十一月二十五日――泡沫人のしらべもの
翌朝六時ぴったりに、時計のアラームが鳴った。僕は飛び起きて窓の外を見る。薄曇りの空で、真っ白い太陽が申し訳なさそうに顔をのぞかせていた。今日は月曜日だ。残りはあと五日。
「おはようございます」
死神は爽やかな笑顔だった。その笑顔に、怒鳴ってやろうとしていた言葉がどこかへ飛んでいってしまう。結局、何度か口をモゴモゴさせただけで僕の怒りは不発に終わった。
「すみません。随分といっぱいいっぱいの様子でしたし、ニュースの続報を見せたくなかったもので」
心から僕を気遣って、死神はココアに薬を盛ったのだ。そんなものどこにあったのかと尋ねれば、「死神ですから」となんだかよく分からない回答が返ってくる。
「それより、今日は学校ですよ」
「分かってます」
ふと、死神は学校についてくるんだろうか、という疑問がよぎる。死神に確認しようとしたら先回りして答えられてしまった。
「ついて行きませんよ。学校ではつかず離れず、監視させていただきます」
つまり、常に彼の視界に入るところにいるということである。ちょっと安心した。でも、常に死神の視界の中ってどうなんだろう。いいんだろうか。僕のそのあたりの感覚はかなりあやふやになりつつある。
とにかく顔を洗い、教科書を鞄につめて、リビングで朝食をとる。普段は食事中滅多にテレビをつけないけれど、今日は別だ。昨日見逃した情報が流れていないかとニュースにチャンネルを合わせる。
冷えたご飯と味噌汁はやっぱり味がよく分からなかった。ニュースに集中していたせいもあるだろう。でも、世間では毎日必ず大きな事件が起きていて、それぞれの風化はあまりにも早い。夜よりも幾分ハイテンションなアナウンサーは僕らの高校裏手での事件などとっくに忘れ去っているようだった。続報どころかかすりもしない。
「身元は割れているでしょうね」
向かいの席でコーヒーを飲んでいた死神がニュース画面を見ながら呟く。その目は何回も繰り返し見たビデオをまた再生されているかのように退屈そうだ。それはそうだろう。彼は死神、海外で猛威を振るう大型台風やスキャンダルや世界新記録や人間の死は見慣れている。
「そうですね」
食器を洗い、身支度を整えて、着替える。冬期の制服は明日にならないとクリーニングからかえって来ないので、夏用の薄いセーターとスラックスで我慢するしかない。しっかり手袋をはめてコートを羽織った。マフラーは身につける気になれなかった。黒と白のコントラスト、濡れて首に巻きついた感触、べしゃりと音を立てて落ちた死体のような姿……今もくっきりと瞼の裏にへばりついている。この調子だとこれから先、マフラーは巻けないだろう。もっとも、僕の人生はあと五日しか残っていないのだけれど。
暗い考えを溜息と共に吐き出して、僕は口角を引き上げた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
死神は自然な笑顔だった。全然無理している感じがしない。羨ましいな、と思いつつ自転車にまたがり、この二日間歩き続けた道にこぎ出す。頬を撫でる風は穏やかで、凍りつきそうなほど冷たかった。
やっぱり自転車は速かった。途中で弁当を買うためにコンビニへ寄ったにもかかわらず、歩いていたときからは想像も出来ないほど短時間で学校の駐輪場に到着する。僕は当たり前のことに随分と感動し、教室に入った。
僕が一番だった。誰もいない教室は今日に広々としていて、カーテンが全て開け放たれているせいで燦々と差し込む朝日を受けた細かな埃がきらきらと舞っている。机の数もいつも通りだったし、大きな花瓶に花が活けてあることもなかった。裏手の山で亡くなった男子生徒は、このクラスではないらしい。
朝練がある運動部の部員は大概教室に寄らずに直接部室に行くので、ぎりぎりの時間にすべり込んでくる人がほとんどだ。ならば文化部はというと、文化部は文化部で寝坊する人が大変多いので、どちらにせよぎりぎりにすべり込んでくる。あと三十分は一人だろう。僕は窓際の一番後ろにある自分の席に座って、一つ一つの机とその主を照らし合わせながら、クラスメイトの名前と大まかな特徴を思い浮かべる。
緊張しながらやったわりには、拍子抜けするほど簡単に全員の顔や名前、部活動、委員会なんかを思い出せた。記憶が正しければ、僕自身は委員会にも部活動にも所属していない。一学期はたしか図書委員だったはずだ。学期ごとに委員会は変わる。そうだ。僕はじゃんけんで負けて図書委員になったんだ。すっかり忘れていた思い出したくないことまで思い出してしまう。気分が一気に落ち込んだ。
予想通り、たっぷり三十分間は一人だった。風が遮られて朝日が差し込む教室は予想以上にあたたかくて、僕は気付かないうちに机に突っ伏してうとうとしてしまう。
おかげで、はっと目が覚めたときには予鈴が鳴っていた。あと五分で朝のホームルームが始まってしまう。ぐるりと教室を見回すと、机は全てうまっていた。欠席者はいないようだ。教室特有のざわざわとした雰囲気と女子のおしゃべりの声が無性に懐かしい。
ホームルームの開始三十秒前になって、担任の世界史教諭、新田先生が入ってくる。五十代前半のいかにもやる気のなさそうな先生だ。しかし、淡々とした口調で語られる世界史の授業は教科書の説明文の百倍分かりやすいと評判である。
連絡事項は特になかった。一時限目の授業が始まるまで、僕はもう一度机に突っ伏した。徐々に遠くなる教室のざわめきを聞くともなく聞きながら、ああ、連絡事項はないんだな、と思った。生徒に無用な動揺を与えまいとする学校側の配慮なのだろう。
連絡事項はない。裏手で見つかった遺体についても、その後の情報についても、何も。
昼休み。教室で一人弁当を広げていると、華やかな女子のグループが僕の机の方へ近づいてきた。まさか僕に用があるなんて思いもしなかったので、すっかりワカメご飯に集中しきってしまっていた僕は、声をかけられたときに驚いてむせてしまった。めちゃくちゃ恥ずかしい。
「浅木、学校の裏にある山の事件が気になってるんでしょ?」
長い茶髪と気の強そうな女子が、にこやかに笑いながら言う。彼女がグループのリーダー的な立ち位置らしい。たしか大里さんという名前だったはずだ。ほとんど話したことがないので自信はないけれど。
「うん」
僕は休み時間のたびに主に男子のクラスメイトに声をかけてまわっていたから、僕が裏手の山の事件について知りたがっていると女子の間でも噂が出回っていたのだろう。ほぼ話したことのない女子の面々に突然押しかけて事件について聞くのはかなり躊躇われたので、向こうから来てくれたのはラッキーといえばラッキーだ。
彼女たちはしばらく僕に背を向けて何かひそひそと話していたけれど、やがてくるりと向き直った。どの顔にも奇妙な薄笑いがはりついている。お面みたいだな、となんとなく思う。
「何が知りたいの?」
彼女たちが、一体何を知っているというのだろう。
男子に聞いても妙に歯切れが悪かったし、こそこそと互いに目配せをしあったりしていて、有力な情報が何一つ浮かんでこなかったのだ。教師たちは聞くだけ無駄だし、警察は論外。朝からずっと腹で暴れ狂っていた焦りが少しだけ穏やかになり、代わりのように心臓が早鐘のように打ち鳴らされはじめる。
「ええと、とりあえず分かっていることは全部」
大里さんが頷いて話し出す。その目に、どこか僕の反応を観察するような光があった。他の女子もそうだ。何なんだろう。手のひらにじっとりとした汗が滲み、スラックスの薄い生地を握り締める。いや、今は情報が引き出せれば何でもいい。あと五日しかないんだ。
「あれ、殺人で間違いないらしいよ。後頭部を何か硬いもので殴られたんだって。犯人に繋がる証拠は今ところ一切なし。学校にある怪しいものとか、近くにあったものは休みの内に調べ尽くしたんだけど、凶器は見つからなかったって」
大里さんが口を閉じ、代わりにふわふわした髪の小柄でぷっくりした女子が話しはじめる。
「亡くなったのは二年生の西村将人先輩っていう人。図書委員なんだけど、全然仕事はしてなかったらしくて、司書さんとか他の図書委員の人たちからの評判はすごく悪かったみたい」
にしむらまさと。知らない名前だ。学年も違うし接点はないから、知らなくても不自然じゃない。
今度は黒髪を肩の上で揃えて切った女子が、黒縁の眼鏡を押し上げながら眉をひそめて話し出す。
「成績もあんまり良くなかったみたいだよ。素行も悪いし、喧嘩っ早くて、先生からの評判も最悪。不良として校内ですごく有名な人だよ。すぐ女の子に手を出すし、中には襲われかけたなんていう子もいるらしいし」
本当かどうかは分からないけどね、と笑う女子の声を、僕はほとんど聞いていなかった。今の話からすると、西村将人なる生徒は相当評判が悪く、誰から恨みを買っていたとしても何の不思議もない典型的な不良らしい。有名だったというから、やっぱり僕は、死のうとした理由の関係者として彼を忘れているんだろうか。規則正しく叫ぶ心臓の音が、頭全体をぐらぐらと揺さぶっている。
ぼんやりと考えこんだ僕を、もはや僕をそっちのけで話しこむ女子たちの声が現実に引き戻す。
「そういえば、西村先輩は何で図書委員会に入ったんだろうね?」
近くで弁当をかき込んでいた男子が、ふいに話に入ってきた。
「そりゃあ、あれだろ」
「あれ? ん、ああ、あれね」
女子も心得顔で頷いている。男子の顔には一様に、困ったような、へらへらした笑いが浮かんでいた。
何のことだか僕にはまったく分からない。
「だって、ほらよ」
見かねた男子の一人が、諦めたように笑いながら僕に言った。僕が事件について聞いたときと同じように、男子は互いに怪しげなアイコンタクトをとっている。
「図書委員にはさ、おとなしくてイイコな女子がいっぱいいるだろ」
まだ分からないといった顔で首を傾げる僕に、彼は本格的に呆れかえった顔をして見せた。お前それでも男かよ、とまで言い切られてしまう。
「ちょっかい出しやすくて、ちょっと脅せば先公にもチクらない女子がごろごろいるってこと。あの人毎学期のように図書委員だぜ」
僕はやっと意味を理解して、黙り込んだ。毎学期のように図書委員だったのなら、僕と期間が一時期かぶっていることになる。それほど有名だった生徒を一学期の間ずっと知らなかったということはないだろう。
西村将人。やっぱり覚えていない。
「ありがとう」
皆にお礼を言うと、それぞれ、うん、とか、ああ、とか言って各々食事に戻っていく。女子も含みありげな目で僕をちらりと見てから、去っていった。
間違いなく、彼は僕の死の動機に関係がある。僕は食べかけだった弁当をたたんで教室を出た。