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十一月二十六日――泡沫人のたずねもの

《たずねもの》

さがしている品物。さがし物。


 切れ切れの夢を、いくつも、いくつも見て、もがくように目覚めた。時刻は朝六時、いつも通りだ。残りあと四日。にわかに焦りが吹き出してくる。

「おはようございます」

 暢気な声と笑顔がすぐそこにあった。僕は死神に挨拶をして、身支度を整えに洗面台へと歩く。

 どんよりと疲れの澱んだ顔が、鏡の中で僕を見つめていた。こころなしか顔色が良くない。最近はずっとこうだ。冷たい水で叩くように顔を洗って、今度はリビングへ向かう。廊下の板はスケートリンクみたいに冷えきっていて、裸足の足が切れてしまいそうだった。

 今日のトーストにはほのかな熱が残っていた。流しのコーヒーカップからもまだ湯気が立ちのぼっている。父親が家を出てまださほど時間が経っていないらしい。僕は特になんの感慨もなく朝食を終えて片づけをし、着替えるために自分の部屋へと戻る。

 今朝はすっきりと晴れていた。少し風が強いせいで冷え込みがきつく感じられる。ぎゅっとコートの襟をかき合せて自転車にまたがると、学校へとこぎ出した。

 今日も一番乗りだった。昨日よりさらに十分ほど早い。いつも学校の外周をランニングしている運動部が、今日は裏手の山を避けるように大回りで走っていた。きっと昨日もそうだったのだろう。校門付近には紺色の制服姿もちらちらと見える。直立不動のその姿は、どことなく兵隊を想像させた。

 僕は机に突っ伏した。死神に逢ってから、何時間寝ても一向に眠い。自分が意識している以上に疲れているせいなのだろうけれど、彼自身が眠らない分、僕にそのツケがまわってきているようにさえ思えてくる。

 目が覚めたのはホームルーム開始三分前だった。昨日、手を自分の身体の下に敷いて寝ると腫れた部分が鬱血して大変なことになるということを学んでいたので、僕がだらりと机から手をはみ出させていたせいだろう。何人かのクラスメイトが僕の手をぎょっとした顔で見ては目を逸らしていた。

 走ったり騒いだりして血行が良くなったのか、黴菌がさらに活性化したのか、前よりももう一回りか二回りほど腫れている。病院に行く気はさらさらないものの、自分でもちょっと心配になってきていた。このまま壊死とかを起こして指が腐って落ちたりしたらどうしよう、と思いかけて、どうせあと四日だからいいか、と投げやりな感想を抱く。相変わらず痛みは無い。そのへんの神経がみんな麻痺しているのかもしれなかった。

 何事もなく最後の火曜日が終わっていく。僕に声をかけてくるクラスメイトは、今日は誰もいなかった。どことなく(もしくは露骨に、記憶が一部欠けている僕には判断できない)おかしな僕から何かを敏感に感じ取って、一定の距離よりも近づかないようにしている。野性の小動物みたいだ。事件の話も一切出なかった。まるで、最初から何もなかったと言うように。

 音楽準備室の掃除は今日もなかった。カラーコーンとテープは撤去され、代わりに背の高い紺の制服姿が二人、城の衛士のように手を後ろで組んで立っていた。

 


 あっという間に放課後を迎えた僕は、荷物を持って教室を出た。本当は今日も図書室に行きたかったのだけれど、音楽準備室の物々しい雰囲気に押されたのか、捜査上の問題か、当分は開けられないとカウンター当番らしき生徒に言われてしまったのだ。

 仕方なく司書さんに返却図書を預け、駐輪場へ向かう。

 真上の空はまだ青かったけれど、家や林の木々の先に広がる空はすでに夕方の色に染まりはじめていた。何色というのだろう。ほのかに暗さのある桜色と、やわらかな蜜柑色を混ぜたような色の空。灰色を帯びた雲がゆったりと浮いている。

 冷えた自転車のハンドルを握り、学校を出た。今日はクリーニングに出した冬期制服の受取日だ。自転車をクリーニング店の前にとめて、からからと音を立てるどこか懐かしい引き戸を開ける。カウンターに人の姿はない。

「すみません」

「はーい」

 大きめの声で奥に呼びかけてみると、ややあって朗らかな声が返ってきた。あのときのおばさんの声ではない。もっとずっと若い、女の子の声。心臓を素手でぎゅっと掴まれるような感覚が襲う。

「お待たせし……」

 顔を見せた女の子の言葉が途中で止まった。アーモンド形の目をこぼれそうなほど大きく見開いて固まっている。僕も何も言えなかった。

 あの、図書室のカウンターに座っていた女の子だ。僕が死のうとした理由と共に川に落としてしまった記憶の中にいたであろう、今は何一つ思い出せない女の子。音楽準備室で僕の名前を呼んだかもしれない女の子――。

 奇妙に間の抜けた停滞を壊したのは、奥から出てきたおばさんの声だった。

「受け取りですね。お名前は? ああ、シオリ、こちらは友達かい」

 僕らの同じ制服を見て、おばさんがにこにこと首を傾げる。

 シオリ?

 シオリ……栞。


 細谷、栞。


 暗い水底から小さな泡がはじけるように、一つの名前が浮き上がってくる。細谷栞。細谷栞だ。やっぱり僕も彼女の名前を知っていたんだ。

「浅木です」

 からからに渇いた喉から声を絞り出すと、おばさんは頷いて奥に戻っていった。残された栞がようやく口を開く。

「澪くん」

「細谷さん、だよね。細谷栞さん」

 はやる気持ちを抑えて、わざとゆっくり問いかけると、栞は小さく息を呑んだ。大きな瞳に一瞬驚きが走り、すぐに困惑に塗りつぶされ、やがて透明な雫がみるみる満ちていくのを、僕は言葉を失って見つめていた。

 彼女はやがてさくらんぼみたいな唇を噛み締め、呟くように言う。

「細谷さん、なんて」

 ぽろりとこぼれた一言。

 その後は止まらなかった。すがるような目で僕を見つめ、掴みかからんばかりの勢いでまくし立てる。もし僕らの間に硬く冷たく座り込むカウンターがなかったら、本当に掴みかかっていたかもしれない。

「やっぱり澪くん、変だよ。細谷さんなんて呼ばないで。いつもみたいに栞って呼んでよ。なんかよそよそしくて他人行儀だし、まるで何も覚えてないみたいな顔で」

 礫のような言葉が僕を打ち、かたく閉じこもった記憶の殻をがんがんと激しく叩く。感情的に溢れてきた言葉は残酷なほど真実に近い。言葉は殻を叩き、記憶そのものをゆさぶる。思い出せ、思い出せ、思い出せ――。

 でも、問い詰めたいのは僕も一緒だった。

 僕と栞は一体どんな関係だったのか。十一月二十二日に何があったのか。僕の名前を呼んだのは本当に栞なのか。だとしたら、西村将人と栞の間に何があったのか。湧き上がる衝動を無理矢理飲み込んで、薄い皮膚一枚の中に辛うじて閉じ込める。肺の中にどろどろした熱いものがたまっていく。

「どうしたの? あの日何か」

 そこまで言って栞はふいに手を口元に当て、黙り込む。顔色は真っ青だった。

「どうしたの」

 彼女が何か答える前に、騒々しいビニール同士のこすれる音が近づいてきた。僕の制服を手にしたおばさんがやって来る。栞の様子には気付かない。

「浅木さん、浅木澪さんね。詳しく聞く気はないけど、あんたこれどうしたのさ」

 おばさんは機械的にタグを取っていく手元から目を離し、僕を上目遣いに覗き込む。

「ワイシャツの胸元と詰襟の裾、血まみれじゃないか。あんたみたいに水で洗っただけじゃ到底落ちないんだよ。すぐにクリーニング屋に持って来な。今回はきちんと落ちたけど、次から気をつけなよ」

 血が、ついていた。僕のワイシャツと詰襟に。

 重い木の時計の手ごたえと悲鳴が生々しくよみがえる。ぞくりと背骨の芯から震えが走った。

 水で洗ったのではなく川に飛び込んだのだ。受け取った制服はシミ一つなく、新品のようだった。ずしりとした重みが手にかかる。おばさんに頼んで紙袋をもらい、それに制服をつめて店をあとにした。

 自転車にまたがった瞬間、背後から声をかけられた。血と記憶のことで頭が一杯だった僕は近づいてきていた足音にまったく気付かなかったので、驚いた拍子に転びそうになる。

「うわっ!」

「ごめん」

 僕よりもっとびっくりした顔の栞が、申し訳なさそうに頭を下げる。制服の上にダッフルコートを羽織っていた。

「このあと、時間あるかな」





 栞が向かっているのは、どうやら公園のようだった。 すべり台とブランコ、シーソーがあるだけの小さな公園で、川に近く、すべり台に登ればきらきらと光をはねる川が見えるのだ。僕も小さいころ遊んだような記憶がある。

 無言で足を進める栞にあわせて、僕はゆっくりと自転車を転がしていた。遠くに、通学路であり、僕が飛び込んだ橋が見えた。この距離では爪楊枝よりも細く短く見える。

 立て続けに記憶が暴かれ、今もまた新たな手がかりに手を伸ばしているこの状況を、どこかで怖がっている自分がいた。一つ、また一つと記憶がよみがえってくるたびに、次の記憶を取り戻したら自分が壊れてしまうんじゃないかという予感がするのだ。それはより鮮明に、より深く思い出すたびに強くなり、ほぼ確信になりつつある。

 そういえば死神も言っていた。貴方の心が壊れてしまうかもしれない、と。

 自転車のタイヤが砂利を踏んで、小さく跳ねた。栞は茄子のような形をした雲をぼんやりとした眼差しで見つめている。

 これほど怖いのに、栞を放って家に帰ってしまうことは出来なかった。そうすれば逃げられることは痛いほど感じているけれど、同時にそんなことをすれば死ぬ間際に後悔することも重々分かっていたからだ。泣いても笑っても、あと四日。次の土曜日に僕は死ぬ。人間とは単純なもので、己の死をちらつかされると、決意なんて案外簡単にするっと固まってしまう。

「ねえ、栞」

 歩きながら、隣の栞に声をかける。少なくとも今の僕には初めて呼ぶ呼び方のはずなのだけれど、不思議としっくり馴染んだ。きっと、今までもこうやって呼んできたのだろう。

 栞の肩があからさまに跳ね上がった。頬をほおずきみたいな色に染めて、恨みがましい目で僕を見つめる。そんなに驚いたのか。僕のほうがしどろもどろになってしまう。

「えっと、ごめん」

「……ううん、なに」

 栞の返事はちょっとぎこちなかったけれど、声はクリーニング店にいるときよりも幾分やわらかくなっていた。頬はまだ赤い。夕焼けのせいだろうか。

「なんていうか……さ。こんなこと聞くの、変だって分かってはいるんだけど」

 栞が僕のほうを見た。首を傾げた拍子に、さらさらの黒髪が肩をすべり落ちる。

「僕たち、どんな関係だったのかな。僕が栞を下の名前で呼んでるってことは、結構親しい関係だったと思うんだけど」

 途端、見てそうと分かるほど栞の顔から血の気が引いた。倒れるんじゃないか、と僕は一瞬不安になる。

「ごめん」

「ううん。何で謝るの」

 栞は黙ってしまう。当たり前だ。こんな質問、誰だって混乱するだろう。

 二人とも無言で歩くうちに、公園に着いた。草はすっかり枯れていたけれど、ほとんど記憶の中にあるままだ。栞と僕はブランコに乗って、前後に少しだけ揺らしてみる。きい、きい、と鎖が軋んだ音を立てた。

 僕は栞に、この数日間のことを全て話した。ただし、死神と寿命に関わる話は伏せておいた。

 川に飛び込んで溺れかけたこと。どうして死のうとしたのか覚えていないこと。学校の裏手の事件を知って、ひどく動揺したこと。西村将人と、細谷栞の記憶もすっぽりと抜けてしまっていたこと。出来るだけ早く記憶を取り戻したいこと。でも、本当はそれが怖いと思っていることも。

「……そうだったんだ」

 僕の長い長い話が終わるころには、日が落ちて、あたりが藍色の闇に沈んでいた。栞の髪が闇に溶け込み、反対に白い手が浮き上がって見える。

 栞はしばらく何も言わなかった。溜息混じりにそれだけ呟いて、また沈黙に沈む。僕は、栞がどんどん遠くへ離れていってしまうような錯覚を抱く。ブランコがまた、きいきいと軋んだ音を立てた。普段遊んでいる子どもたちより重い僕らに抗議の声を上げているみたいだ。

 どれくらい経ったのか、ふいに栞が立ち上がって、すべり台に向かって歩いていく。僕も立ち上がって後を追った。

 栞はするすると階段を登り、平らな部分の手すりに軽く腰掛ける。僕もならった。林と人気のない道路に囲まれた公園は信じられないほど静かで、僕らの呼吸の音と微かな衣擦れの音、風が草木を揺らしていく音以外に聞こえるものは何もない。

 そこは高校生二人が乗るには狭すぎて、お互いに体をくっつけなければならなかった。栞も僕も、何も言わない。

 栞の髪と、僕のコートの裾が揺れるなか、風に吐息を乗せるように栞が呟いた。

「綺麗だね」

 溜息交じりの声はほとんど独り言めいていた。

 川面に街灯や車のランプが反射して、季節はずれの蛍の乱舞のように光っている。僕はあの光の中に身を投げたのだ。

 あの橋の上で、最後に何を考えたのだろう。ほとんど茫然自失の状態だったのだろうか。それとも、明確に突きつけられた死に震えていたのか。あるいは何かから逃げようと死に物狂いだったのかもしれない。今の僕に言えることは唯一つ、結局のところ今僕は生きているということだけだ。このことを知ったら、十一月二十二日の僕は何と言うだろう。

「本当に、覚えてないの」

 間近で栞の声がした。冬の水たまりにはった薄氷みたいに薄くて、脆そうな響き。

 僕は頷く。

「そっか」

 栞は溜息をついた。ただひたすらに前だけを見つめる横顔が、泣き顔に見える。

 もう一度ついた溜息の尻尾は、頼りなく震えていた。瞳の中に今にも砕けてしまいそうな光がいっぱいに詰まっている。それは瞬きをした瞬間にこぼれ落ちて、僕の手の甲に当たってはじけた。知らない間に冷えていた手に、その雫は驚くほどあたたかい。

 ああ、生きてるんだな――と、何の含みも脈絡もなく思った。それをもっとはっきり感じたくて、そっと傍らの白い小さな手に手を伸ばす。栞の手はぴくりと震え、それからおずおずと力を抜いた。冷たくこわばっていた手が、ゆっくりと溶けていく。僕も栞も、ちゃんと生きている。

 このときはじめて、僕は少しだけ、死ぬのが怖いと思った。

 いくつもいくつも透明な光がこぼれ、僕の手の甲に落ちた。

 やがて涙の雨がやんでしまうまで、僕は栞の手にそっと手を重ねていた。

 

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