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深爪

作者:篠崎春菜
「痛っ」

 僅かに血の滲んだ指先をじっと見て、私は重いため息をついた。滴るほど血が出ているわけではないが、小さな痛みと違和感がある。深爪だった。
 まだ寒い、というよりは、少し暖かくなったくせにまた寒くなった。暖かかった状態からの気温の低下は、まるで私の心境を表しているようだ。ストーブのついている部屋は暖かいが、末端冷え性の私の指先は冷たい。氷のように冷たくて、かじかんで、固くて、自分の指ではないようだった。そりゃあこんな手で爪を切ったりすれば深爪もするだろうと自分に呆れながら、傷口を口に含む。僅かな鉄の味が嫌だった。
 時計を見ると零時を回ったところだった。そういえば、夜に爪を切ると親の死に目には会えないと言う。昔は夜は暗いものだったから、その中で爪を切ると深爪をしてしまうぞ、という戒めだという説もあるが、私の頭の中に深く印象付けられたのは、自分が死んでしまうから親の死に目には会えない、という説の方だった。なるほど、自分が先に死んでしまえばそりゃあ親の死に目には会えないだろう。こんなに便利な道具もない昔は、爪切りでさえある種命懸けだったのだと思うと、知ったときは肝が冷えた。けれど今は、なんとなく、ぼんやりと、「今の深爪で死んでしまえばよかったのに」などど思ってしまうのである。
 ハッとしてあまりの親不孝に心の中で両親に謝りながら、またため息をついた。雨の音がする。その日はもう、爪を切る気は起きなかった。



 右手の中指の爪が違和感があって不恰好だったから絆創膏を貼った。そうすると余計に深爪をしたのだ、と思ってしまったけれど、きっとこれがなくても爪を見るたびに思うのだろう。爪一つのせいで私の気分はブルーだった。

「おはよう。……どうしたの、その指」
「深爪した」
「あー」

 状況を知った親友は「ドンマイ」と励ましてくれるが、それもあまり意味がなかった。ぼんやりとしているのは昔からだが、爪を切っている時は集中しているのだ。いつもは。小さい頃に深爪をした時、深爪をした指の感覚が凄く嫌で、嫌で、違和感が気持ち悪くて、それ以来私にしては慎重に爪切りをしているはずだった。昨日はとくにぼんやりしていたのに、それを自分でもわかっていたのに、なぜ爪なんて切ったのだろう。馬鹿としか言いようがなかった。爪一つで大げさだと言われるかもしれないが、その後の授業もなんとなく指先が気になって、内容なんて頭に入ってこなかった。後の為にノートだけはしっかりとるのだけれど、始終指が視界に入るその作業はあまり嬉しいものとは言えない。憂鬱な日だった。
 その上苦手な体育の授業もあって、寒い中外を駆け回るのを渋い顔で受け入れながら、せめてもの防寒に長袖長ズボンのジャージを履いてグラウンドまでの石段を降りる。その時僅かに、視界を掠める人影には気付かないふりをした。
 体育はフットボールだったけれど、私は蹴られてあっちへ行ったりこっちへ行ったりするボールをノタノタと追いかけるのがいつものスタイルだ。親友は「あんたはインドアすぎるんだから体育の時くらい動きなさいよ」と運動部らしいことを言うけれど、こうも寒いとそんな気は起らない。子供は風の子と言うけれど、あれは真っ赤な嘘だ。もし本当に子供が風の子でいなければならないのなら、私はコタツで丸くなる猫になりたい。
 これもまたぼんやりしていると、ボールがこっちへ飛んできた。こういう時はどうしてか、やる気がなくても早く味方に繋げないととわけのわからない責任感が湧くのも、いつものことだった。下手くそなドリブルをして、前にいた味方にパスをしようと足を上げた瞬間、上げたのと逆の足がボールに躓いた。これだから球技は嫌いだと思った。
 膝がジンジンと熱く、まさかと思って見てみたら中で擦りむいて少なくはない出血をしていた。ジャージを履いていたのにこうなるだなんて、ほとほと今日は運がない。保健室についてきてくれると言う友達に一人で行くと伝え、先生に一声かけてからグラウンドを後にする。階段の上の水道で念のために軽く血を流してから、布が擦れて痛いのを我慢して授業中でシンと静かな廊下を歩いた。グラウンドから近い位置に保健室があるのは、体育の時に生徒が怪我をするからかもしれないなあと思いながら、白い扉を開ける。「失礼します」。廊下より一層静かな室内に声が響いた。

「あれ、麻央?」
「……圭吾?」

 聞き慣れた声がして俯いていた視線を上げれば、そこには見慣れた顔がある。今一番見たくない顔だ。私は眉を顰めながら「何してんの」と仏頂面で、彼の方はそれを気にも留めないような笑顔で。

「ちょっと転んだんだよ」
「男子持久走でしょ。間抜け」
「ひでー」

 そう言いつつも苦笑して、「夜、雨降ってたろ。それで草に滑ったんだよ」と言いながら、彼は自分の膝を手当てしていた。

「先生は?」

 彼の向かいの椅子に座る。キイ、と響いた甲高い音が二人きりであることを知らしめているようで憎らしい。

「なんかちょっと用事で抜けるって。まあ俺慣れてるしな」

 「ふーん」と言いながらその様子を見ていると、圭吾は何かに気付いたように私を見た。「お前は?」とその問いに私が視線を逸らしながら「……転んだ」と言うと、彼は思わずと言ったように噴き出して笑う。

「お前も間抜けだよなー」

 自分の膝に大きな絆創膏を貼って白いネットを被せると、圭吾が自分の膝をパンパンと叩く。眉を顰めてそれを見る私に「やってやるよ」というから、慣れている人に任せることにした。

「あー、よかったな。そんなに酷くないぞ」
「痛いもんは痛い」
「そりゃそうだ」

 圭吾は私の膝にも大きな絆創膏を貼ってネットを被せていく。手際の良さは運動部のそれだった。
 軽口を叩き合いながらの会話。それも随分久しぶりだ。高校生になって彼が部活動に入ってから、話す機会はめっきり減っていた。家は三軒先だけど、わざわざ三軒先まで行くほどの用事も無く、彼も三軒手前で立ち止まるような用事は無かったのだろう。クラスは同じになったけど、結局男女では徐々に距離は開いて行って、全然違う友達を持ち、全然違う時間を過ごした。二年生になって運よくまた同じクラスになってもそれは変わらないでいて、その間に彼には私の知らない知り合いがたくさんできていた。

『ねえ、圭吾くんさー――……』

 噂話にもやもやして一人悶々とするような、そういう間柄ではなかった。少なくとも中学の頃は。なんとなく疎遠になったのも、時間のすれ違いが大きかったのだ。けれどそれも、仕方の無い事だと割り切っていた。こうして話していると懐かしくなる半面、今の距離を思って苛立ちも募る。

「マネージャーさんと付き合ってんの?」

 あーあ、と思った。私はまだ、大人じゃない。子供でもないけれど、大人になり切れてなんていないのだ。距離が開いたって、我慢ができるはずがなかった。呆気にとられるその顔をより一層深い眉間の皴を携えて見たけれど、耐えきれずに視線を下にやりながら、「噂で」と一言。
 全てはそれが原因していると初めから気付いていた。気付いていて、馬鹿らしかった。自分でも。たかが幼馴染に彼女ができたかもしれないくらいで、深爪をして、授業に身も入らず、フットボールで転んだ。聞かずにいればきっと明日も酷い有様だろうが、それもじきに戻っただろう。直接聞いた方がもしかしたら角が立つかもしれないのに。それくらい、私達は話していなかったのに。
 自覚と、後悔と、わけのわからない自分の感情とがこんがらがった頃、圭吾が小さく噴き出した。何を笑っているんだと視線に込めて睨めば、「ごめんごめん」と声がする。

「付き合ってないから安心しろ」

 何が安心なのかはわからない。けれど、頭を軽く叩くように撫でられて、ほっとしてしまったのが悔しかった。改めて睨むとまた笑う。変な奴だ。そう思った。ふ、と圭吾の視線が下がる。

「……指もどうかしたのか?」

 水でふやけて剥がれかけた絆創膏が巻かれた指に視線が向いている。なんだか急に恥ずかしくなって、小さく小さく息をついてから、軽く深呼吸をして、私は「深爪」と答えた。

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