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十一月二十五日――泡沫人のわすれもの

 向かったのは図書室だ。休み時間はあと二十分ほど残っている。カウンターの図書委員以外に人はいなかった。

「すみません」

 僕が声をかけると、カウンターに座って文庫本を読んでいた女の子が勢いよく顔を上げた。艶のある髪が大きく跳ね上がり、川のように一糸乱れず背中へと流れ落ちていく。大きなアーモンド形の目と白いすべすべした肌、小さな唇。控えめに言ってかなり可愛い。

 胸元のリボンはターコイズブルー。僕ら一年生の学年カラーだ。

「司書の先生はいらっしゃいますか」

 女の子は何か言いたげにぱくぱくと口を動かしたけれど、結局何も言わずに司書さんを呼んでくれた。僕は唇をしめらせてから、人のよさそうな司書さんに西村将人先輩のことを聞いてみる。

「ああ、あの子ねえ。全然カウンター当番はやってくれないし、自分が図書室内で騒いだり本を破ったりするし。困った子だったけど、まさかあんなことになるなんてねえ」

 嘆かわしげに頬に手をあてて訥々と語る司書さんに相づちを打ちながら、僕は西村将人先輩の素行の悪さと、クラス、どのあたりに住んでいるのかなどを聞き出した。不自然じゃなかった……と思いたい。

 司書さんはおしゃべりな性格で、口が軽く、途中から話を聞いている僕のほうがひやひやしてしまった。カウンターの女の子が控えめに「……先生」と呟いたのを聞いて、司書さんが慌てて口を閉じたので、思わずほっとしてしまう。

「ありがとうございました」

 いえいえ、とパタパタ手を振りながら、司書さんは僕と女の子にこのことは内緒にするようにとジェスチャーをした。僕は神妙な顔で頷いてみせる。女の子も頷いた。

 休み時間はあと七分で終わる。誰も来ないだろうから鍵を閉めるというので、僕は女の子と一緒に図書室を出た。

「あの」

 教室へと歩き出した瞬間、女の子が声をかけてきた。あらためて聞くとやわらかくて静かで、どこかほっとする、綺麗な声だ。僕は振り返る。

「何ですか」

 初対面の人には同級生であろうとも敬語を使ってしまうのは、僕の癖だ。女の子は司書さんが遠ざかるのを確かめてから口を開いた。桜色の唇がぎゅっと一文字に引き結ばれている。

「澪くん、浅木澪くん」

 大きな瞳に、思いつめたような光が浮かんでいる。彼女はどうして僕の名前を知っているんだろう。僕は戸惑いながら記憶をひっくり返し、やっぱり覚えていないことを確認して、言った。なんだか申し訳なくなってくる。

「……えっと、ごめん、どこかで話したことがありましたっけ」

 途端、一瞬の内に女の子の瞳の中で様々な色が踊っては消えた。哀しみ、怒り、戸惑い、痛み――。

「ふざけてるの、澪くん」

 噛み締められたふっくりした小さな唇が、一瞬だけ真っ白になる。

 唸るような言葉。僕はびっくりして彼女を見つめる。やっぱり覚えていない。僕は彼女を知らない。

 呆然とする僕の前で、彼女の細い肩が震えだした。瞳にみるみる透明な雫がたまっていく。

「ふざけてなんかないけど……。ごめん。どうしたの?」

 女の子はふいに身を翻して、走り出した。足音が遠ざかっていく中で、僕は馬鹿みたいにただ廊下に突っ立っている。頭上から予鈴のデリカシーの欠片もない音が降ってきたけれど、歩き出す気にはなれなかった。

 彼女は誰だろう。覚えていない。知らない。

 奇妙に湾曲した脳の中で、長い長い時間をかけて僕は納得する。たった一つのひどく簡単な事実。僕があの日川に落としてしまった、致命的な記憶の一部分。

 ああ、そうだ。彼女も西村将人先輩と同じように、僕が死のうとした理由に関係があるんだ。

 


 午後の授業はまったく集中出来なかった。

 教科書を読んでも目は文章の上をすべっていくだけで内容は頭に入ってこないし、ノートは何回も何回も書き損じて、しまいにはとることを諦めてしまった。

 シャーペンを握ったままぼんやりと視線を窓の外に向ける。うっすらとかかった雲の隙間から顔を出した太陽があたたかな陽ざしで地面や床を照らしていて、この時期とは思えないほどあたたかかった。そのせいもあるのだろう、教室内の生徒の半分は居眠りをしている。

 僕は、僕一人の中で完結するような、単純な理由で死のうとしたわけではないらしい。色々な人を巻き込んだのか、反対に巻き込まれたのかは分からないけれど、猫が気ままにじゃれた後の毛糸玉のように複雑にこんがらがってしまっていることは間違いないようだ。

 今日を含めてあと五日。あらためて今日知ったことを思い返していくと、僕にはこんがらがった糸を器用に手繰って解きほぐすことなんて出来ないかもしれないな、という気がしてくる。ひとりでに溜息が漏れた。教壇では、初老の数学教師が念仏を唱えるような調子で数式を説明している。

 というか、おそらく出来ないだろう。自分の不器用さは嫌というほど理解しているつもりだし、有力な手がかりはほとんど掴めていない。さすがに一日で何とかなるとは思っていなかったけれど、関係者を見つけても記憶は断片的にさえ浮かび上がってこなかった。図書委員の女の子はひどく怒らせてしまったようだ。それにしても、僕は彼女とどこで知り合ったのだろう。前期の図書委員会か何かだろうか。随分ショックを受けているようだったけれど。

 考えれば考えるほど分からない。自分はちゃんと前に進めているのだろうか。それとも、袋小路にはまって同じところをぐるぐるまわっているだけなのか。カツカツとチョークが黒板を叩く音が、どこまでも僕を追ってくる足音に聞こえてきて、気持ち悪くなってくる。

 いつの間にか黒板に書かれた数式は消され、新たにシンプルで難解なグラフが現れていた。円と直線、直角二等辺三角形を組み合わせているせいで、どこか奇怪な魔方陣のように見えないこともない。じっと見つめていると酔いそうだ。僕は目を逸らし、まっさらなノートに大きなクエスチョンマークを書く。

 迷路をひたすらに走り回るマウスってこんな気持ちなんだろうか。焦りで思考がもつれ、絡まり、困惑や恐怖で足がすくむ。あとは混乱に頭を塗りつぶされて、前も後ろも分からなくなり、みじめに泣くだけだ。

 出来ることなら自分の部屋のベッドにもぐりこんで頭からシーツをかぶり、何も見ず、何も聞かずに震えていたい。そうすれば、何も進展はない代わりに何も損なわないし傷つかない。

 ぼんやりとしているうちに今日最後の授業は終わり、生徒が各々の掃除場所に向かっていた。僕も慌てて立ち上がり、自分たちの班の担当場所である音楽準備室へと向かう。

 音楽準備室は、図書室の向かい側にある僕らの教室よりも少し小さいくらいの埃っぽい部屋で、どうやって演奏するのかも分からない変わった楽器や、古ぼけて読めない楽譜の束などがどさどさと無造作に置かれている倉庫のようなものだ。あとはがたがたと安定しない机と足の曲がった椅子が二つずつ。それと、大量の廃棄図書。おそらくほかに置いておける場所がなかったからだろう。ちなみに、ここの真上が音楽室にあたる。

 急ぎ足で歩いていると、何故か引き返してきたらしい同じ清掃班のクラスメイトが僕を見つけて声をかけてきた。

「今日、準備室の掃除はなしだってよ。なんか、あそこから血痕が発見されたとかで、今警察の人が来て何かやってる……」

 僕は男子生徒の言葉を最後まで聞かずに走り出した。もちろん彼らとは逆方向だ。準備室の前には場違いな赤のカラーコーンが置かれ、黄色いテープが張り巡らされていた。中に人がいる気配がある。

 そっと足音をひそめて近づき、中にいる紺の制服を着た男の人の肩越しに素早く部屋の中を見た。よほど熱中しているのか、まったく気付く様子がない。熱心に彼が霧吹きで何か薬品らしきものを吹きかけている机の上には、ビニール袋に包まれた、木でできた置物のようなもの。それもあからさまにどす黒く変色している。

 足元でガタンと大きな音がした。自分の足がカラーコーンにあたって倒した音だと気付くまでに、少し時間がかかった。

「何をしているんだ!」

 叱りつけるような、ざらざらした声が全身を打つ。腕を掴もうと伸ばされた手を反射的に払いのけて駆け出した。息が荒い。もしかしたら、走りながら何か訳の分からないことを叫んでいたかもしれなかった。

 


 教室に戻る気にはなれなかったので、階段の踊り場に膝を抱えて座り込んで息を整えた。リノリウムの冷たい壁に自分の呼吸の音がやけに大きく響く。涙が滲んでくる。

 寒さは感じなかった。自分の手に震える爪を立て、叫び声を押し殺し、勝手にこぼれてくる涙をそのままにしばらく座っていた。肺と頭の中に火箸を突っ込んでぐちゃぐちゃにかき回されているみたいだ。

 あの木製の置物――見かけのわりに重い、立派な木の置き時計。

 悲鳴。二つの人影。絶叫。哄笑。泣き声。窓から差すやわらかな夕日。金色に輝きながら舞う床の埃。引き抜かれるターコイズブルーのリボン。破かれ、捲り上げられたスカート。

「――澪くんっ!」

 床に広がった見事な黒髪、僕を呼ぶ声。そして――。

 吐きそうだった。逆光の中で動く人影は悪趣味でシュールな影絵のようで、どちらの顔もはっきりとは見えない。物音はひどく鮮明だった。

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