第18話 天空の支配者/ー虚構の楽園ー
「マスター」
メリッサは再び、ディンキーに問いかけた。新たなる来訪者の存在に気付いたがゆえに。
「階下から、かねてからの来賓客が到着したようです」
メリッサのその言葉を耳にした瞬間、ディンキーの顔から微笑みが消えた。そして、ディンキーはそれまでとは異なる新たな喜びの表情を浮かべる。
それは幸福と平穏につながる喜びではない。狂気と悪意に連結されたエゴイズムの喜びである。
狂喜――、そう呼ばれるドス黒い感情のエネルギーが見えない波紋を生む。
その波紋に動物たちはその庭園の支配者の異変に気づく。好意と信頼にひたっていた彼らのそれは恐怖と警戒へと変わる。
リスが悲鳴を上げながら逃げ去っていく。他の動物達も一斉に駆け出しその場から離れていく。あとに残るのはディンキーとメリッサ――その二人だけだ。ディンキーは重く低い声で告げる。
「主賓が到着したか」
「はい、ディンキー様」
「行こう、我々も座に戻るぞ」
「はい」
メリッサからもたらされる情報にディンキーはなおも愉悦の表情を浮かべる。
一方でメリッサは己の主人を見守りながら、肉眼では見えない別な世界の映像を見ていた。情報通信網の向こうの監視カメラの映像である。
今のメリッサに見えるもの、薄い暗闇のハイテクの迷宮をさまよい歩く英国紳士――チャールズ・ガドニックだ。ディンキーが望んでやまなかった最高の来賓だ。
ディンキーの求めにメリッサは頷くと車椅子を反転させ二人がもと来た道を戻り始める。
動物たちが物影から二人を見る視線にはもう微塵の好意も残っていない。警戒と敵意だけが動物たちを支配している。まるで、世紀末を支配する魔界王を見つめる様に。
その奇跡の楽園の中に一迅の風がふたたび大きく吹いた。辺りに奇妙にうねったさざ波がおどる。
車椅子の車輪が歪んだ音を立て、ドーム内の楽園から立ち去って行った。
@ @ @
グラウザーはふと背後を振り返る。
月桂樹とアカシアと、あるいはおおよそ見た事もない様々な樹木の中を進み、彼はその出口を探し当てた。
スチール製の重い扉をグラウザーはくぐりぬけ、そこに記された記述を見る。
〔第5ブロック階層研究施設群最上階層 〕
〔 人工環境実験フロア〕
〔 〕
〔 ≪建築中・立入禁止区画≫ 〕
〔 〕
〔遺伝子合成生物育成実験施設群 〕
〔 完全隔離環境シェルタードームA棟〕
〔メカトロニクス擬似生物による 〕
〔 施設設備最終実験模擬起動テスト中〕
それが何を意味するのか現在のグラウザーには理解できていない。
グラウザーの目の前にはメンテナンス用の細い階段がある。今まで昇ってきたモノレールの通路とはまったく雰囲気が違い、その事に少し戸惑いもあった。それでも彼は前へ進み、階下へと降りて行く。なぜなら、それが先程の〝おじいさん〟から教えてもらった『答え』につながると思ったからである。
@ @ @
同じ頃、それよりも遥か下の空中では、生死の境の一瞬が展開されていた。
センチュリーはデルタシャフトから空中へのダイブの過程で、おおよそ望んだものとはまったく異なる飛行軌道を飛んでいた。彼の視界の中では、愛車がバランスを崩し、大地に激突する事を約束されているのが見えていた。
彼にはわかる。遥か眼下の地上では、彼の事を見て驚き、あるいは悲嘆にくれている者が大勢いるだろうと言う事を。だが、今の彼はその事を気に病まない。反対側を見れば己の兄――アトラスが着実にビルに近づきガラス壁面に近づいているのが見える。兄と視線がかち合ったその時、センチュリーはサムズアップで笑ってみせた。
人生とはあがく事。そう誰かが言っていたのを思い出す。
――やってみるか――
そうセンチュリーは呟きその思考回路を回転させた。
ふと、昔見せられた事のあるコミックのワンシーンが思い出される。
あの時の主人公は、高層ビルからほおり出された時に、44マグナムを抜いた。
自分にはそんな粋な事はできない。最も無難な選択をするしか無い。
【体外気流制御システム『ウィンダイバー』起動】
【最大制御にて滑空モード開始 】
体内のシステムを制御すると、自らの体表の各部で電磁波を放ち始める。そして、MHDエアロダイン技術により、一迅の風が起きようとしていた。それは簡易的な浮上力を生み出すとともに、彼の身体を1000mビルの方へと向かわせていた。
今、センチュリーの体が軌道を変え、1000mビルのガラス壁面に迫る。
次いで、センチュリーは腰の裏から大型のコンバットナイフを左手で引き出す。いざと言う時のために装備している戦闘工作用のナイフだが、彼もまさかこの様な局面で使うとは思いもよらなかった。
センチュリーは狙いを定めた。突き立てるのは1000mビルの構造材にもなっている複合材料のガラス素材だ。構造上の要所に命中させねば刺さりもしないだろう。
そんな事を考えながらセンチュリーがナイフを突き立てたのは、壁面に走る僅かな継ぎ目の上だ。
「ここだ!」
右腕に全力を込めて振り下ろす。そして、その数秒後、猛烈な反動と引き換えに確実な手ごたえが伝わってくる。流れ去っていた周囲の風景が静止し、センチュリーは確実に自らの落下を食い止めた事を悟った。
「やってみるもんだな、おい」
柄にも無く引きつった笑みが浮かぶ。だが、それも一瞬だ。センチュリーは己れの左手を壁へとあてがう。そして、全身の力の全てをその左手に集めて行く。左手の前腕部が電磁ノイズのうなり音を立てている。
センチュリーは己の体内の装備を使用するため音声コマンドを発した。
「イプシロン・ロッド」
同心円の衝撃波が、人が一人通過するには手頃な穴を壁に開ける。少なくとも運命の糸はまだ絶望的な結末へとは繋がれていない。ナイフから手を離し巧みにビルの中へと潜り込む。明かりは少なく、ビルの外からの自然光しかない。
足場を求めて立ち上がれば、そこはメンテナンス用の細い通路だった。
「さーて、どうすっかな。アトラス兄きとは完璧にはぐれちまったしな」
キャットウォークの様な張り出し通路は、このまま別な箇所に移動するには不都合だ。
また、眼下にあるのはこのビルの巨大な吹き抜け空間で、ここから下フロアに降りたとしても、どこへとつながっているかはまったく見当が付かない。
ふと見れば、20mばかりの空間を置いた向こうに、このビルのモノレールの軌道があった。それは緩やかなカーブを描いて上階層へと向っている。
とりあえずこれを辿ってみよう。センチュリーはそう決める。そして、彼は己れの新たな道を目指し足下を隔てる暗闇を飛んだ。
@ @ @
地上から歓声が上がった。
地上の機動隊員たちがセンチュリーとアトラスの咄嗟の行動の全てをその目に焼きつけている。
その中には、情報機動隊隊長の鏡石や、警備本部長の近衛の姿もある。
鏡石は、声もなく顔をほころばせている。彼女のその顔にはもう自己責任に潰されそうな悲壮感は残っていなかった。鏡石は、傍らの情報機動隊員に語りかける。
「さぁ、中央統合管理センターへ行くわよ。これからあとはディアリオからの連絡待ちよ」
「はい」
その場の数人の隊員たちがうなずく。鏡石は、その内の半数にまだビル内に残留している他の隊員との連絡確保を命ずる。近衛も鏡石を見送りつつ、じっと空を見つめた。
「あとは任せたぞ」
近衛が、遥か上空のセンチュリーたちに向けて小さく呟く。そして、特攻装警と言う存在を見守り、擁護し続けてきたことへの手応えと確信が沸き起こってくるのを感じていた。現場に限りなく近い職場にいる管理職として、有望な才能がしかるべき場所で生かされる事ほど嬉しい事はない。近衛は老婆心ながらにいつもそう思う。
かたわらで機動隊員が彼に声をかける。
「警備主任、外務省の方がお見えになられております」
「先刻、電話をかけてきた報道折衝の連中か?」
「はい」
「わかった。警備本部で待たせておいてくれ。それよりエリオットの突入の準備はどうなっている?」
「すでに完了しています。いつでも可能です」
「ご苦労、15分後に突入開始とする。我々警備部も動くぞ」
「はっ!」
近衛からの指示を受けて機動隊員は敬礼で返して走りだした。
一方で近衛の眉間には、苦しげな縦じわがくっきりと刻まれている。来賓たちの身の安全は、今さら言われなくとも十分理解している。しかし、現場の現状を見ていない人間から見れば、ただひたすら不十分でしかないのだろう。
近衛には、外務省から来た人間が一体何を言いに来たのか、始めからお見通しだ。
「デスクワークしかできん頭でっかちどもが」
近衛は柄にもなくため息をつく。そして大きく顔を振り、頭にまとわりつく邪念を追い払う。
歩き出し近衛は周囲を見渡すとエリオットが待機している方へと向かう。
「エリオット!」
そして見えてきたシルエットに声をかければ、そこにはすでに突入ミッションの準備を終えた、重武装状態のエリオットの姿があった。それは南本牧の再現である。
【スモークディスチャージャー 】
【指向性放電ユニット 】
【10ミリ口径マイクロガトリングハンドカノン】
【射出式捕縛用ネット 】
【脚底部高速移動ダッシュローラー 】
【 ……etc.】
エリオット本来の基本装備に加えて強行突入と対機械戦闘を想定した武装選択をしている。それに加えていくつかの追加装備も用意してあった。近衛の声に振り向いたエリオットの表情を覗えば、すでに作戦行動に向けて対戦闘目的のメンタルコントロールが行われている最中である。
「今から15分後に突入ミッション開始だ。ヘリに乗りビルから一旦離れた後に上空1000mまで上昇、ビル上空で降下を開始し、第4ブロック階層と第5ブロック階層の間にある換気用の隙間空間より強行突入する。その頃にはすでにアトラスやセンチュリーたちが露払いを済ませているはずだ」
近衛の力強くも理知的な言葉にエリオットははっきりと頷く。
「はい」
そして近衛は、我が息子のように手塩にかけて育成した眼前の鋼鉄の部下に気合を入れるように大声で告げた。
「思い切り暴れてこい!」
エリオットは踵を揃えると敬礼をする。近衛はエリオットにとり、上司であり、身柄引き受けの責任者である。そして――
「はっ!!」
――エリオットにとって近衛はまさに〝父〟である。
「特攻装警第5号機エリオット、出場します!」
その言葉を残してエリオットはヘリに向けて駆けていった。
近衛はその姿を見送ると警備本部へと戻っていく。
そして、近衛は、はるか上空で戦っている特攻装警たちに心のなかでエールを送っていた。