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十一月二十四日――泡沫人はまがいもの

 シャワーも浴びずにベッドに倒れこんだ。切れ切れの夢をいくつもいくつも見たけれど、内容は一つも覚えていなかった。

 次の日はどんよりとした曇り空だった。あと六日。あと六日で僕は死ぬ。 体が泥でできているかのように重くて、だるい。ベッドから起き上がるのもおっくうだ。時刻は午前六時を指している。

「おはようございます。今朝は早いですね」

 死神はおとといと同様に、僕の部屋に泊まりこんだようだ。死神に睡眠は必要ないそうなので、きっと一晩中、今のように箪笥に背中を預けて座っていたのだろう。僕は返事もせずに起き上がると、ふらふらと風呂へ向かった。

 熱い湯を浴びながら、そういえば一人になっていなかったな、と思った。死神に監視されているから。習慣とは怖いもので、僕は気付けばほぼ無意識に髪を洗い、ボディタオルで体をこすっていた。風呂場いっぱいに清潔な石鹸と花の匂いが漂っている。

 手を止めて、泡にまみれた自分の手を見下ろした。薄っぺらくて血色の悪い、ごく普通の人間の手だ。この手で、と僕は思う。この、ごく普通の弱々しい手で。

 僕は、人を殺したのだろうか。

 




 食欲はまったくなかったので、冷えた朝食の並んでいるであろうリビングを素通りし、部屋に戻って着替えると、外出の準備をした。死神はやっぱり何も言わなかった。じっと僕を観察している。

 僕が鞄を肩にかけてドアノブに手をかけたところで、やっと彼が声を出した。電話の向こうで聞こえる機械アナウンスみたいに淡々としていて、冷たい声。

「お出かけですか」

「……はい」

 喉と舌がはりついたようで、上手く声が出なかった。ようやく出せた声も掠れている。

「ついていってもいいですか」

 何を言っているんだろう、と僕は死神を振り返った。監視じゃないのか。対象物ぼくの許可なんて要らないだろう。死神はすでにコートを着て、仕事鞄を抱えていた。眼鏡が黄色っぽい朝日を反射して、その奥の目は見通せない。

「もちろんです」

 軋んだ悲鳴を上げるドアを閉める。廊下は冷たかった。死神は、僕がどこへ行こうとしているのか訊こうとはしなかった。おそらく分かっているからだろう。

 早朝の住宅街を歩き、ほとんどのシャッターが閉まった大通りを抜け、橋を渡る。最初はゆっくりだった歩調はだんだん速くなり、学校のすぐ手前にある神社を過ぎるころには完全に駆け足になっていた。死神は走っている様子もないのに、ちゃんと僕の横を進んでいる。僕のほうがおかしくなりそうだった。

 誰もいない、学校の裏手。不気味なほど静かな木々の間には物々しいテープが張られ、立ち入ろうとする人間を拒んでいる。普段ささやかな散歩スポットとして人気な小道がぽっかりとひらけ、奥へと続いていた。

「立ち入り禁止のようですね。どうしましょうか」

 死神が呟く。僕は答えずに黄色いテープを押し上げた。できた隙間に体をねじ込むようにして、くぐる。長身の死神も多少苦労しながら同じように侵入した。足元の枯葉はじっとりと水分を含み、踏むと湿った気味の悪い音を立てる。鳥の声一つしない。本能的に怖かった。入ってはいけない、引き返せと脳が叫び、心臓がけたたましい警鐘を鳴らしている。僕はそれらをみんな無視して、足を踏み出した。

 僕が恐れるからには何かがある。無意識に避けようとしているのだ。僕が死のうとした理由に、ここは必ず関係がある。

 死神の足音を聞きながら、僕は小道を奥へ奥へと進んでいった。どんどん嫌な感じが強くなる。十五分くらい――あくまで僕の感覚だ――経つころには、一歩ごとに汗が噴き出し、眩暈がするようになっていた。何度か木に寄りかかって立ち止まりながらも、なんとか前に進んでいく。

 もう少し経って、太陽が完全に僕の足元を照らすようになるころには、どれくらい歩いてきたのかまったく分からなくなっていた。時間の感覚も距離の感覚も相当に麻痺しているな、と頭の片隅で考えた。

「このあたりのようですね」

 死神がふいに足を止め、呟いた。しきりにあたりを見回しては、鼻をひくつかせている。まさか、現場に残された血の匂いでも嗅ぎ分けているのだろうか。僕がびっくりして死神を振り返ると、彼は苦笑して自分の足元を指差す。

「随分と落ち葉が乱れて踏み固められていますし、たくさんの足跡もある。うっすらとですが煙草の匂いもしますよ」

 言われてみればその通りだった。煙草の匂いは分からないが、足跡はいくつも見つかった。明らかに大人の男のものだ。なにか大きな幕をかけたかのように、僕のすぐ横の木々の枝が折れて垂れ下がっている。ここが捜査の現場だったのは間違いなさそうだ。

 ここに、男子生徒の遺体が転がっていたのだろう。僕の足元に大柄な男子生徒が制服姿で転がっているような錯覚に襲われて、くぐもった悲鳴を上げてしまう。

 死神は冷静だった。

「もうすぐ人が来てしまうかもしれません。確かめたいことがあるのなら、早く済ませてしまったほうがいいですよ」

 死神は腕を組んで、僕を見据えていた。その視線は死神にふさわしく、まるでシャーレの中の微生物を観察しているかのように冷たい。

 僕は頷いて、そっと、折れた木々を掻き分けた。ゆっくりと慎重に進んでいく。絶対に見落とさないように。

 ――何を?

 僕は何を探しているんだ。まったく分からないのに、目は勝手に地面を舐めるようにすべっていく。眼球が右へ左へとうねうね動き、視界が定まらない。制御も出来ない。誰かに遠隔操作されているみたいだ。気持ち悪くなってきた。苦くてすっぱい唾を飲み下す。

 目の前で狂ったように腐った落ち葉を掻き分ける手が自分のものだと気付くまでに、かなりの時間が必要だった。小枝に引かけたらしく、指先から溢れたどす黒い血が手のひらを伝って手首を汚した。痛みは無かった。手は止まらない。目も、手も、何かを執拗に探している。

 何を?

 他人の手ではらわたをまさぐられるような不快感に、目と手以外の全身が悲鳴を上げる。でも、諦めて耐えるしかなさそうだった。この先へ進むためには、何かがあったら体が勝手に反応するだろうと割り切って、十一月二十二日の僕に体を預けるほかない。

 そのまま、どれくらい経ったのだろう。

「誰だ!」

 落ち葉を滅茶苦茶に踏んで引き裂くような足音と、太い怒鳴り声。すぐ近くだ。見回りの警察官だろうか。

「見つかりましたね」

 死神が舌打ち混じりに言って、斜面に這いつくばった僕の腕を乱暴に掴んだ。そのまま駆け出す。ものすごい速さだ。僕は半ば引きずられるようにしてあっという間に小道を走りぬけ、学校とは反対側の出口から転がり出た。

「あれだけ曲がりくねった道を……よくあんな速さで……」

 息も絶え絶えで座りこむ僕を涼しい顔で眺め、微笑む死神。彼自身は息一つ乱れていない。手には僕が買ってきてもらったスポーツドリンク。

「死神ですから。それで、澪さんは何か見つけましたか?」

 その顔を見て、僕は死神が僕の記憶を探っていたことを確信する。ニュースを見た直後だろうか。そういえば、「失礼」と呟いていたような気もする。

「僕の記憶、探ったんですか」

「ええ」

 あっさりと肯定がかえってきた。僕はそれ以上何も言わずに、ひんやりしたアスファルトを見つめる。

「思い出せましたか」

「いえ……」

 首をゆるゆると横に振った。死神の表情は分からない。

 ここでもやっぱり、安堵している自分がいた。こんなに思い出すのが苦しいのか。一体、何があったのだろう。自分のことなのに分からないのはひどく気分が悪くて、でも、少しだけ安心できた。思い出さないうちは壊れてしまうこともない。

 帰りましょうかと立ち上がった死神につられて立ち上がると、立ちくらみがした。後ろに倒れこみかけて死神に支えられる。

「すみません」

「いいんですよ」

「あの」

 素直に言葉が出てこない。あと六日。躊躇っている時間なんてないのに。

「ありがとうございました」

 死神は微笑んで、もう一度、いいんですよと言った。まだ出逢って三日しか経っていないはずなのに、ずっと前からこんな会話を繰り返してきたような、不思議な感じがする。

 ぽんぽんと背中を叩かれて、歩き出す。足は少しだけ軽くなっていたけれど、あの湿った落ち葉のような、気味の悪い嫌な感覚はしっかりと脳内にこびりついて消えなかった。





 家に帰ってから、僕は真っ先にシャワーを浴び、ベッドに倒れこんだ。高校裏手の山をあとにして家へと歩いているときから悪寒が止まらなかったのだ。考えてみれば秋の終わりの夕暮れにあれだけ冷たい川に飛び込んだのだから、熱くらい出しても何の不思議もない。疲れで一気に免疫力が低下したんだろうか。喉も渇いていたけれど、起き上がるだけの気力も残っていなかった。

 死神は優雅な手つきでコートを椅子にかけると、ぐったりとベッドに転がった僕の足元に座り込んで本を開いた。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。僕の本棚の本だ。

「お借りしますよ」

「どうぞ……」

 淡い水彩画の夜空を瞼の裏に浮かべながら、僕は夢のない眠りに落ちた。

 


 目を覚ましたのは夕方の六時過ぎだった。何時間眠っていたのだろう。窓の外はとうに日が暮れて、冷たくてどこかよそよそしい闇が広がっている。

「目が覚めましたか」

 死神は僕が最後に見たときとまったく同じ姿勢で座っていた。でも手元の本は変わっている。ギャリコの『スノーグース』。明かりはついていない。

「すみません」

「どうして謝るんですか」

 死神はいかにもおかしいというように、クツクツと笑った。それから座ったままで長い指を器用に使い、本棚に本を戻すと、立ち上がる。僕もベッドから上半身を起こした。

 頭の中に霞がかかっているようで、うまく回らない。胃のあたりがどんよりと重かった。当然のように食欲はない。風呂で念入りにこすったにもかかわらず、爪の間には泥が入り込んでいた。まるで壊死しているように見えて、僕はぞっとして肩を震わせる。

 死神はぱちりと明かりのスイッチを押して、肩越しに僕を振り返った。

「ちょっと待っていてくださいね」

 何をしに行くつもりだろう。僕が頷くと、死神は小さな子供をあやすような笑みを浮かべてから部屋を出て行った。

 きっかり十分後、部屋に戻ってきた死神の手には小ぶりなおぼんが乗っていた。

「風邪薬と水、消毒薬、ガーゼ、包帯、ココアです」

 どこから持ってきたのだろう、と僕は首を捻ってから、リビングのかなり分かりやすいところに薬箱が置いてあったことを思い出す。死神は学習机の上におぼんを置くと、消毒薬とガーゼと包帯を持ってベッドの端に腰掛けた。こうして座っても、視線は彼のほうがずっと高い。ぼんやりとそれらを見つめる僕に、死神はかすかに眉根を寄せて言う。

「手、腫れていますよ。黴菌が入ったんじゃないですか」

 ずきん、と思い出したように左手が痛んだ。ゆっくりと持ち上げた左手は人差し指の先から第一関節くらいまでが青紫色に変色し、熱を持ってグローブのようにパンパンに腫れている。

「気付かなかったんですか?」

 死神は呆れたように言いながら器用に傷口を拭い、ガーゼをあてて包帯を巻いていく。あっという間に出来の悪いロボットみたいな手が完成した。

「本当は病院に行ったほうがいいのでしょうけど、ね」

 僕に行く気がないということは重々分かっているといった口調だった。そのとおりだ。時間がない。

「もう一眠りしたらいかがですか。明日は学校でしょう」

 死神がココアを僕に手渡しながら言う。僕はお礼を言ってカップを受け取り、一口すすった。熱くて甘い。

「澪さんはかなり濃いめがお好きなようですね。風邪薬もちゃんとのんでくださいよ」

「はい」

 僕が昨日、自分の足にココアをぶちまけたときに気がついたのか、記憶を探った時に気がついたのかは分からなかったけれど、どっちでもよかった。素直に嬉しい。風邪をひいたとき、トラブルがあったとき、隣に誰かがいてくれることがこんなに心強いとは思わなかった。たとえ、それが死神であっても。

 ふいに目の奥がじわりと熱くなって、僕は慌てる。誤魔化すために慌ててココアをすすった途端、ふっと、何かが頭の中をよぎった。

 前にも同じようなことを思って、同じようにココアをすすったような……。向かいで笑っているのは誰だっただろうか。

 奇妙な既視感を、錠剤でものみこむようにしてココアで流し込む。気のせいだ。昔にドラマか何かで見た映像と重ねてしまっているのだろう。そうでなければ、僕は一緒にいた誰かごとすっぽり忘れていることになる。そんなこと考えたくもない。あり得る、と叫ぶもう一人の僕を無理矢理笑い飛ばして、カーテンの向こうを見る。月は齧られたように欠けていた。

 なんとか一杯のココアを飲み終えて、死神が持ってきてくれた風邪薬をのむ。ごろりとした感触が喉を落ちていくのを感じながら、僕は眠気をこらえていた。もともと人と比べて睡眠時間は長いほうだったけれど、これほど早い時間に眠たくなるのは久しぶりだった。

 何かおかしい。

「おやすみなさい、澪さん」

 死神の声が妙にふにゃふにゃして聞こえる。体から力が吸い取られる。僕は何か言おうとして、言えず、ベッドに再び倒れこんだ。

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