3:午後4時:東京湾中央防波堤外域/懐中時計
ノーラは身じろぎもせず、相手の姿を見つめている。そしてそれは彼女にとっても記憶に新しいものだったのである。
まるで蜃気楼の向こうから魔法のシェードをくぐり抜けてきたかのように、その全身像を浮かび上がらせてくる。それは明らかに立体映像によるステルス迷彩装備の所有者であった。
全身を覆う黒いコートにプラチナブロンドのオールバックヘア、目元を180度覆う大型の電子ゴーグル。そして、コートの合わせ目から垣間見える両手にはグローブがハメられている。メタリックでメカニカルな意匠のそれは、明らかにコンピュータネットワークへのディープなアクセスや特殊な電子機能を有していると思われるものだった。
そのオールサイバーなコスチュームの男の名をノーラは口にせずには居られなかった。
「シェン・レイ?!」
その者の名はシェン・レイ――漢字表記で『神雷』となる。
「神の雷がなんでこんな所に?」
ノーラの驚きの声とともに彼女の傍らにも別な人物が姿を現す。おぼろげな半透明なシルエットが徐々に実体化するように現れるのは、彼自身がステルス戦闘能力者である事を示していた。
デニムのジーンズに簡素なコサックジャケット、そして編み上げブーツに頭部にロシア帽を抱いた六〇過ぎの老齢のロシア人男性だ。頬や目元にナイフ傷を持ち、左目は瞳がなくそれが人工の眼球カメラである事を示している。その荒くれた鋭い気配から彼がノーラの護衛役である事はあきらかである。
「ご苦労、ヴォロージャ」
「да」
ノーラの護衛役は言葉少なに言葉を返す。もとより雄弁なタイプではないらしい。その彼が姿を表したのはノーラの眼前のコート姿の男と無縁では決して無かった。
ノーラは護衛役の彼を傍らに置きながら、強い口調でラフマニを問い詰める。
「あんた、〝神の雷〟にケツ持ちさせようってのかい?」
そこには若干の失望感が滲んでいた。これだけの仕掛けを考える度量と度胸を備えていながら、取引材料として担ぎ出した相手に苛立ちと怒りを覚えたのだ。だがそれを否定する声がする。
「そいつは違うな。ママノーラ、俺は何もしないよ。あくまでも行動を起こすのはコイツ――ラフマニ自身だ」
その言葉にノーラは苛立ちを飲み込んだ。そして静かにラフマニを見据えると彼の言葉を待つ。
「兄貴は自分からは特定の組織とは関わり合いを持たない。常に単独のフリーランスだ。それはあんたたちも知っていると思う。それにどんなに兄貴が睨みを効かせても、いつも俺たちと一緒に居るわけじゃない。実際、さらわれた4人も兄貴が居ない隙を狙って襲ってきたんだ。兄貴が居なくても大丈夫なように、俺がガキたちの護り手として一目置かれる存在にならないといけねぇ。だから俺が動く。警察のガサ入れ情報や組織の危機回避に役立つ重要情報、それを俺が兄貴から手に入れて〝手紙〟にして俺が渡しに行く。例えばこんなふうにな――」
そしてラフマニは懐から一通の手紙を取り出した。小奇麗な純白の封筒――、丁寧に封がしてある。それを差し出せば受け取るのは護衛役の初老の男である。受け取ったそれを裏表を確かめるとノーラへと渡す。単なる手紙であっても極薄の構造で爆発物を仕込むのは可能なのだ。組織の重職を護るためにはごく当たり前の行動である。
「ご苦労」
一言告げて手紙を受け取りそれを開封する。そして中身を確認すると僅かばかりの沈黙ののちに意味ありげに笑みを浮かべた。
「なるほど、考えたね? мальчик、手紙をラテン語でしたためるなんて考えたじゃないか。しかも文章は普通の世間話風に書いてある。お前さんがあたしにあてて書いたと気づかなければただの与太話か、物乞いにしか見えない。これはあたしが読む事で初めて意味を成す〝仕掛け手紙〟それも、あえてロシア語じゃ無いのも工夫したんだろう?」
「あぁ、ロシア語だとあからさまにママノーラたちに宛てたってのがバレバレだし、俺は英語、中国語、アラビア語、どれもできるけどそれだと今度は誰が書いたのか? ってのが解っちまう。ママノーラでも読めてなおかつ、特定の組織や特定の誰かにつながらない。そんな手紙にする必要があるんじゃないか? って考えたんだ。ラテン語なら日常会話に使うやつなんてそうそう居ないからな。そして、それを持っておれがあんたたちと接触する。まさか俺みたいなガキが情報提供者だなんて思うやつはめったに居ないさ。なにしろ俺は〝ハイヘイズ〟だからな」
ラフマニが講じたアイディアをママノーラは満足げに聞き入っていた。
「ラテン語は使えるのかい?」
そう問えばラフマニは顔を左右に振る。
「あんまり。だから覚えた。ネットなんかで調べるとそこから足がつくから紙の本をなんとかして手に入れて首っ引きで勉強したよ。とにかく死にものぐるいだった。一刻の猶予も無かったしな」
そしてラフマニに続いてシェン・レイと呼ばれた人物が口を開いた。
「実を言うとな、このプランは全部コイツが考えたんだ。俺は逆に反対だった。リスクが多すぎるってな。今回もこいつの身が危ないとなれば何も言わずに引っ張ってでも脱出する気だった。でも思ったよりあんたが話のわかる人で安心したよ。ママノーラ」
シェン・レイの賞賛の言葉を耳にして、ママノーラもまんざらでは無かった。口元に笑みを浮かべながらこう告げたのだ。
「〝神の雷〟にそう言われても悪い気はしないねぇ。まぁ、最初の取っ掛かりのアプローチからして素人のガキじゃないってはおもってたけどね。呼び出しに伸るか反るかは五分五分だった。мальчикが単なる餌で他の連中が待ち構えている可能性もあったしね。でも賭けは当たったね。мальчикアンタの勝ちだよ。あたしらがあんたと交渉に乗ったっていう言う〝事実〟――好きに使いな。あんたの後ろにいる子供らを守るためにね」
ノーラは素直にラフマニを称賛した。過程がいかなるものであったとしても、交渉とは相手を自分のルールとペースに引き込むことに意味が有るのだ。ラフマニはまさに己の思惑にノーラたちを引き込むことに成功したのだ。そしてノーラは続ける。
「でも一つだけ聞かせておくれ。なぜあたしらを選んだんだい?」
当然の疑問だった。今となっては交渉が決まっているのでどう言う理由だろうが知る意味はないのだが、ノーラ個人としては聞かずには居られなかったのだろう。その疑問を解くようにラフマニは言葉を吐いた。
「簡単な理由さ。中華系の黒社会連中は危険すぎるし、なにより同族の中華系以外のやつを絶対に信用しない。黒人系の連中は人当たりもいいし話はわかるやつが多いけど黒人であるか否かをどうしても気にする。南米系はノリがいいだけで信用できねーし、デジタルのネット連中は相手の正体がわからない以上は交渉自体が成り立たない。日本のヤクザは近づくだけでもゴメンだ。一つ一つ条件を絞って消していったんだ」
「それであたしらが残った?」
「あぁ、でもそれだけじゃないんだ」
ノーラの疑問に答えたラフマニだったがノーラの目をじっとみつめてこう答えた。
「あんたたちは唯一、〝人身売買ビジネス〟に手を染めてないからな」
それは余りにもわかりやすい理由だ。それを聞いてさすがのノーラも納得がいく。
「なるほどそう言うことかい。確かにそれはとても大切なことだね」
ノーラは納得していた。そしてそれは彼女自身が一つの価値観として共感する物があったのである。
「それじゃ、これからの交渉と接触はうちのウラジスノフに任せる。話はコイツと詰めておくれ。できるだけ長い間、いい関係を持とうじゃないか。これからもよろしくたのむよ」
「あぁ、俺からも改めて礼を言うよ。ありがとう、ママノーラ」
ラフマニが告げればママノーラは満足げに笑みを浮かべる。そしてそのとなりに佇むウラジスノフが声を掛ける。
「молодежи」
シンプルな問いかけ。それと同時にウラジスノフは手元からある物をラフマニへ向けて投げ渡す。それは少し古ぼけた金属製の懐中時計である。きれいな放物線を描いては鈍い銀色のそれは吸い込まれるようにラフマニの手元へと収まっていったのだ。それを視認しながらウラジスノフは告げた。
「組織のリーダーなら、時間は常に正確に把握しろ。全体の行動を決定する上でそれは非常に重要なことだ」
その言葉を噛みしめるようにラフマニははっきりと頷く。ウラジスノフもそれに満足げに頷き返す。
「手紙が出来たらそれを持ってメインストリートのロシア人界隈周辺に来い。俺か俺の配下が接触する。そのさい偽物とは絶対に間違うな。それの真贋を見極めるのもお前の役目だ。いいな?」
「分かった」
接触――当然、ステルス機能を駆使しての事だろう。それが本物か否か、確かめるのはラフマニ自身なのだ。
「話は終わりだね。それじゃ行くよ」
「да」
ラフマニのその言葉を聞きながらママノーラは黒塗りのベンツの中へと戻っていった。そして若い従者が扉を閉めると彼もラフマニに一礼しながら車内へと戻っていく。ウラジスノフもいつの間にかにその姿を消していたのである。
そしてベンツが走り去るのを眺め終えると、盛大に息を吐いたのは誰であろうラフマニだったのである。
「あ~~~! やばかったぁ!! 怒らせないでうまく行った! はあ~~」
そして思わずその場にしゃがみ込む。それを隣でシェン・レイが笑っている。
「おいおい、今までの威勢はどうした? もう電池切れか?」
「しゃぁねえだろ? まさかウラジスノフのダンナまで居るとは思ってなかったしよ! もしかすると囲まれてる可能性もあったしさ。はー、びびったぁ! 本物があんなに怖かったなんて」
「当然だろう? 連中だってその下に膨大な数の配下を抱えている。それらに対してスキは見せれない。それはあれだけの貫禄があってこそなんだ。でも、案外に話のわかる人だったな」
「あぁ、そうだな。あとは周りの連中が俺の企みにどう引っかかってくれるかだ」
「心配するな。その辺は俺がシミュレーションしている。9割方成功するはずだ」
そしてラフマニは立ち上がると周囲を見回しながら告げた。
「それじゃ行くか。ガキたちが腹すかせてまってるからよ」
ラフマニが歩き出し、それと連れ立ってシェン・レイも動く。
この人街の場末の場所で、間違いなく彼らは生きていたのである。
@ @ @
そして、走行するベンツの中、ママノーラは細葉巻をくゆらせながらつぶやいていた。
「あの子、とうとう〝あの話〟を口にしなかったね」
その呟きに隣のウラジスノフが視線を送る。
「あのハイヘイズのガキたちの中に、生粋のロシア人でカチュアって子が居るんだ。やっぱり親無しでね、ハイヘイズの子らと一緒にひもじい暮らしをしてるそうだ。手を出して助けてやりたいけど、1人を助けて他を無視するわけにもいかないからね。気にはなってたんだが――、でも、あのラフマニって子がカチュアの話を盾にして、同情を誘うつもりだったらカチュアだけ連れてくるつもりだった。自分の後ろに居るものをダシにするやつとは交渉する価値はないからね」
その言葉にウラジスノフが続ける。
「だが彼はそれをしませんでした」
「当然さ、あいつは自分がどうすれば仲間を守れるのか? それだけを考えてる。そのためには何でもする。知恵も有る、行動力も有る。あれは将来、大物になるね。投資しておいて損はしない相手さ」
「да」
ウラジスノフもノーラの言葉に素直に同意する。
「アンタも良かったのかい? 愛用の時計くれちまってさ。スペツナズの頃からのなんだろ?」
ノーラはウラジスノフの過去を知り尽くしている。あの懐中時計の価値を知っている。ウラジスノフは真意を口にする。
「それだけの価値の有る男でした」
「そうかい」
ノーラが葉巻の灰をアッシュトレイに落としながら言う。語りかける相手は運転席と助手席の若い二人だ。
「イワン、ウラジミール――いいかい? あれが頭をはる男ってやつだ。小さくとも組織のリーダー、それが身についている。ああいうのに負けない男におなり」
母にも等しい存在であるママノーラの言葉に、二人は頷いて返した。それを認めつつノーラはウラジスノフに指示する。
「ヴォロージャ、間に人を何人か入れて、ハイヘイズの子らに仕事を回しておやり、絶対にピンはねしないように言い含めてね。単に物や金をくれてやるのは別な面倒の種になる。親無し子たちの暮らしがたつようにしておやり」
「да」
そしてそのベンツは走り去る。人の欲望行き交う深淵の街の中へと向けて――