。その君にも一定のパターンがあり店長やマネージャークラス以上ならその人物が誰であるかをすぐに理解する。
そしてその特別個室の一つが用意され彼をいつでも迎えるのである。
その日はシンプルなディナーであった。午後4時に連絡が入り午後6時半にその〝特別な客〟が姿を現した。店員の誰もが緊張を強いられる一瞬である。そして彼専属の女性給仕役が、来店した彼を特別室へと招いていく。そして誰にも、護衛にすらも邪魔されない特別な時間である。
高級な素材である樫の木の両開き扉を護衛する様にスーツ姿の男性が二名立っている。その奥で一人の男が昼食をとっていた。
メニューはフカヒレのスープをメインに、点心類を豊富に、そして魚料理を加えている。そのテーブル上には酒はない。
年の頃は40代後半、野心も行動力も最も勢いが乗った時期である。
髪の毛は黒髪をラフなオールバックになでつけている。着込んでいるのは高級三つ揃えスーツ、足元にはトラディショナルシューズを履き、服装の仕立てだけなら上流階級のエグゼクティブビジネスマンに見えなくもない。だがその目元に浮かべる視線は何よりも剣呑である。
「おい」
男が冷淡に声を発する。するとその部屋に1人だけ佇んでいる女性給仕役が歩み寄る。艶光りする布地に金糸で刺繍が施されたチャイナ服姿の彼女は男の発する剣呑な気配に臆すること無くしずしずと小首をかしげながら男の求める物を読み取り提供していく。
男の手元のグラスがからになっていた事に気づいて、彼女はよく冷えた中国茶をグラスに注いでいく。そして彼の手元の取り皿が汚れているのに気づき、予備の取り皿に替えてゆく。何も余計な会話が無いのは、彼女の洞察力が鋭いからであり、常連客のその男の行動と要望をよく理解しているからである。
「ご苦労」
ねぎらいの言葉をかけるが、彼女はただ静かに微笑むだけである。
小籠包の入った小型の蒸籠を空にする。あらかたの料理を食し終えたその時である。特別室の片隅に置かれた木製のサイドテーブル。その上に置かれた古風なダイヤル式の電話機が鳴った。今どきのご時世でダイヤル式の回線はありえないが、機能性より雰囲気とムードを狙ったセレクトであった。
「喂」
中国語で〝もしもし〟に相当する電話での挨拶である。電話の向こうで男性が手短に話しており、聞き終えると彼女はさらに告げる。
「清稍等一下」
そう答えると電話のダイヤルに模した操作ボタンの中から【保留】を選び通話を停め男性に向けてこう声を発したのである。
「陽先生、ご来客です」
「誰だ」
「聖先生でらっしゃいます」
「通せ」
「はい、お通しします」
中華圏の言葉で〝先生〟とは、英語の〝ミスター〟の様な意味付けの言葉だ。日本語なら〝〇〇さん〟や〝〇〇氏〟となるだろう。
給仕役の女性は男にそう答えると再び受話器に向けて会話を再開する。
「請出示客人」
来客者を通す様に伝えてから30秒もしないうちに、部屋の扉は開いた。そしてそこから現れたのは1人の男性であった。
「よぉ、天龍」
「お前か」
男性が視線を向ければ、そこに居たのは身長180くらいの長身の美形の男で薄灰色の高級ジャケットをノーネクタイで着こなしていた。さらに長い茶髪をなでつけるように後ろへと流している。その語り口も態度も軽い物で剣呑さは微塵も感じられない。それは先にこの部屋に居た男とは全くの正反対のものであった。
来客者は先に部屋に居た客人の態度が不満なのかごねるように問い返した。
「なんだ、なんだつれねぇなあ、相変わらず愛想のねぇ男だ」
「馬鹿野郎、ヤクザが愛想よかったらメンツ立たねぇだろう。それよりくだらねぇ馬鹿話するために来たのか?」
「いや? お前がここに居るはずだから一緒に飯でも食おうと思ってな」
「お前と一緒に飯食う趣味なんかねえよ。それにもう食い終えたところだ」
「なんだもう食ったのか? 早えな」
「〝あの島〟の会合に顔を出さないと行けないんでな」
「七審か?」
「あぁ」
軽薄男の軽い問いかけに、自らをヤクザと言い切ったその男は荒っぽく言い返す。だがその男はさらに言葉を続けた。
「聖、その名は軽々しく口にするな」
視線だけで相手を殺すかの様に鋭く睨む。軽薄男は自らの発言の甘さを詫た。
「悪かった。余計な口だった」
「気をつけろ。どこに〝耳〟があるかわからん。今の御時世、どれだけ危険知ってるだろう?」
「そうだ、そうだったな。気をつけるよ」
「そうしてくれ。お前は不注意が過ぎる、今に命を落とすぞ」
「分かった」
ヤクザ男の詰問に、軽薄男は柄にもなく真面目に返答する。そこには先程までの軽々しいやり取りは微塵も感じられない。互いをしっかりと理解し合い信頼しあった相互信頼があるだけである。
その二人のうち――
軽薄男の名は聖蓮、ヤクザ男の名は天龍陽二郎と言う。
「それより何の用だ」
天龍は話の流れを区切るように聖に問いかける。突っ立っていた聖は天龍の隣に腰掛けながら問いかけはじめる。
「お前に1つ聞きたいことがあってな」
聖の言葉に天龍の視線が彼の方を向いた。視線と視線がかちあい聖はさらに言葉を続ける。
「お前、一体何をしようとしている?」
不安げに、それでいて若干のいらだちを込め、聖は天龍に言葉を浴びせた。
「聞いたぞ、海外の重要テロリストを引っ張り込もうとしているそうじゃないか! 海外の裏社会や犯罪勢力と連携を図るのは俺も反対はしない! だがお前が相手をしようとしていたヤツについて調べさせてもらったがとんでもない奴だぞ! 日本国内に招き入れて何をしでかすかわからないぞ? どう言う事だ天龍? ディンキー・アンカーソンがどんなやつか知っているのか!?」
天龍は聖の剣幕を馬耳東風とばかりに微動だにしない。右手で冷えた中国茶の入ったグラスを手にすると一口それを飲み込み、言葉を返した。
「聖、お前は日本がこのままでいいと思っているのか?」
「なに?」
聖が反応したのを視線で追うとさらに続ける。
「この国はあの馬鹿げたお祭り騒ぎの2020年代のアレで浮かれまくった上に、派手な経済計画をぶち上げた。昭和の日本の経済復興よもう一度ってわけだ。だが――、その結果どうなった? この国はあのオリンピックってド派手イベントでマトモになったか?」
天龍は聖を鋭く睨みながら問いかけていた。その視線に天龍の思いの必死さが滲んでいる。
「――まぁ、平和になったかと言えば疑問はつくな。なにしろ余りにも沢山の余計な連中がこの国に入り込みすぎた。今や外国人に乗っ取られたエリアが溢れかえってる。正直思うよ。一体この国は誰のものだ? ってな」
抑揚のある特徴的な語り口、聖は会話を楽しんでいるようでその言葉の端々には怒りが滲んでいた。
「そう言う事だ。今や俺たち生粋の日本人の知らないところで勝手に物事がドンドン進んでいる。お人好しの島国人を置き去りにしてな。だからと言って指を咥えて黙っているわけにはいかん。この国はオレたち自身で動かすべきだ。表の社会も、裏の社会も」
天龍が語る現実に聖は頷く。
「当然だ。だから俺は今の会社を築き上げた。日本人である俺のこの手で、世界を牛耳れる多国籍企業体を作り上げるためにな。おれの作り上げた企業グループである『マイザー・エンタープライズ』、そしてお前の『緋色会』、さらに神埼の『岸川島インダストリアル』、この三つが手を組み、裏と表からこの国を掌握し、さらには世界へと手を伸ばす。それが俺達が共有した理念でありヴィジョンだった。だがそれとあの狂ったテロリストと何が関係有る?」
それは理想だった。現実を打破し、自分たち自身で主導権を握る――、一人の男として野心を持つなら当然の確信だった。天龍は聖が抱いた疑問に対する答えを口にする。
「アレはな〝試金石〟なんだよ」
「試金石?」
「そうだ――」
意味深な言葉を吐く天龍だったが、静かに凄みのある笑みを浮かべるだけでそれ以上は語らない。聖は天龍の語る言葉の意味をじっと噛みしめる。そして聖もまたニヤリと笑みを浮かべたのだ。
「なるほどそう言う心づもりか。でかい爆弾をわざと動かせば、それにくっついてる連中の足跡が嫌でも解るもんな」
「そう言う事だ。だいいちだ。どんなに高い技術があろうが優秀なアンドロイドを装備していようが、背後の協力者の存在なしに、世界中で暴れる事など不可能だ。ならばそれをあえてこの国に引きずり込むことで、世界の力の動きの現在の姿を顕わにできるはずだ」
「なるほど、よーく解ったぜ。まったく、お前らしいよ。自分から危ない橋にどんどん突っ込んでいく。それでいて絶対に落ちずに必ず渡り切る。そう言う男だったなお前ってやつは。なぁ? 広域暴力団緋色会筆頭若頭、天龍陽二郎さんよ」
それがこの特別個室の主の名だった。そしてその身に有り余る野心を抱えた男の肩書である。
その天龍は一通り食事をし終えて立ち上がると、彼専属の女性給仕役に視線で合図をする。彼女はまたあの電話機を取り上げ、操作し部屋の外へと連絡する。
「陽先生吃完了」
その声に聖がある事に気づいて天龍に問いかける。
「天龍、その女、大丈夫なのか?」
当然の問いかけであった。重要情報を聞かれれば、それが外部に漏れるおそれがある。機密保持の基本である。
だが問いかけられた天龍は足を止め、ちょうどたまたま彼の脇に佇んでいた女性給仕役に手をかけるとその首筋に触れる。
「問題ない。おい、アレを見せろ」
「はい、お見せします」
彼女は静かに微笑みながらチャイナドレスの襟元を緩めると首の根元の辺りの素肌を露出させる。そして数秒沈黙していたかと思うと――
――プシュ――
――と空気の漏れるような音を立てながら鎖骨の真下の辺りに隠されていたハッチをオープンにする。するとその中が露出したのである。
「どうぞ――」
彼女は聖にむけて告げる。そしてその中に見えたものを目の当たりにして彼は思わずつぶやいていた。
「サイボーグ? いや、アンドロイドか」
その答えに天龍ははっきりと頷いていた。
「俺もこう言う身の上だからな。常連としている店があって、俺に懇意にされているウェイトレスが居るとなれば、それを狙うやつがいつ現れてもおかしくない。実際、1人拉致られた事がある。一命はとりとめたが、人格はずたずた。再起不能になっちまった。今でも俺の息のかかった病院施設で介護している。だからこの店にも迷惑をかけないようにコイツを持ち込んで配置させたんだ」
「なるほど、アンドロイドなら拉致られて痛めつけられても、こっちには良心は傷まんからな」
その言葉に天龍は頷かなかった。ただじっと静かに微笑むだけである。
「俺は行くぞ。暇ではないんでな」
「わかった。この店の払いは俺が出しておくよ」
「そうか、ありがとうな」
聖の善意に、天龍は謝意を口にした。そしてそのまま扉の向こうへと姿を消したのである。あとに残されたのは聖だけである。
「さて、俺も少し腹ごしらえしていくか。おい――」
聖もこの店で昼食を取ることにしたらしい。天龍に従っていた女性給仕のアンドロイドに声をかけたのだ。
「俺も何か食べていく。用意してくれ。それと天龍の払いは俺が出す」
「是的、先生」
中国語で返答し、また部屋の外へと連絡をとる。聖が待つ間もアンドロイドの彼女は勤勉であり、不満1つこぼさずに淡々と役割をこなしていく。その姿を見つめつつ聖はこう口にしたのである。
「さて、この街と言うテーブルに、何が出てくるのか見させてもうよ、天龍――」
意味深な言葉を吐きつつも聖は悠然と席に腰掛けていた。かれの疑問に答える声は無かった。