ネズミ王子はキスを望む。
ポカーン。
本当に静かすぎるほど静かだったその空間に、音を響かせるとしたらこれしかないだろう。
両手を後ろで縛られたナナは、目の前でピンと背を伸ばして佇む小さな生き物をマジマジと見つめた。
白いネズミだ。手の中に収まりそうな大きさの。
ネズミは、もう一度言った。偉そうというオプションをつけながら。
「キスさせてやる」
「お断りよ!」
ネズミは、元人間だった。
この国の誰もが知る第10王子であり、名をアレスと言った。
それがなぜ、ネズミになっているかというと、過ぎる好奇心が災いしたのだ。王宮付きの魔女の小さな秘密を暴いてしまい(魔法によって皺だらけの顔を隠していたという秘密だったが)それを笑ったために、小さい頃から魔女の手を煩わせてきたこともあって、とうとう堪忍袋の緒を切ってしまい、魔女はアレスを無力なネズミに変えた。
ナナは、一応アレスを必死に止めたので、魔女の怒りの射程範囲には入らず、王様からもお咎めなしだった。
「キスの仕方がわからないのか?」
きょとんとした顔でアレスが聞いてくる。
「なんで、そういうことになるのかわからない」
ナナはそっぽを向きながら、手首の縄が緩まないか動かしてみた。無理だった。
「キスすれば、この状況がかなり良い方向に改善されるんだぞ?」
アレスは、短い前足を精一杯持ち上げて言うが、ナナは現実を知っている。
「剣があっても、扱えないくせに?」
「あんなものは、護衛に任せておけばいいのだ!」
言い忘れていたが、ナナは貴族ではない。庶民の娘だ。どういうわけか、アレスとは幼馴染だけれども。それだから、ナナはアレスのことを名前以外でも呼べる。
「あんただけでしょ。そういうことを言ってるのは。剣なんか役に立たないからやらないって言って、こういうときはどうするつもりだったの?いざという時って、こういう誘拐された時でしょう?」
「だ、大丈夫だ。そろそろ魔女が見つけている頃だろう」
アレスは、小さな目を泳がせながら言った。
「また、そうやって人を当てにするんだから!」
ナナは、部屋の中を見回した。縄を切るのに使えそうな刃物がないかと思ったのだ。が、イスとテーブルだけしかない。
(ガラスの破片ひとつないし。何かーーー何かーーーあ!)
ナナは、アレスを見つめた。
できるだけ近づいて、にっこりと優しく微笑む。
「アレス、齧って」
「齧る?」
「そうよ。私の手首の縄を齧るの」
「い、嫌だ!歯が折れたらどうするんだ!」
「折れたりしないわよ。ネズミの歯って、丈夫に出来てるんだから。ほら」
アレスに背を向けて催促する。
「王子にこんなことをーーー」
「アーレース」
振り返って、目をちょっと強めに開いただけなのだが、ネズミ王子は縄に飛びついて齧り始めた。
結局、アレスの言う通り、ナナたちは魔女によって無事助け出された。
ナナたちを誘拐した男たちもあっさり捕まったという。
アレスも、ナナも無事にそれぞれの場所へ帰ることができたのだった。
「そろそろ、いい加減にしてくれないかしらねぇ?」
城の一室で、魔女グレーシアはネズミに対してうんざりした表情を向けていた。
「魔法ならいつでも解いてあげるって言ってるじゃないの」
「ダメだ!」
ネズミは、首を縦に振ろうとしない。その瞳というか、脳裏に何を思い浮かべているのかグレーシアには手に取るようにわかっていた。
魔法にかけられ、姿をかえられた王子が一人の娘の真実の愛のキスによって元の姿に戻る、という昔話の挿絵である。
思いつきというか、一時の感情に任せて王子をネズミの姿を変えたことに、グレーシアは後悔していた。とてつもなく激しく。
(あの子のどこがそんなにいいのかしらね?)
ナナの容姿は、飛び抜けていいわけではない。くすんだ金髪に茶色の瞳で、手入れを怠っているのか元々気にしていないのか、肌は日焼けの跡がある。どこにでもいる平凡な娘だ。
「真実の愛のキスって、相手が自分のことを心の奥底から愛してくれてないとダメなのよ?そこのところってわかってる?って・・・聞いてないわね」
ネズミがテーブルの上に横たわって、何やらポーズを取り始めたーーおそらく、キスされる際の場面を妄想しているのだろうーーのを見たグレーシアは、ため息をついた。